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【第五章完結】現代魔術は隠されている  作者: 隠埼一三
Episode Ⅴ『人形師編』
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9.薔薇色の衝突

 機内の灯りは落とされ、青白い足元灯だけが通路を淡く照らしている。

 成田空港を離陸してから、およそ三時間。機は洋上の静寂を滑るように進んでいた。


 香月はエコノミーの窓際に身を沈め、闇に沈んだ外の景色をじっと見つめていた。

 機内食の回収も終わり、周囲の乗客はほとんどが眠りにつくか、ノイズキャンセリングのヘッドホンを着けて映画に没頭している。


 静けさと、孤立。

 この密閉された空間こそ、香月にとっては今もっとも安全な場所だった。

 数列前の通路側の席に座っていた小柄な影が立ち上がり、周囲の気配を探るようにして、香月の席へと歩を進めてくる。

 クレアだった。


 黒いパーカーのフードを目深にかぶり、伊達メガネをかけている。姿勢もわざと崩して、まるで気の抜けた大学生のような風体だ。

 普段の彼女からは想像もつかない演技だが──それだけに、どこか切実さがにじんでいる。


『……隣、空いてる?』


 香月は無言のまま頷く。

 クレアはためらいなく隣に腰を下ろした。誰も気に留めない。他人として過ごしてきた時間が、ここでようやく緩んだ。

 ふう、と小さなため息が、隣からこぼれた。


『保安検査、無事だった?』

「ああ。少し尾がついてたが──なんとか撒いた」


 香月は、機内の低い雑音に紛れるような声で囁いた。

 クレアはわずかに頷き、バッグのポケットからペットボトル入りの水を取り出す。

 ひと口飲んだその手が、かすかに震えているのを香月は見逃さなかった。


「……疲れたか?」

『少しね。でも、カヅキに比べれば』

「ああ……まさか日本本部から追っ手が来るとは思ってなかった」

『付け焼き刃の作戦にしては上々にこなしてたと思うけど?』

「そりゃ、こっちはここで止められる訳にはいかねえよ。人形師が待ってんだからさ」


 口調は軽かったが、その目元には、緊張の余韻が色濃く残っている。

 魔術協会の包囲を抜け、空港で合流し、そして今空の上にいる。それは確かに成果だった。

 だがまだ、逃げ切ったとは言いがたい。

香月を抹殺指定魔術師として捕獲対象とした相手が古代魔術師の分魂体であるなら、何らかの手段で香月の肉体を奪いに来るのは容易に想像できた。

 たとえこの作戦が日本本部の極秘扱いであっても、国内だけで収束する保証はない。


『あと、十時間くらいだっけ? パリまで』

「ああ。時間はたっぷりある。……少し眠っておけ」


 香月の言葉に、クレアはゆるく首を振った。


『眠れないよ、こんな時に……ねえ、カヅキ』

「ん?」

『どうして、そこまでして……イタリアまで行こうとしてるの?』


 声は穏やかだったが、その奥には、何か確かめようとする気配があった。


 香月はすぐには答えなかった。

 窓の外──海と空の境も見えない闇を、ただじっと見つめる。


「……向こうでしか得られないものがある。俺の果たすべき因縁がな。──それだけだ」


 短く、だが揺るがない声音だった。


「……そっか。そう、だよね……」


 クレアはそれ以上何も聞かず、座席に身を預けると、膝に毛布を掛ける。

 そのまま、そっと香月の手を握ってきた。指先を絡めるように、確かめるように。

 香月は、その手を握り返す。

 沈黙が訪れる。

 それはようやく手に入れた、束の間の安堵だった。


 香月は目を閉じた。

 魔力の枯渇は限界に近い。それでもようやく、いま少しだけ──眠れる。


 ──嵐の前の、短い静寂。


 イタリアの地で、何が待ち受けているのか。それを思うには、まだ早すぎた。


     ◆


──フランス・シャルル・ド・ゴール国際空港。


 夜明け前の空に、重たい灰雲が垂れ込めていた。隙間から覗くわずかな群青が、冷たい大気の中ににじんでいる。


 成田からおよそ十二時間──

 香月とクレアは、乾いた冷気に頬を刺されながら、静まり返った国際線ゲートをあとにした。

 アスファルトの隅には、雨を吸った落ち葉が貼りつくように積もり、時折吹く風に押されて、ぬるりと滑っていく。


 吐く息は白く、指先から体温がじわじわと奪われる。革手袋の中の手が、わずかに強張っていた。


 入国審査は拍子抜けするほどあっさりと終わった。

 だが香月の意識は緩まない。魔術協会が動いている以上、「表のルート」はどこまでも警戒すべき対象だった。


 空港ロビーの隅、人目から外れた壁際で立ち止まり、香月はクレアに小声で言った。


「……通信は使わない。GPSも、スマホの電源もオフだ。何かしらの通信手段を現地調達できるまではここから先は、目と足で動く」


 クレアは無言で頷く。

 代わりに、伝声魔術を通して耳元で囁くような声が香月の耳小骨を震わせた。


『了解。問題ないよ』


 その表情は変わらないが、瞳の奥に微かな緊張が宿っていた。

 空港のカフェで簡素な朝食──クロワッサンとエスプレッソ──を済ませたあと、二人は市内行きのバスへと乗り込んだ。


 Wi-Fiは使用しない。地図アプリも開かず、スマートフォンの画面は一度も光らなかった。

 香月の手元には、空港の売店で購入した観光地図。光沢のない、ざらついた紙質が、今ではかえって頼もしく思えた。

 地図にはすでに何本ものペンの線が走り、角は折れ、表紙は湿気を含んでめくれかけていた。


「……ルフェーブル家の所在地は、この区画にあるはずだ。だが、慎重に接近する。監視が張られていてもおかしくない」


 香月は紙地図と、駅構内の案内板、バス停の時刻表を照らし合わせながら、いくつもの乗り換えを繰り返していく。

 新聞広告の不動産地図、観光パンフレットの一行にすら注意を払い、地名と区画の対応を頭に叩き込むように。


 まるで、時代遅れのスパイか、冷戦時代の諜報員のようだった。


 だが、今この瞬間に必要なのは、魔術でも最新の情報機器でもない。

 すべてを疑い、すべてを遮断し、静かに移動する──その旧式のやり方だけが、居るかもしれない追跡者の目をかいくぐる唯一の手段だった。


 日本本部からの追手が動いているとすれば、指揮を取っているのはあの男──小泉蒼一郎本部長だ。

 ならば、日本を出たからといって油断はできない。

 たとえ異国であろうと、日本本部から手が届かない保証はどこにもない。


 パリ中心部の混雑した駅をいくつも抜け、北へと向かう郊外電車に揺られること三十分。

 車窓の外には、整然と並ぶ住宅と、小さな公園が点在する落ち着いた街並みが広がっていた。

 道端の木々はすでに葉を落とし、その枝を冷たい風に揺らしている。


 そして、閑静な住宅街の奥──

 長い並木道の先、石垣に囲まれた古い屋敷が見えてきた。白漆喰の屋敷だ。

 それが、シャルロット・ルフェーブルの生家だった。


 長く伸びた石垣の上には蔦が絡まり、錆びた鉄柵の門は、季節の終わりを告げる冷たい風にかすかに軋んでいた。

 周囲はしんと静まり返っている。まるで、街のざわめきから切り離された一画のように思えた。


 香月は門扉の前で一歩を止め、ゆっくりと手を伸ばす。


「……ここだ。間違いない」


 隣に立つクレアが、無言で頷く。


 門の向こうに広がる屋敷は、香月の予想とは少し違っていた。

 名門ルフェーブル家──魔術協会でも世界的に名を知られる名家のはずだが、目の前の屋敷は過度な装飾もなければ威圧感もない。

 白漆喰の壁はややくすみ、蔦の這う石造りの壁はひたすら静かに、堅実な時の流れを受け止めているようだった。


(……思ったより、ずっと地味だな。だが、その分だけ、信頼できる佇まいだ)


 香月が鉄門を押し開けた、その瞬間だった。


「カヅキ!? まさか……貴方なの!?」


 高く、澄んだ声が庭の奥から響いた。

 声の主は、シャルロット・ルフェーブルだった。


 陽の光をやわらかく透かす、淡い亜麻色の長い髪をたなびかせ──薔薇のように華やかなドレスの裾を揺らしながら、彼女は庭の奥に立ち尽くしていた。

 その蒼い瞳は、疑いと喜びと衝撃を、いっぺんに映している。


「嘘……うそ……ほんとうに、モンシュー・カヅキですの!? 嗚呼神様(モン・ディウ)、こんな奇跡が起こるなんて……! 本当に本当に、夢のようですわぁああああ!!」


 次の瞬間、シャルロットは文字通り飛んできた。

 バレエの跳躍のように軽やかに、勢いそのまま突進する。庭に咲いていた花を蹴散らし、ブーツの踵の音を地に刻みながら一直線に──



挿絵(By みてみん)



「ちょ、ちょっと待てシャルロ──!?」


 香月の制止は、風に消えた。

 突き飛ばす勢いで抱きついたシャルロットの身体が、爆弾のように香月の胸元に炸裂する。


「カヅキ、会いたかったですわぁぁぁぁああああああああ!!」


 その瞬間、香月の意識がブラックアウトしかけた。


「ぶへっ……!?」


 亜麻色の奔流が視界を覆い、肺から空気が押し出される。骨が軋む音が、耳の奥でやけに鮮明だった。

 ぐい、と腕を絡められる。ぐにゃ、と柔らかすぎる質量が全身に押し付けられ、背骨からも軋む音が聞こえた。

 抱きつく、というより締め上げるに近かった。まるで情熱の塊が、質量を持って押し寄せてきたようだ。

 しかも、シャルロットの脚が香月の片足に絡まるように巻きついてくる。


「え、ちょ、動け、動けねぇって!!」


 腕は封じられ、体勢も固定され、もはやボディプレスされているような状態だ。なのにシャルロットはなおもギュウゥゥ……と抱きしめてくる。


「どうしてこんなにあったかいの……! まさか、こんなにも早く再会できるなんて……夢じゃありませんわよね!? ねぇ!? カヅキ、夢じゃありませんわよねぇぇぇ!?!?」

「待っ、痛っ、息が、でき……っ、ばかっ、シャルロ、ちょ、おま……ぐえっ!」


 胸、腕、太腿、全部が同時に押し当てられていて、あまりに密着しすぎて反応する余裕すらない。視界には亜麻色の髪と布地と、揺れる重力が暴力的に詰め込まれていた。


(おい誰かコイツを止めてくれ……!!)


 その祈りが通じたかのように、クレアが前に出る気配がした。


『……で、いつから恋愛ドラマのワンシーンの撮影してんのかな? ここ舞台とかじゃないんだけど?』


 凍てつくような声。

 香月がかろうじて首を動かして視線を送ると、クレアはきっちり唇をへの字に結び、眉間に皺を寄せ、笑顔を欠片も浮かべていなかった。


『またかよ、バカフレンチ』


 小さく、だが明確な悪態を放つ。


 ようやくシャルロットが香月から離れた。

 けれど、まるでバレエの舞台でクライマックスを迎えた女王のように、彼女は一歩退き、胸に手を当ててうっとりとつぶやく。


「突然だなんて構いませんわ。貴方に会えたなら、わたくし、もう何もいらないんですの。ああ、カヅキ……」


 その恍惚として放つ言葉に、クレアのこめかみがピクリと跳ねた。


 香月は──まだ呼吸を整えられていない。衣服はシャルロットの香水の匂いで満ちており、頬は真っ赤っ赤だった。

 一つ、コホンと咳払いしてシャルロットに向けて言う。


「……連絡もなしに突然で悪い。色々あってな……お前の力を借りに来たんだ」

「まあ、モン・シュー……そんな頼み方をされたら、わたくし、お断りなんてできるわけがありませんわ。ねえ、クレア?」

『誰がお前の『ねえ』に誰が答えるかっての、このフレンチ爆弾女』


 二人の火花がバチバチと散る横で、香月はぐったりと項垂れた。


(……屋敷に入る前でこれか。絶対まともに進まねぇ予感しかしねぇ……)


 ──そう思うには、十分すぎる幕開けだった。

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