4. 遺された記録、記された名
空間は広くない。だが、異様なまでの整然さと、何かが抜け落ちたような沈黙が支配していた。
灰白色の石材で組まれた床と壁。天井は高く、その内側には魔力伝導のための転写術式が刻まれており、淡く脈打つように光を帯びている。
中央には、黒漆の木材と重厚な金属を組み合わせた作業台。そこに整然と並ぶのは──人間の手足を模した、骨と筋繊維の素材。まるで、人体の部品を削り出したかのような人形の構成要素だった。
壁際の棚には、薬液に浸かった臓器の瓶詰、損壊した骨格標本、第一世代魔術の詠唱補助らしき文様が刻まれた皮革の巻物、そして封印処理が施された小型の魔道具の数々がぎっしりと並ぶ。
「……気持ち悪いほど、整ってるな」
香月が低く呟く。
魔力の静的脈動──人工的に調律された魔術空間の呼吸のようなものだ── が工房全体に漂う。
ここは、研究と実験、解体と再構築の場だった。
『……なんか、病院みたい。綺麗すぎて、不気味……というか、これ……』
クレアの声がわずかに掠れる。
視線の先。ガラス瓶の中で浮かんでいたのは──人間の眼球だった。保存液の中、濁ったレンズ越しに、こちらを見つめているような錯覚を与える。
「……人形の部品ではなさそうだな。元は人間かもしれないが」
香月の口調は冷静を装っていたが、声の奥に警戒の色が滲んでいた。
ふたりは慎重に室内を進む。
やがて、作業台の傍に設置された読書台の上に、厚いガラスで封じられた紙束が置かれているのを見つける。
『……メモ、かな?』
魔術的な封印は、簡易な警戒式だった。すでに半ば緩んでいた。
香月は慎重に指先をかざすと、魔力を注ぎ込んでその封印を解除する。ガラス蓋を静かに開けた。
一枚、二枚──紙束を捲るたびに現れるのは、冷徹なまでに整理された筆致による記録の数々だった。
今周回、英国グレイヒル修道院より引き取った当個体(以下「彼」と記す)への加工は、前回同様、第三段階まで順調に施術された。
精神構造は安定しており、記憶構造に破損は確認されていない。
前回よりも拒絶反応は明らかに軽減され、移植された臓器・筋組織・骨格は、いずれも運動性能および魔力適性の顕著な向上を示した。
ただし、今回も「空白領域」の存在は確認された。
脳幹部と前頭葉を繋ぐ魔術経路において、依然として外部干渉を完全に弾き返す。
これは、これまでのいかなる周回にも見られなかった特異な傾向である。
当該領域は、術式の侵入を一切許さず、痕跡すら残さぬまま即座に自己修復を行う。その反応速度は、常識的な人体反応を遥かに超越している。
──彼の肉体は、すでに人狼のそれをも凌駕しつつある。
だが、依然として「神格の器」としては不完全である。
今周回では、脊髄中枢に三重の魔術補助環を移植した。
そのうち一つは、魂の通過を許容する魔力経路型であったが、想定を大幅に上回る速度で、空白領域の意志により駆逐された。
あの空白は、感情でも拒絶でもない。むしろ、もっと根源的な「棲み処」のような印象を与える。
私の観測の及ばぬ領域において、彼は何らかの神格からの祝福を受けているのかもしれない。
行動観察の範囲において、彼はごく自然に振る舞っている。
記憶処置は従来通り施されているが、わずかながら違和を感じさせる兆候が見え始めている。
──ときおり、彼の眼の奥に、こちらを見透かすような光が宿る。
精神構造には、外部由来と思われる他者の痕跡が微かに残っている。特に、「異なる名で呼ばれた記憶」が、複数箇所に混入していた。
過去の失敗周回でも同様の兆候は見られたが、今回はその傾向がより明瞭である。
まるで、彼の肉体の内部に、別の魂が共存しているかのようだ。
骨格加工、臓器の再配置、筋肉の強化はいずれも予定通り完了している。
魔力導管の新式処理も良好に定着し、機能面に問題はない。
次回は、脳構造への直接干渉を試みる。
空白領域へのバイパス接続が可能かどうか──それがこの施術の成否を分けると見ている。
前回と同様、彼は予定通り魔術協会の強襲部隊により「救出」されることになっている。
それまでに、今回のこの施術を完成させなければならない。
その紙束を覗き込む香月の視線が、徐々に鋭さを帯びていく。
初めは、ただの観察記録のようだった。だが──
行を追うごとに、それが香月自身に対する記録であることは明白となり、内容は次第に狂気を帯びていく。
『……これ、まさか……カヅキのこと……?』
伝声魔術越しのクレアの声は、かすかに震えていた。
香月は無言で頷く。
だが、その瞳は、静かに、何かをかき消すように強張っていた。
「ああ……恐らく、な……。グレイヒル修道院は、俺が人形師に売り渡された場所だ……。だけど──」
『だけど?』
クレアの問いに、香月は紙束から目を離し、ゆっくりと首を振った。
「これは本当に、人形師が俺を加工した記録なのか……?」
その言葉の意味を測りかねて、クレアは言葉を失う。
「記述されてる内容は、確かに俺の状態と一致してるような気がする。魔術師達が強い肉体を求めて亜人化競争が激しかった頃、吸血鬼の肉体と人狼の肉体で覇権を争った時代、俺の家系はそんな人狼魔術師系の没落魔術師だったらしいとは聞く。だが、現代で人狼の肉体を持っている人間はそうは残っていないしな……」
香月は低く呟いたあと、紙束を閉じるでもなく、ただ指先でページの縁をなぞっていた。
「それに……この空白領域ってやつ。たぶん、リリスのことを指してる……と思う。だとしたら、人形師は神の檻でのオル・カディスみたいに神を封入する器を作るつもりだったのか……?」
ふたりの間に、重たい沈黙が落ちた。
作業台の上、書き記された狂気の記録。それは人体を「器」とし、神格を封じる試みの断片だった。
だが、その器が香月であるとするなら──
『だとしたら、神の檻の地下神殿でカヅキの身体に──あのリリスっていう何かが現れたのって……最初から、仕組まれてたこと……?』
クレアの声は小さく、震えていた。
香月は、答えずに黙っていた。
否定も肯定もしない。だがその沈黙が、何よりも重かった。
彼女の言葉が意味するのはひとつ──神格「リリス」の顕現は偶然などではなく、かつて人形師が施した加工の結果である可能性だ。
「……もし、そうだとしたら。俺の中にいるものが、俺を選んだんじゃなくなるな。最初からここに入れられていたってことになるんじゃないか……?」
言いながら、香月は拳を握りしめた。
「そうだとしたら、俺は──器だったって訳か」
その言葉は、呪いのようだった。
クレアが見てきた香月──静かに怒りを秘め、時に鋭く、時に優しく、自分の意志で戦ってきた彼の姿が、まるで誰かに『与えられたもの』であったかのように思えてしまう。
「それに──」
香月の指先が、紙束の一番下の行をなぞった。
「前回と同様、予定通り魔術協会の強襲部隊により「救出」されることになっている……」
その響きに、クレアは眉をひそめる。
予定通り──まるで、出来事のすべてが事前に決まっていたかのような、冷たい断定だった。
『……それって……人形師は、魔術協会の強襲部隊の作戦が実行されるって、予測してたの……?』
「……いや。多分、予測なんかじゃない。最初から知っていたんだ」
香月の声は低く、確信を滲ませていた。
これは、単なる研究記録じゃない。
香月や陽子と同じ──あるいはそれ以上に、『他の世界線』を観測している者の、それを当然のように扱う言葉遣いだった。
香月の指先が、紙束の最後に挟まれていた一枚のページをゆっくりと引き出す。
そこには他と違う、古びた羊皮紙のような素材が使われており、文字は黒インクで記されていた。明らかに後から加えられたもの。だが──
「……これは……」
その一枚に記されていたのは、名前の羅列だった。
・エドワード・クロウリー ☓
・オル・カディス ☓
・ラファエラ=ユグドミレア
・小泉 蒼一郎
・セラ・アステリオン
・不明(エジプトのどこかに潜伏)
・不明(英国のどこかに潜伏)
無言のまま、香月とクレアはその紙面を凝視した。
『……これ……エドワードのおじさまの名前も載ってる……それにオル・カディスも……』
クレアが、声を潜めて呟く。
香月も静かに頷く。
「これは……分魂体のリストだ。きっと、あの古代魔術師の」
香月はページの中央に記された日本人の名前──『小泉 蒼一郎』を見つめていた。
他と同じく整った筆致。だが、そこに記されたたった一文字の違い──「☓印」の有無が、全く異なる意味を持って迫ってくる。
「……義父を乗っ取った分魂体も、オル・カディスも、俺の手で倒した。けど──そういうことか」
☓がついているのは、すでに香月が撃破した人物だけだ。
ラファエラ、セラ、小泉、そして二人の不明者には、まだ何も印がついていない。
香月の視線が、名簿の一点に再び吸い寄せられる。
──小泉 蒼一郎。
どこかで聞いた記憶があった。だが、すぐには思い出せない。
香月は無言でスマートフォンを取り出すと、ロックを解除し、魔術師専用の閉鎖ネットワークに接続する。
Circuit of Wisdom──叡智の環と名付けられた魔術協会奇跡管理部所属の構成員しか閲覧できない、魔術協会内部用のデータベースにアクセスする。
簡易検索フォームに「小泉 蒼一郎」と打ち込む。
結果は一瞬で返ってきた。表示された肩書きと顔写真に、香月の手が止まる。
「……やっぱりか」
『……え、誰? 知ってる人?』
香月は画面をクレアに見せた。そこには、厳格な表情の男の顔写真。
その横に記された肩書き──
魔術協会日本本部・本部長 小泉 蒼一郎。
『──っ!? 本部長……って、まさか、日本の協会のトップ……!?』
「ああ。俺も新人の頃、一度だけ顔を見たことがある」
香月の声に、いつもの冷静さはなかった。
魔術協会は表向きには存在しない。魔術界という裏社会の魔術的秩序を維持する、影の統治機構だ。
その日本本部の頂点に立つ男が、よりによって古代魔術師分魂体──世界を破滅に導く古代魔術師の断片の一つである可能性。
「まさか、協会の本部長が……」
クレアの発声に震えが混じる。乏しい表情に怯えのような感情が浮かぶ。
香月はその表情を見ながら、胸の奥に冷たいものが流れるのを感じた。
「ああ……だが、神の檻への潜入に先遣隊が捕まった時……東京本部は作戦から手を引いた。その理由が不可解だったが、もしかすると……本部長の判断だったのかもしれない」
香月は視線を落とし、拳を握り締める。
「つまり、このリストが本当なら、日本の魔術協会は──あの古代魔術師……世界を再び混沌へと導く可能性のある存在に、頂点を乗っ取られてるってことになる……」
香月の声は低く、だが確実に怒気を帯びていた。
「イヴの事をジェイムズが総本部や日本本部に報告しなかったのは正解だったんだ……! イヴの存在が、小泉本部長に知られていたら……」
香月は奥歯を噛み締める。拳がわずかに震えていた。
その震える拳をそっと見つめながら、クレアはひとつ、深く息を吸い込んだ。
『……ねえ、カヅキ。このリスト、本物なのかな。人形師がわざと残した何かしらの罠って可能性は?』
クレアの問いは、疑念だけではなかった。彼女の目には、恐れが宿っていた。
「……その可能性はある。むしろ、そう考えるべきかもしれない。だが──」
香月は紙束を閉じ、静かに読書台に戻した。
魔術的封印の痕跡が残ったままの蓋をそっと被せると、まるで墓標を立てるように一拍、無言で祈るように立ち尽くした。
「……神の檻の地下神殿で、人形師はオル・カディスを倒そうとしていた。あれは……殺すためだった」
香月の言葉に、クレアの目がわずかに見開かれる。
『つまり……?』
「奴は、分魂体の排除を目的として動いていた。……少なくとも、オル・カディスに対しては明確に殺意を向けていた。奴を消すために、命を懸けていたと言っていい」
香月の声に、確信があった。
「だから、このリストは本物かもしれない」
香月は言葉を切り、再び読み終えたリストの名前を見つめた。
黒インクで記された七人──そのうち、☓印が付されたのは二つだけ。
「ヤツはオル・カディスを殺すために動いていた。……だったら、他の分魂体も、順番に排除するつもりだったのかもしれない」
『でも……なんで? 人形師って、もっと狂ってて、自分の研究だけしか興味ない人だと思ってた』
「ああ……俺もそう思ってた。だけど、違ったのかもしれない。……あいつは、分魂体の存在が、世界そのものにとって危険だと考えていた……のかもな」
香月の声には、感情と理性の間で揺れる重さがあった。