7.復讐の種火⊕
病院の窓から、灰色の雲が流れていくのが見えた。季節はまだ春のはずだったが、空の色はどこか寒々しく、心の底まで冷えてくるような気がした。
香月はベッドに腰掛け、毛布の端を指先で弄んでいた。
人形師の工房から救出されてから一週間。病院での医療スタッフによる回復魔術で、全身の傷は癒えていた。だが、心の中に残った空洞は、いまだ埋まらないままだった。
「君は、どうしたい?」
椅子に腰かける男──エドワード・クロウリーは、厳しくもどこか慈しむような目で香月を見ていた。黒いローブの袖を揺らし、両手を膝の上に置いたまま、ただ静かに言葉を待っている。
「普通に……生きるのは、できないんですよね?」
香月の声は淡々としていた。悟りにも似た響きを帯びていた。
人形師によって、既に自分の身体は加工されてしまった。体の一部は他人のものだ。いや、もう誰のものかもわからない。
「……確かに。だが、君には選択肢がある。魔術師としての道を歩むか、記憶処理を受けて何もかも忘れたまま静かに過ごすか。どちらも間違いではない」
「──だけど、俺は知ってしまった。魔術ってものを」
香月は顔を上げた。その瞳にはまだ少年の幼さが残っていたが、奥底には大人びた決意の光が宿っていた。
「目を背けたくても、もう無理なんだ。あんな場所を……あんなことをされた自分を、何も知らないままに戻る気になんてなれない」
そして、香月はゆっくりと息を吐いた。胸の奥底に渦巻いていた感情を、初めて言葉にした。
「それに――あいつを、許すことなんてできない」
「……あいつ?」
「人形師です。俺の身体をバラして、仲間を切り刻んで、何のためらいもなく魔術の素材にした。俺たちを、人間だなんて一度も思ってなかったんだ」
指先が毛布を強く掴んだ。白くなった爪の先に、震えが走る。
「復讐したいなんて、子どもじみてるかもしれない。でも……もし、魔術で力を得られるなら。俺は、あいつを……殺したい。あいつのような奴を、二度と、誰にも近づけさせたくない。誰かが人間として普通に生きる権利を守ってやりたいんだ……!」
その言葉には怒りというより、むしろ凍てつくような静かな執念がこもっていた。
それは、決して消えない傷から染み出す、祈りにも似た願い。
「……そうか」
エドワードは小さく息をついた。その声に、どこか安堵の色が滲んでいた。
「──なら、君を引き取ろう。君の目には、ただの憎しみではなく、何かを守ろうとする火がある。その炎を、私は信じる。
君に力を授けよう。正式に、私の養子として──そして、魔術師としての訓練を施す」
そう言って、エドワードは懐から一通の封筒を取り出した。封蝋には、風の紋章が刻まれていた。
「これは私の知人、フォード家の長兄からのものだ。彼の家に滞在しながら、君は修行を積む。フォード家は名門だが、君のような者を拒むことはない。むしろ……君を必要としているかもしれない」
「必要、ですか」
「ああ。そこには、君と歳の近い娘がいる。少々複雑な事情を抱えた子だ。お互いに、救いになると良いのだがな」
香月は何も言わず、窓の外を見た。雲の切れ間から、わずかに光が差しているのが見えた。
あの日、目を背けたくなるような暗闇の中で、それでも助けてくれた手があった。
ならば今度は、自分の手で誰かを救えるようになりたい。魔術の力で、誰かを護れるように。
その願いが、香月の中に芽生え始めていた。
「わかりました。俺──やってみます」
それは小さな決意だった。だが、そこから始まる物語は、誰よりも深く、激しく、そして優しいものになる。
──数日後。香月は、フォード家の屋敷の前に立っていた。
歴史を感じさせる重厚な門構え。青い屋根と白い壁。遠くから風の魔力を感じるような、清廉と威厳の同居する空間。
その玄関の先で、彼は初めてクレアと出会うことになる。
まだ幼く、言葉を失っていた彼女。
その瞳は、まだ弱々しい。繊細で壊れやすそうな──ガラス細工の少女だった。