5.残骸に潜む影⊕
探索を続けたが、それ以上の収穫はなかった。
玄関から入った朽ちかけのロビーも、上階の居住スペースも、魔術空間内に構築された工房も──どこにも、「いまも使われている」という気配はなかった。
工房の施術台、壁面の魔術陣──どれも術式構造が崩壊し、再構築は不可能なレベルにまで劣化していた。
唯一、異界化された工房で手に入れた記録だけが、ここがかつて人形師の拠点だったことを物語っている。
「……やっぱり、ここで待ってるってわけじゃなかったか」
廃ペンションの玄関前に立ち、香月がぽつりとつぶやく。
夕暮れの光が、崩れかけた外壁と、ひしゃげた看板を、血のように赤く染めていた。
『じゃあ、陽子さんが言ってた人形師が待っている場所って──別の場所のこと?』
「ああ、たぶんな。あの工房の構成、残された記録……どれも囮にしては整いすぎてた……」
わざと発見させるための仕掛けだったとしても、そこに罠の気配はなかった。
むしろ──人形師は、何かを伝えようとしていた。
「……ここはきっと、ヤツにとっての過去の残骸だ。そういう意味では待っていた場所の一つだったのかもしれないが──本命は、別にあるな」
香月が周囲に視線を巡らせ、無意識に気配を探るように一歩踏み出したとき──
──ざっ、と草の擦れる音がした。
次の瞬間、四方の木立から、複数の気配が一斉に立ち上がる。
『カヅキ──何か来る!』
クレアの声に反応し、香月は即座に構えを取った。
林の奥から現れたのは、黒衣に身を包んだ集団だった。
戦闘服──顔は仮面で覆われ、個体識別は不可能。だがその動きに、素人の影はない。明らかに実戦慣れした、魔術師の戦闘部隊だ。
「……なるほどな。さっき感じた魔力の残滓は、お前らのせいか」
香月は両拳を握り、口の中で低く魔術発動の言葉を呟く。背中の自在術式が蠢き、形成した魔術陣に沿って背中が熱を帯びる。
起動させたのは、Synergy Enhance《筋力・神経反応融合強化》だ。
神経と筋出力の伝達速度を一体化させ、反応速度と加速性を極限まで高める魔術だ。
香月の意識が、臨戦へと切り替わる。
やがて、前列の一人が一歩前へ出る。仮面越しに、低い声が落ちた。
「──大神香月、だな」
確認のようなその声音に、香月は視線を逸らさず、静かに頷く。
「ああ。……アンタらは?」
「名乗る必要はない。だが──お前を拘束しに来た」
言葉と同時に、黒衣の男たちが一斉に動く。
「──魔術陣、展開!」
空間が揺れ、四方に術式陣が浮かび上がる。
第四世代魔術と第二世代魔術を複合した、多重展開術式だ。魔術刻印で空中に魔術陣を複数展開、そこから水霧、白焔閃撃、魔力鎖牢の三つの魔術を連続で放つような構成のようだった。実戦経験に基づいた構成の術式だ。
男達の数は四人だ。それぞれがこの多重展開魔術を香月とクレアの2人を取り囲いながら、発動させようとする。
だが──
「遅いぜ」
香月の囁きと同時に、空気が弾ける音がした。
次の瞬間、彼の姿が掻き消える。
いや──速すぎて視えない。
一人目の術士の背後に香月が回り込む。
気づく暇すら与えず、渾身の拳が突き上げられる。
肋骨の折れる音。術式を纏う前に、男の身体ごと吹き飛ばされた。
「っ……! 対応を──っ」
残りの三人が慌てて立て直そうとするが──それを待つ必要など、ない。
「Sonic Blast」
クレアの声が静かに、しかし確かな力をもって空気に刻まれる。
直後、轟音が空間を裂いた。
それはただの音ではない。魔術として凝縮された音波の炸裂が、前方の空気を圧縮し、周囲にいる三人の男たちに一斉に襲いかかる。
「……ッ!」
「ぐ……あああっ……!」
黒衣の術士たちの動きが、一瞬にして凍りつく。
頭蓋の奥に響き渡る音が、彼らの意識そのものを刈り取る。鼓膜を通して侵入した魔力音波は、神経系を乱し、思考の流れを分断する。
強力な防御障壁を張る暇もなく──彼らの魔力の流れが崩れた。
展開しかけていた魔術陣が、音もなく霧散する。
『──いけるよ、カヅキ』
クレアの確信と同時に、香月が駆けた。
光の残像を引くような踏み込み。前方の一人に肉薄し、迷いなく膝を突き上げる。
鈍い音とともに相手の胴体が撓み、呼吸が途絶えた。
すかさず一歩ひねり、肘を振り抜く。仮面が砕け、男の意識が飛ぶ。
残る二人も、音響炸裂の余波で足取りがふらついていた。
香月はその隙を逃さなかった。
ふらつく二人へ肉薄し──
「Storm Rage《雷閃嵐砲》ッッ!」
踏み込みと同時に拳を突き出す。
膨大な魔力が、香月の背中に刻まれた自在術式から奔流となって溢れ出す。
展開された魔術陣が淡く輝き、その魔力は意志を持った生き物のように腕を走り、拳へと収束していく。
拳の周囲で空気が震え、歪む。
雷光が螺旋状に纏わりつき、圧縮された魔力が形を成していくその瞬間──轟雷が放たれた。
咆哮する雷閃が、大気を裂いて放たれる。
衝撃音と共に稲妻が収束し、直後、爆ぜた雷撃が二人の術士を正面から叩きつけた。
「うあっ──がっ……!」
強烈な光と爆風が弾け飛び、黒衣の術士たちは声もなく地面に倒れ伏す。
焼け焦げた仮面が砕け落ち、動く気配すらない。魔力の流れも、もう感知できなかった。
静寂。
その一撃で、周囲を包んでいた敵意と緊張のすべてが、霧のように消え去っていた。
『……終わった、ね』
クレアの声が、静かに空気へと溶けていく。
香月はわずかに息を整え、崩れ落ちた術士たちとその周囲に目を走らせた。だが──気配は、もうどこにもなかった。
この襲撃部隊が単独行動だったのか、あるいは何かの陽動だったのか──現時点では判別できなかった。
香月は倒れた男たちに視線を落とし、慎重に一歩踏み出す。
「……手際が良すぎる。こっちの動きが、最初から読まれてた可能性もあるな」
『じゃあ、この廃ペンションに来るってことも……?』
「ああ。予測されていた──いや、誘導されたのかもしれないな」
香月のその言葉に、クレアの気配が微かに揺れる。
『でも……誰に?』
香月は男たちの懐をまさぐる。しかし、通信装置も識別用の刻印も、手がかりになりそうなものは一切なかった。まるで最初から、痕跡を残さないために作られた兵士のようだった。
「記録も、身元も残さない前提の部隊か。……面倒な連中だ」
香月は小さく舌打ちを漏らす。
これだけの魔術戦闘力を持った集団を痕跡ゼロで投入できる組織──それが示唆する存在の規模は、並ではない。
「──試してみるか」
香月はそう呟き、仮面の砕けた男の一人の前に膝をつく。
呼吸は浅いが、わずかに意識は残っている。
『カヅキ、どうするの?』
「解析魔術を使う。……こいつから何か、引き出せるかもしれない」
香月の左手の甲に彫られた魔術刻印が、静かに青白い光を帯び始める。
Analysis《解析》──香月のこの魔術は本来は変身魔術の為に人体の構造を読んだり、物質の構造を知るための魔術だった。それが陽子により相手の魔術刻印を剽窃する能力を与えられ、それだけではなく神の檻教団施設で人形師に出会った時にその魔術は更に異常な進化を遂げた。
それは、記憶領域に干渉する力。
対象の精神に触れ、深層に刻まれた情報を強制的に奪う魔術。
名付けるなら──『記憶剽窃』だ。
「何かわかるといいが……」
香月が右手を男の額に当てる。
術式が展開され、光が深く、静かに瞬いた。香月の意識が、急速に深い闇へと引き込まれていく。
──瞬間、香月の視界が裏返った。