13.大神便利屋事務所にて2
結局、昨夜はクレアの音魔術の効果範囲から逃れる為に片道で1キロメートルほどの道のりを全速力で激走する羽目になった。
もし仮に自分が逃げる方向へクレアが追いかけてきていたらより長い距離を走らされる事になっただろう。とりあえず、変身魔術での変身も抜かりなくしてあり対策はバッチリだった。もしかするとちょっと見られちゃったかもしれないが。
その甲斐もあり、汚い轟音の発生源を特定して近隣住民が集まってくるという事態はどうにか避ける事ができた筈だ。
これは後の話になるが、この出来事はそれなりには噂になった。
この話が人に伝わるにつれ憶測と尾びれ背びれが加わって「深夜の爆走下痢男」に始まり「ハーレー・ゲリックソン」「腹下しダッシュばばあ」「妖怪大快便」といった様々な都市伝説を生んでいくのだが、とりあえずその話は置いておこう。
この音魔術による悪戯は、香月がクレアを怒らせた時によくされていた物だった。無論、対処法もよくわかっていてとにかく術者から離れれば良い。
深夜の車道を全力ダッシュさせられ、疲れ果てて残りの道のりをトボトボと香月が事務所に戻ってくると二人は風呂を終えていてそれぞれ寝室に入った後のようだった。
香月が風呂を出る頃には時計は午前0時を過ぎていた。応接セットのソファには二人が用意してくれたのかもしれない毛布が置かれていた。それに包まって横になると、眠りに落ちるのには時間がかからなかった。
そして、翌日。
「ん……んん……」
香月がソファで目を覚ますと、何だか毛布の中がじっとりと暑い気がする。
「……?」
寝ぼけながら毛布をめくってみる。すると、そこには。
「……あ、おはよ……カヅキ……」
寝ぼけた口調で直接口で話し、ウトウトとまた香月の胸板に顔を押し当てるクレアの姿があった。
「お、おいクレア!? なんでここに居るんだ……っ」
クレアが一緒に寝ていた。しかもしっかりと香月の身体に抱きついていたのである。その感触に今更ながら気づくと、慌てて彼女から距離を取った。
「あー……」
そんな香月に少し名残惜しげなか細い声を出してクレアが身体を起こす。よく見るとその姿は裸だった。
ご丁寧にもソファの脇の床にはクレアの物と思しき下着が脱ぎ捨ててあった。色は上下ともに黒だった。
この状況を見て、香月は頭を抱えた。
「……クレア、すまない。何の記憶もない……。とはいえ、これではフォード家の当主殿に申し訳が……」
フォード家の当主とは、簡単に言うとクレアの父親だ。魔術師にしては珍しく、結構な子煩悩でクレアは末娘である為にかなり甘やかしている。
そもそもクレアが日本に行くのを許可したのもジェイムズに彼女を魔術協会の日本中部支部に捩じ込ませたのも、彼女のワガママがその父親に通ったからなのだ。
「……カヅキは悪くない。ボクが勝手に忍び込んだ」
か細い声でそう言ってクレアがソファから立ち上がる。そしてそのまま自分の寝巻きを拾い始めたので、香月も慌てて毛布を畳んでソファに置くと、着替え始める彼女から背を向けるようにした。
「しかし、どうしてこんな事に……」
「……昨日あんな事があったし」
そんな答えに香月は昨夜の事を思い出す。ああ、一応ちょっとは悪かったなとか思ってくれてるのなと香月が思ってると、クレアが言葉を続けた。
「……ボクなりのマーキング?」
何で疑問形なんだよ、俺はお前のナワバリか何かか。そんなツッコミが脳裏に浮かんだが香月は口に出さないでおいた。
恐らく、昨日のあんな事とはイヴとの一件の事を指しているらしかった。
もしかしたらイヴとの対抗意識もあったのかもしれない。とにかく香月の事となるとクレアは嫉妬深いのだ。
こういう事は今に始まった話ではないのだ。イギリスにいた頃でも何回か、こうやって寝床に忍び込まれている。とはいえ、あの頃はちゃんと服を着てたが。
「……寝るのは俺の部屋を使えって言ったはずなんだがな」
「使ってた。……カヅキの匂いがして」クレアが発言に一呼吸置く。「かなり興奮した。その結果がこれ」
「……はぁ」
香月が大きなため息をつく。
感想が直球なのにも程がある。そんな事を真顔で言ってくるのだから、冗談で言われてるのか本気で言ってるのかもわからない。
ともかく昨夜イヴに裸で迫られたのが原因で間違いないと香月は思った。
香月が眠りについてから暫くしてクレアが起きてきて一緒に寝たがったのを思い出した。寝ぼけながらも当然のように断わったのだが。
それでもやはり我慢できなかったようで、結局毛布の中に忍び込んでしまったようだ。
そんなやりとりをしていると、イヴが奥の部屋から出てきた。どうやら彼女も目を覚ましたらしい。そしてこちらに気づき、きょとんとした顔になる。
「あれ……? 二人とも早起きだね……? どうしたの?」
「いや……何でもない……」
香月がかぶりを振った。
昨夜の事を思わず思い浮かべてしまい、イヴと視線が合わせられずにいた。しかも今朝はクレアとあんな状態だ。
香月が色々な意味で気まずさを覚えていると、イヴは「あ」と何かを思い出したように手を打った。
「そういえば、香月君。昨日はごめんね? なんか取り乱しちゃったみたいで」
「気にしないでくれ」
香月がかぶりを振って、イヴに対して変に気を遣わせないようといった態度で肩をすくめる。が、そこで一旦香月の動きが止まる。「ん?」となった。
イヴからの呼び方が変わっている。昨日の今日で何か彼女の心境に変化が起きる事なんてあっただろうか。
いや、昨夜あったにはあったが。どちらかと言えば翌朝に顔を合わせた時の互いの反応がどこかしらギクシャクしてもおかしくない方の出来事だった筈だ。
なのに、この自分から歩み寄ってくるような呼び方の変更だ。しかも彼女の表情は普段以上に明るかった。作り笑顔だとか空元気だとかそういう演技の挟まる隙間すらない。まるで昨晩の事を引きずっていないかのような。
ジー……とイヴが香月を伺うように見る。
香月は思わずたじろいで、
「な、なんだよ……」
「ううん、何にも」
ニッコリと笑って返す。そうして、イヴがぼつりと呟くように言った。
「………あのね、絶対またどこかでお礼はさせてよね」
そう言って、イヴが香月の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「あ、ああ……」
少し、いやだいぶ戸惑っていると、クスッと笑った。イヴは「着替えてくるね」とだけ残して再び奥の部屋へ戻っていった。
「どういう心境の変化だ……?」
そんなイヴの様子に呆気に取られながら、香月が独りごちた。
クレアも不思議そうな面持ちで首を傾げていたが、そこはかとないイヴから香月への距離感の変化に気付いたのか眉根を寄せた。
◆
それから事務所内で三人で朝食をとり始める頃には既に時計の針は午前8時を回っていた。準備はクレアにも手伝って貰い、二人で用意した。
メニューは簡単な物ではあるが、パンとスクランブルエッグとハムだ。とりあえずの間に合わせだったが、卵と牛乳はあったしパンは昨日買っておいた物があった。
できあがったそれらを食器に盛るとトレイで応接セットの所まで運んできて、それぞれに配膳する。
そうして三人でソファに座ると、食卓を囲んだ。
「ジェイムズからの言伝だが、ディヴィッド・ノーマンを誘い出す為のおとり作戦をやる事になりそうだ」
香月がそんな事を言うと、イヴがハムを口に運ぶ途中のフォークを止めた。
「おとり作戦?」
「ああ。ディヴィッド・ノーマンは何らかの方法でおそらくイヴを取り返しにくる。そこを協会と教皇庁の人間達で押さえるって寸法らしい」
「じゃあ、私を囮に使うって事?」
イヴの質問に香月がかぶりを振る。
「いや、囮になるのはイヴじゃない。俺がなる」
「?」
香月の発言の意味を上手く理解できなかったイヴが首を傾げた。香月が続ける。
「俺は変身魔術が使えるんだ。この前、イヴに構造解析魔術を使っただろう? 今はイヴの姿に変身できる」
「あっ!」
その説明でイヴはようやく納得した。香月の変身魔術はかなり高度に修得したものだ。構造解析魔術を応用して相手の姿形だけでなく声や匂い、服装まで再現できる。
それこそ、魔力感知能力の高い魔術師には見破られてしまう可能性はあるだろうが、普通の魔術師ならまずバレない筈だ。
「でも……いいの? そんな危険な事」とイヴが心配そうな声で言う。「おとり作戦はジェイムズさんからの提案なんでしょ?」
「まあ、そうだろうな」
「でも……」
そう言って、イヴがクレアの方をちらっと見る。彼女が心配しているのは香月の身だけではなくクレアの身の方もだったようだ。
そんなイヴに対して、クレアはノープロブレムと言わんばかりにコクリと頷いた。そして伝声魔術で言う。
『問題ないよ。ボクがちゃんとカヅキをサポートする』
「それなら、いいんだけど……」
イヴがそれでも納得のいかないといった表情で頷く。やはりまだ後ろめたさがあるらしい。
そんなイヴをフォローするように香月が言う。
「まあ、変身魔術での作戦は俺が任務を言い渡されてやる事だ。イヴが重く受け止める必要はないさ。ジェイムズも俺がやるなら文句はないだろうしな」
「でも……」
「それにな」と続ける香月。「俺達はイヴを守るのが任務だ。だから、イヴは自分の身の安全だけを気にしてれば良い」
「……うん、わかった」
そう言ってイヴが頷いた。
香月はそんな彼女の心配してくれる態度に本当に昨日の事は尾を引いていないのだなと感じた。と、同時にジェイムズから受けたこの任務は何が何でも成功させなければならないなと考えていた。
理由は単純だ。イヴを今取り巻く状況を何とかする為にも、だ。
「それから、イヴが暫く身を置く事になるセーフハウスの方も割と早く用意ができそうらしい。移動はおとり作戦の決行と同時にするそうだ」
「えっ、それじゃ私が二人居ることになるよね」
香月が頷く。
「そうなるな。だが、イヴにはその日はこの事務所の中に居てもらう」
「どういう事?」
「俺が外でおとり作戦をやっている間に、イヴには事務所の中からセーフハウスに移動して貰うんだ。人目につかないようにな。その日は空間跳躍魔術が使える構成員がここに来る」
「くうかんちょうやく……?」と首を傾げるイヴ。
「言葉通りさ。空間を跳躍する魔術だ。ワープみたいなもんだな」
「ふうん……それで私を移動させるんだね……」
納得したように頷くイヴ。彼女はそのまま再びトーストをかじって、それをコーヒーで流し込む。そして立ち上がった。
「ごちそうさま」と、小さくお辞儀をして食器をトレイの上に戻すと自分の部屋に戻っていった。その背中を香月が見送っていると、そんな視線の動きに気付いてなのかクレアが香月に向けて伝声を発した。
『ねえ、カヅキ』
「どうした?」
『カヅキはイヴさんの事、どう思ってるの?』
「どうって?」
『好きなの?』
そうクレアが聞く。
香月はその問いに考えるように顎に手を当てると、少し間を置いてから答えた。
「まあ、好きだろうな」
『ボクより?』
「……まあ、そりゃそうだろうなあ」
香月が冗談めかして言った。その答えにクレアは眉をひそめる。
『冗談でもやめて欲しいんだけど』
そう言い、頬を膨らます。そんなクレアの様子に苦笑しながら、香月が言う。
「俺達はイヴを守るのが任務なんだぞ」
『だから?』
「クレアの事も俺は好きだぞ。イヴは単なる護衛対象だからな。別に比べる必要はないんじゃないか?」
『……』
クレアが押し黙る。彼女からしてみれば香月の発言に思う所があったのかもしれない。そんなクレアの様子に香月が付け加えた。
「別に贔屓をしてるわけじゃないしな」
『……わかってる』
「そうだと良いんだがな……」
と、そこで香月が時計を見て立ち上がった。
「そろそろ時間だ」と香月が呟く。
「ジェイムズの所に行ってくる。おとり作戦の打ち合わせだ」
『わかった』
「詳細はまた知らせる。クレア、イヴを頼むぞ」
そうして、事務所を出た。
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本文の後半部分でセリフと地の文の間に改行がされてなかったので修正しました。また細やかな部分を修正を加えました。