6.抹殺指定
深い闇。
何の輪郭もない虚空。その中を、光の粒子が浮かんでは消えていく。情報の残滓──いや、断片化された記憶の欠片だ。
香月の意識が触れた瞬間、それらがゆっくりと反転し、意味を持ちはじめる。
まずは音だ。香月の耳にボソボソとした男の言葉が聞こえてくる。無線通信での会話のようだった。
『こちらアルファ1。対象を発見しました。千葉方面へ向かっている模様。映像を送る』
『映像の照合完了。流出した映像と特徴が89パーセント一致、大神香月で間違いない。追跡を続行せよ、OVER』
低く、機械的な声のやり取り。
そこに重なるように、ぼやけた視界が再生される。
目に映った場所は、東京駅だった。
群衆の中にいる自分とクレアの姿を視認して後ろから見ているようだ。あの時、確かに見られていたのだ。
視界の主は、改札内に紛れ込んでいた監視要員の一人だった。
東京駅構内──混雑するコンコースの雑踏をすり抜け、香月とクレアの背を逃さぬよう静かに追跡している。
スマートグラス越しに捉えた映像が、術式認証によって即座に解析されていく。
香月の輪郭に識別フレームが重なり、警告表示が閃くように点滅した。
⸻
|TARGET PROFILE|
【氏名:大神香月】
【脅威レベル:S】
【優先度:最上位捕獲対象】
【備考:抹殺指定魔術師『人形師』により造られた、神格を宿す魔術兵器と判明。魔術協会日本中部支部所属構成員。極秘対象】
⸻
──その背後で、別の無線通信が割り込んできた。
緊迫した声が、空気を切り裂くように響く。
『日本本部からの極秘通達だ。神の檻の教祖──オル・カディスを葬った映像が、ダークウェブに流出した』
『魔術闇市のサーバー経由で拡散。協会の情報封鎖サーバーを貫通し、神域の肉体を持つ存在として話題になっている』
『映っていたのは……大神香月。あの男の肉体は、人形師によって造られた神格の器だ』
一瞬、無線の向こうで沈黙が走る。
次に続いた声は、ひときわ冷徹だった。
『我々、魔術協会日本本部直属、戦闘局・特命実行部隊は処理屋である事を忘れるな』
『任務は明確だ。抹殺指定魔術師・大神香月の生け捕りを最優先、殺害は最後の手段とする』
『……繰り返す。対象は、もはや人間ではない。魔術的脅威と認定し、対処しろ』
そこまで聞いた瞬間──香月の意識は、現実へと引き戻された。
重い息を吐きながら、香月は仮面の術士から手を離す。
砕けた仮面の下で、男はかすかに呼吸しているが、意識はない。
だが、もう十分だ。
香月は、得るべきものを得た。
「マジ、かよ……」
ぼそりと呟いたその声に、感情はあまりこもっていなかった。
だが心の奥底では、確かな熱がくすぶっている。
彼らは──魔術協会日本本部直属の暗部だった。
その名を表には出さぬ、裏の戦闘部隊。
そして──自分は、彼らにとって人間ですらないらしい。
人形師が生み出した神の器。
そして神の檻での地下神殿で香月の肉体に顕現した神格であるリリス。その「依代」──つまり、回収すべき魔術兵器。
香月は、小さく息を吐きながら、崩れた廃墟の壁に寄りかかる。
口元に、苦く笑みが浮かんだ。
「──そういうことかよ」
『カヅキ……?』
背後から、クレアの声がかかった。息を呑むような声音だった。
香月はゆっくりと振り返り、彼女を見た。
「……クレア、ここを離れるぞ」
言葉は簡潔だったが、その声には切実な何かがにじんでいた。
クレアは数歩遅れて駆け寄る。周囲を見回し、倒れた構成員に視線を落とした。
『この人達……殺すの?』
「いや、生きてはいるが──再起には多少時間がかかるだろうな。追っては来れないだろうが援軍が来たらまずい」
クレアは頷いた。その表情には、香月の言葉の奥にある重みを感じ取った色が滲んでいる。
「奴ら、日本本部お抱えの影の特殊部隊だ。手順も手際も、協会の表の構成員とはまるで違う」
『日本本部……? はぐれ魔術師とかじゃなくて?』
「ああ。『捕獲』が前提になっている。だが、交渉も確認もない。段階なんて存在しない奴らだ」
クレアの表情が曇る。
『でも、何でカヅキは……日本本部に狙われてるの……?』
香月は一度だけ短く鼻を鳴らし、苦笑めいた声を漏らした。
「狙われてる、じゃない。日本本部からの極秘通達で俺が抹殺指定されたんだ。人形師が作り出した、世界を脅かしかねない収容すべき──完成品としてな。ダークウェブに情報が流出したらしい」
『そんな……誰に……』
「恐らく、さっきの古代魔術師の分魂体のリストに載ってた日本本部長だろ。俺を奪いに来てるのさ」
不意に風が吹き込んだ。剥がれた壁の隙間から夜気が入り、髪が揺れる。
クレアの表情に、より影が落ちた。
震える指先が、無意識に香月の袖を掴む。
『……そんなの、あんまりだよ』
掠れた声色。彼女にしては珍しく、語尾に力がない。
香月はその手を見下ろし、小さく息を吐く。
「クレア……お前は何も指定されていない。抜き出した記憶からしても、マークされてるのは俺だけだ。協力者としての記録もない。つまり──まだ、お前は巻き込まれていない」
その声には、明確な意図が込められていた。
ここで道を分かて、と。
だが、クレアは一歩も退かなかった。
『……だから、ボクを置いていくってこと?』
「ああ」
『それは、ボクに黙って消えるってこと?』
「生き残ってほしいだけだ。巻き添えにしたくない。馬鹿な感情で判断するな」
淡々と告げるその声音の裏に、苦い感情が滲んでいた。
香月は目を伏せた。優しさなどではない。ただ、彼女がこの地獄のような争いに呑まれることを、本能的に恐れていた。
『ボクは、そんな理由で──カヅキから離れたりなんて、絶対にしない』
その声は低く、けれど澄んだ響きをもって、夜の空気を震わせた。
『誰が……馬鹿な感情だって?』
言葉の端に、かすかな怒りが滲む。
クレアの瞳が、真っ直ぐに香月を射抜いた。
『カヅキが、どんな目で見られてるか。どんなふうに、何にされようとしてるのか。……少しは、ボクにだって分かってる。分かってるよ。でも……』
そこで、クレアは一歩だけ近づいた。
崩れかけた廃墟のなか、瓦礫に沈む月明かりの中で、ふたりの影が重なり合った。
静けさのなか、視線が交わる。
『……だからって、カヅキは本気で、ボクがそんな言葉で引き下がるとでも思ってるのかい?』
その声には、怯えも迷いもなかった。
ただひとつの意志が、そこに宿っていた。
夜風が吹き抜け、軋む鉄骨の音が小さく鳴る。
香月はふっと息を吐き、皮肉のような、けれどどこか救われたような笑みを浮かべた。
「クレア、お前……昔から変なところで頑固だな」
『今さら気づいたの?』
「……ああ。本当、付き合いが長いからな。忘れてたよ」
諦めたように肩をすくめると、香月は壁から背を離し、懐からスマートホンを取り出す。
画面にはジェイムズ・ウィルソンの名が表示されていた。中部支部長、二人の上司にして、秘密結社『夜咲く花々の廷』のリーダーである陽子の協力者でもある男。何かしらの助力を貰えるかもしれない。頼れる味方ではある。だが、今はまだ──
「……ジェイムズへの連絡は、今はやめておこう。盗聴されてる可能性がある」
『え?』
「動きが筒抜けかもしれない。今、通信を使えば居場所を知らせるようなものだ。最悪、中部支部ごと巻き込むことになる」
香月の声は冷静だった。状況を把握し、選択肢を絞るその目は、すでに次の行動を決めていた。
「予定通り、国外に出る。一気に日本を離れるぞ」
『国外……って、どこに?』
「フランスだ。人形師が使っていたアジトの一つに向かうつもりだったが、イタリアに行く前にシャルロットの力を借りようと思っていた」
それは、香月が本来の個人的な調査計画の中で進めていたルートだった。だが、いまや単なる調査ではなく、自分の存在をめぐる鍵となる可能性があった。頼る相手は選ぶべきだ。
香月はスマートフォンの電源を切ると、背面からSIMカードを抜き、金属製のケースに収める。さらに上着の内ポケットから小さな術式印刷済みのファラデーポーチを取り出し、それごと封じた。通信経路すら痕跡を残さぬように──そこまで徹底する必要があった。
「……シャルロットなら、俺を切り捨てたりはしない。変わってる奴だが、筋は通す奴だ」
『日本本部の暗部だけが動いてるなら、他の国にはまだ波及してないはず』
「ああ。シャルロットには、直接会って話す」
香月は小さく息を吐き、背負っていた緊張の一部を手放すように目を伏せた。
「……行くぞ、クレア」
その一言に、クレアは黙って頷いた。
言葉はなかった。けれど、彼女の歩調が自然と香月と並ぶのを感じて、香月は一瞬だけ横目に視線を流す。
その目に宿る光は、怯えでも、迷いでもなかった。
ただ、彼女自身の意志だけがそこにあった。
──もう、巻き込まれていないとは言えない。だが、それでも共に行くと決めた。
崩れた瓦礫の上を踏みしめ、夜の廃墟を背に二人は歩き出す。
遠くで、風が松林を揺らした。潮の匂いがかすかに混じっている。
明日には、海を越えて、別の土地へと渡ることになるだろう。だが今はまだ静かな闇の中だ。
世界が敵に回るその前に──二人だけの逃避行が、静かに幕を開けた。