10.シャルロット・ルフェーブルは企んでいるⅠ
「……どうしてこうなった。何なんだこの状況は……」
香月は重いため息をつきつつ、左右から迫る存在感に目をやった。
ここはルフェーブル家の応接室──いや、正式にはサロンと呼ぶべき空間だ。
壁には年代物のタペストリーが掛かり、アンティークの調度品が品よく佇み、窓辺のカーテンには金糸の刺繍が優雅に揺れている。
格式と趣に満ちたその広い空間の中で、なぜか自分の半径30センチだけが異様に暑苦しい。
左には上機嫌なシャルロット。
右には、ジト……とした視線のクレア。
本来なら、ローテーブルを挟んだ向かいにも椅子はあるし、ソファの端もがら空きだというのに──二人は、なぜか左右からぴったりと密着して香月を挟み込んでいた。
しかも、さりげなく──いや、もはや確信犯的に胸を押し当ててきている。
遠慮という言葉は、彼女たちの辞書には存在しないらしい。
柔らかなものが二つ、まるでサンドイッチの具のように香月の腕を上下から挟み込んでくる。しかも両サイドから。
肩幅の関係で、身動きが取れない。物理的に。
左を見れば、胸元の大きく開いたドレスから覗く、張りと弾力にあふれたシャルロットの豊満な胸。
右を見れば、数ヶ月前に「Dカップになった」と自己申告してきたクレアの、吸い込まれそうなほど柔らかな胸。肘が、もはや半分埋もれている。
(いや待て、シャルロットはともかく、クレアまで……!?)
ちらりと右を見やると、クレアはしれっとした表情のまま、ティーカップを口に運んでいた。
パーカー越しの感触が、否応なく現実として突き刺さってくる。
香月の視線に気づいたのか、クレアは顔は向けずに、ジト……とした目線だけで不機嫌さを訴えてきた。
『……何? カヅキは不満?』
伝声魔術越しの声は低く、感情の起伏を抑えたトーンだ。
笑っていないのに、笑っているわ風を装っている。その方が余計に怖い。言葉を一つ間違えれば、機嫌を損ねかねない。
そして、その不機嫌の原因であるシャルロットは──
恋人によりかかるような姿勢で身体を預け、悪びれる様子は皆無だった。
「だって、ソファが狭すぎますのよ。……これはもう、仕方ありませんわ。ええ、不可抗力ですわ!」
そう言ってさらに腕を組み、わざとらしく頬を紅潮させながら、香月の肩に頭を乗せてくる。
(不可抗力じゃねぇ、完全に故意だコイツ)
香月の脳裏に、『異議ありッ!』の文字が一瞬よぎった。どうにもツッコミたい打開したいのだが、左右に気を取られ過ぎて頭が回らない。無理に押し返す訳にもいかないであろうこの状況。香月はただただ苦い顔をするしか無かった。
「……いい加減離れろ。距離感を考えろよお前ら」
「や〜ですわ♡」
『やだ』
即答だった。しかも秒だ。
ふと、向かいの席に視線を向ける。
誰も座っていない。ローテーブルには紅茶のポットと三人分のティーカップが整然と並んでいるだけだ。
(あそこに座ってくれよ……てか、なぜ俺を中心に展開しようとするんだこいつら……)
ちなみに、彼が座る前には「こっちの席が日当たり良くておすすめですわよ♡」とシャルロットに腕を引かれ、反対側からは何故かシャルロットの言葉に乗るように「早く座って」とクレアに背中を押されて、まったく逆らえない状況でこのポジションに誘導されていた。
シャルロットに関しては、火を見るより明らかに計画的犯行。クレアはそれに気づいた上で対抗意識を燃やしている……そんな構図だ。
頭が痛くなってくる。
香月は諦めるように内心の悲鳴を押し殺しながら、かろうじて口を開いた。
「……話を進めよう。俺たちは──」
と、言いかけて──香月の思考は、一瞬、途切れた。
視線を落とすと、腕に触れている感触が、さっきより明らかに重い。
いや、面積が増えたわけじゃない。密度だ。
左右から、あまりにも自然に、そしてあまりにも柔らかく、距離を詰められていた。
(何なんだ……この状況、さっきよりヤバくないか……?)
左にいるシャルロットは、紅茶のカップを優雅に持ちつつ、微妙に身体の向きを変え、胸元の開いたドレスをさりげなく――いや、明らかにわざと見せている。
髪をかきあげるたび、白檀の香水がふわりと漂う。その香りとともに、頬がすぐそばに寄ってくる。
本人に『近すぎる』という自覚はなさそうだが、口元には意味深な笑みが浮かんでいた。
「ふふっ……緊張なさらないでくださいまし、カヅキ。こういう時こそ、深呼吸ですのよ?」
そう言って、胸を強調するように、ゆっくりと呼吸してみせる。
──その動きに合わせて押し付けられる感触に、香月の思考回路は半ばショートしかけた。
右側のクレアは、そんな様子を視界の端で捉えつつ、まるで無関心を装って紅茶を口に運んでいる。
だが、肘の位置が明らかにおかしい。完全に腕に乗せている。物理的に密着の限界を超えている。少しでも手を動かせば、事故る。いや、もう事故っている。
『……あー、なんか暑いね』
ぼそっとクレアがつぶやき、無表情のままパーカーのジッパーを下ろし始めた。
下はタンクトップ一枚。うっすら汗ばんだ鎖骨と首筋が露わになり、視線が一瞬そちらに引き寄せられる。
数ヶ月前の自己申告通り──いや、それ以上に、確実に成長している気がした。
(いや、待て……。今ここでその情報、必要あるのか!? 違う、違うぞ落ち着け……!)
「見てない」「見てない」と心の中で繰り返す。
が、現実は非情だ。見えてしまっている。というか、物理的に当たっている。
香月は緊張で呼吸が変に荒くなるのと、自分の肌から多量の汗が流れるのを感じた。
(いや、何なんだ……。こ、この試されてる感じは……)
何とか話を進めようとすればするほど、左右から色気の波状攻撃が押し寄せてくる。
視線を合わせるのが怖くて地図に集中しようとするが、シャルロットの香水とクレアの柔軟剤の香りが重なって、思考がまとまらない。
甘すぎる空気に、頭がくらくらする。フローラルが過ぎる。
「そういえば、クレアったら──夜の飛行機で香月と手を繋いでいたんですって?」
不意に、シャルロットが甘い声で切り出す。
クレアの表情が、ほんの少しだけ険しくなった。
『……何それ。監視カメラでも仕掛けてた? 気持ち悪』
「あら♡ 情報は力ですわ。航空会社に潜入している構成員から、こっそり教えていただきましたの。フランス本部の調査網を使えば、このくらい簡単なことでしてよ?」
紅茶をひと口含んだシャルロットは、ふわりと微笑む。
そして一拍置いて──小声で、しかしはっきりと囁いた。
「それに……隣に座っていると、分かりますわ。カヅキったら、ほんのり女の子の香りが残っていて……♡」
そのまま、シャルロットは香月の首筋に鼻を寄せる。アウト。完全にアウトだ。すべてがラインを踏み越えている。
シャルロットの吐息が近い。香月の思考が一瞬で真っ白になった。
『ねえ、カヅキ。……ボクと、このバカフレンチ。どっちが現実的に見える?』
唐突に、クレアが投げかけてくる。
何気ない口調だが、言葉には明確な圧がこもっていた。
「は? ちょ、な、何の話だよ……?」
香月は動揺しながら問い返す。脳がついていかない。
「恋人として、って意味じゃありませんこと? うふふ、クレアったら大胆ですわね♡」
『違うって言ってるだろこのド派手フレンチ女』
二人が浮かべる笑顔の奥で、見えない刃が交錯する音がしたような気がした。
そのあまりの迫力に、香月はぐったりと項垂れた。
「……あの、話を……進めさせてくれないか?」
目の前の紙地図に顔を伏せたくなる衝動を、なんとか堪える。
二人のやわらか包囲網に挟まれながら、香月は必死に声を絞り出した。
「……頼む。ちょっとでいいから、黙って聞いてくれ。大事な話なんだ」
逃げ道はない。動けばぶつかる。目を合わせるのも地雷だ。
それでも、いまだけは集中しなくてはいけない。
人形師との対決は、もう目と鼻の先まで迫っているのだ。
(……いや、待て。先に崩れるのは俺の理性の方じゃないか……?)
このソファからは、もう逃げられない。どこにも退路はない。
ならばせめて──会話だけでも前に進めるしかない。
香月は覚悟を決め、再び口を開いた。
「俺たちは──」
「ふふ♡」
言いかけた瞬間、左から甘くくすぐるような笑い声。
シャルロットが香月の袖をそっとつまみ、その指先で生地をくるくると弄びながら、耳元に吐息まじりの声を落とす。
「緊張してますのね? カヅキったら……お耳まで真っ赤。かわいい♡」
(違う。赤いのはお前らのせいだ!!)
突っ込みたい衝動を内臓ごと飲み込み、香月は必死に耐える。
背中にじっとりと汗が張りつく。にもかかわらず、気力を振り絞って続けた。
「……イタリアの北部。ロンバルディア州──コモ湖のさらに奥に、カステル・フィーノという村がある。その村の外れに、誰も近づかない古い館が──」
『カヅキ、真剣な顔してるけど……顔、真っ赤。暑い? もしかして熱ある?』
右から、クレアの無表情な声が割り込んできた。
口調は冷静なのに、手はまったく冷静じゃない。
いつの間にか、香月の太ももに手が置かれていた。しかも──指先で、さりげなくすりすりと撫でてくるという暴挙だ。
(おい待て、何気なくやってるけどそれアウトだろ……!)
極めつけに、肩にそっと頭を預けてきたかと思えば──
囁き声で、さらに追い打ち。
『……脱いだ方がよくない? ボクはもうパーカー脱いだよ?』
「脱がねぇよッッ!!!!!」
反射的に、香月の声が跳ね上がった。
完全に裏返った。情けないとか言ってる場合じゃない。
ツッコまなきゃ、もう人格が崩壊するレベルだ。
裏返った声が響くと同時に、香月の顔は真っ赤だった。
耐えている。限界まで、耐えている。
(くそ……これ以上はマズい。理性が……焼き切れる……!)
二人の柔らかい圧力。甘い香り。肌の温もり。
どこからどう見ても、これはもう作戦会議どころじゃない。この場は香月にとって地獄だった。柔らかくて甘い、終わりの地獄だ。
香月は震える手をそっと胸元へと持っていき、自分を落ち着かせるようにする。背中の自在術式を意識し、まるで祈るように発した。
「……Leaping《空間跳躍》」
パンッ──と音がして、視界から香月が蒸発した。
次の瞬間、香月の気配は消え、ソファの空いたスペースには熱気と──柔らかい空気の余韻だけが残った。
『……逃げたね』
「ええ。でも──ふふっ、逃げちゃうだなんて、照れてたのかしら。モン・シューったら、可愛らしいわ♡」
紅茶の香りが、再び静かにサロンを満たす。
シャルロットは扇子で口元を隠しながら、ぽつりと呟いた。
「……エクレール」
その呼び声に応えるように、サロンの片隅で魔術陣の光が淡く瞬く。空間跳躍魔術の気配だ。
次の瞬間、ルフェーブル家の専属メイドが、音もなく姿を現した。完璧な一礼をしたまま、彼女は主の次の言葉を静かに待つ。
「……準備を。あの方が部屋に戻られたら、きっとお疲れが出ますわ」
「かしこまりました、お嬢様」
横でそのやり取りを聞いていたクレアは、シャルロットをじっと見つめる。
光を受けて翡翠のように輝くその青い瞳には、明らかな訝しみが宿っていた。
『……シャルロット。まさか、また何か──企んでるんじゃ……?』
「まあ、クレアったら。疑うだなんてひどいですわ。わたくしはただ──お客様をおもてなししているだけですもの」
にこやかに言い切るシャルロットの横顔には、どこか満足げな色すら漂っている。
だがクレアは、胸の奥に芽生えた違和感をどうしても振り払えなかった。
そしてほんの数分後──
廊下の物陰で、全身汗だくになって前屈みになっている香月の姿が、ルフェーブル家のメイドによって目撃されるのは、また別の話である。