3. 打ち捨てられた場所で待つもの
千葉駅で乗り換えた総武本線の電車が、のどかな風景の中をゆっくりと進んでいく。
車窓に広がるのは、刈り終えた田んぼと、ぽつぽつと並ぶ民家。ときおりススキの穂が風に揺れ、遠くには山の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
空は高く、青く、どこか乾いた匂いが車内にも漂っている気がした。
「……さっき、東京駅でさ」
香月がぽつりと口を開く。
「何かに、見られてる気がしたんだ」
『……視線?』
「ああ。気のせいかと思ったんだが、千葉に着くまで、ずっと背中に刺さる感じがしててな……」
そう言って香月は、無意識に首筋へ手をやる。肩のあたりを一度すくめ、吐息をこぼした。
『まさか、人形師が仕掛けた追手……?』
「……それは、わからない」
首を横に振る香月の声には、わずかな迷いが混じっていた。
「気のせいで済むなら、それが一番いいんだけどな。だが──」
窓の外へ視線をやる。その向こうに広がる風景は、穏やかで何の脅威も感じさせない。
──それでも。
「──あの人混みに、何かが紛れていた気がするんだ。誰もいないのに、気配だけが、妙に背中に残ってる感じがあった……」
クレアは軽く目を細め、ちらりと車内を見渡した。
だが、車内は静かで、ただ秋の風景を映すように揺れているだけだった。
『……でも、今は大丈夫そうだよ。きっと、巻けたんじゃないかな』
「……そうだといいけどな」
しばし沈黙が落ちる。
やがて、香月が車窓の風景に目を向けたまま、ぽつりとつぶやく。
「……景色、ずいぶん変わったな」
クレアも顔を上げ、車窓を見つめて目を細めた。
『ほんと。建物が少ないだけで、空ってこんなに広く見えるんだね』
少し感心したように笑みを浮かべて、続ける。
『なんか、ちょっとだけイギリスの田舎を思い出す……かな。でも、日本でこういう風景って、ちょっと不思議』
「俺も関東の地理はあんまり詳しくないけど、千葉って思ってたより内陸にこういうとこ多いんだな……。なんか、俺たち海の方に向かってる筈なのに、山の方に向かってるしな……」
車窓の先には、色づきはじめた木々と、集落のような家並みがぽつりぽつりと見える。
クレアは、少し身を乗り出すようにして外を眺めた。
『海、楽しみだな。イギリスの海って灰色っぽいから、太平洋ってどんな青なんだろうって、ずっと思ってた』
「晴れてれば、きっと綺麗に見えるはず。九十九里って、めっちゃ広い砂浜があるって聞いたことあるし」
『うん。はやく見たいなあ』
そう言いながら、クレアはカバンの中からファイルを取り出すと、そこから挟んであった折りたたんだ地図を取り出した。
自分で旅のしおり的なのを作ったらしい。準備のいいやつめ。
『たしか、次に降りる駅にカーシェアがあるみたいだ。地図だと駅から歩いてすぐのパーキングみたいだったけど……』
「クレア、ナビ任せていいか?」
『もちろん。でもカヅキが道に迷うのは禁止だよ?』
「……それはちょっと自信ないな。任せろ、何せ迷うのは俺の専売特許だ」
『……ちょっと、なにそれ。不安なんだけど』
ふたりの笑い声が重なったそのとき、電車は山奥にある菜園を静かに通過した。
揺れる車内。風に揺れるススキの向こう、刈田と森の間を抜けて、電車は静かに秋の中を走り抜けていく。
クレアがふと、車内の吊り広告に目を留める。
『あ、これ……ほら、九十九里浜の観光地図。なになに──ビワソフトクリームって有名らしいよ』
「ビワか。千葉ってビワが有名なんだな」
『うん、館山とか。あ、あとイワシのなめろうもあるって。なんか渋いね』
「完全に酒のつまみだな……かりんとかが喜びそうなやつだわ」
香月がつぶやくと、クレアは目を丸くする。
『えっ、かりんさんってもう妊娠六ヶ月とかだよね? お酒はもう無理でしょ……』
「……アイツの場合、『妊娠中だからこそ酔いたい』って発想になるんだよ。本当、意味わかんねえよな」
『えっ、こわっ!?』
「先週、支部のミーティングでさ。唐突に『気づいちゃったぁ♡』って、超キラキラした顔で言い出したんだよ」
香月はため息まじりに、肩をすくめた。
「『精神干渉魔術で脳の報酬系に作用すれば、アルコールなくても酔えるんじゃないかなぁ〜?』って」
『なにそれ!? 合法なの!? ていうか妊婦が言っていいセリフ!?』
「しかも『いかに酔ってると錯覚するか』って、セロトニンとドーパミンの比率を調整する式を組み始めてさ……。『自分の脳を自分でハッキングできちゃうかも〜』とか言って、もうノリが完全にマッドサイエンティストなんだよ」
『うわぁ……精神干渉魔術って、そういう使い方も……いや、しないでしょ普通……! ある意味魔術師らしいけど……!』
「『体は完全にシラフなのに、思考と感情だけがへろっへろの酩酊モード♪』とかほざいて、めちゃくちゃ楽しそうにしてた。後日協会系列の病院でMRIまで借りて検証してたらしいぞ……」
『公私混同にも程がある!! 魔術協会のリソース、そんなとこに使うの!?』
「しかも、『この状態、記憶もろくに残らないの最高〜♡』って言いながら、記録ログ見て『笑いすぎて喉枯れちゃったぁ♡』って満足げだったからな……」
『え、こわ……っていうかもはや悪魔の研究じゃん……! 狂気と論理の合わせ技の到達点……!』
「極めつけは、『お腹の赤ちゃんには酔わせてないからセーフだよ〜♡』って。あと、『ママのハッピーは、胎教のベース♡』とかほざいててな……」
『胎教に精神干渉とか、新時代すぎてついていけない……!』
風に揺れるススキが、遠くの丘に影を落としていた。車窓の外の景色は変わらないが、車内だけがどこか異世界めいていた。
「おまけに『酔ってるときのママの声って、音程が半音下がってて赤ちゃん的にめちゃくちゃ心地いいの♡』とか言ってたな──」
『それ、何の研究!? 発想だけは天才的だけど、誰も求めてない方向に深掘りしすぎ!!』
「挙句、『胎児の耳にも最適なエフェクトかけて、脳内オルゴール再生してあげてるんだよ〜♡』って……まさかの魔術式脳内BGMまで編み出してんだよ」
『嘘でしょ!? 精神干渉魔術と音魔術の合わせ技とでも言うの? もう音楽と魔術の境界線が迷子じゃん!? 妊婦ってそんな自由だったっけ!?』
「最後は、なぜか急に真顔でな──
『お酒ってのはね、酔うためにあるんじゃないんだよ。酔いたい時に、そこにあるってことが大事なんだよ〜』ってな。『瓶を目の前にすれば酔える』って言い出すんだ。イカれた発想過ぎてついていけなかった……」
『なにそれ超良い話っぽそうなのに、スタート地点のせいで全部が台無し!! まるでチャーチルのマティーニかな? 英国首相のチャーチルがベルモットの味が甘いから、ベルモットの瓶を横目にジンだけ飲んでマティーニって言い張ってるってエピソードに何か近い! なんかめちゃくちゃ!』
「俺も思わず、『いや、そんなやべー領域の話を魔術で解決するな』ってツッコんだよ。そしたらまた笑ってさ──」
香月は、ちょっと呆れたように、それでもどこか微笑ましげに言った。
「『赤ちゃんには、ママの全力の人生を聴かせてあげたいんだよ〜♡』ってさ」
『うわあ……なんだろう……倫理観が半壊してるのに、愛だけは本物っていうか……』
「だからタチが悪いんだよ……姫咲かりんっていうヤツはさ……」
車内に、電車の静かな揺れだけが戻る。
──その向こうに待つのは、旅情とは程遠い現実。
だが今はまだ、彼女の迷言に笑いながら、風の匂いと、山林のざわめき、各駅停車の列車のモーターの振動に身を任せていられる時間だった。
◆
成東駅からカーシェアの車を借りて走る事およそ三十分。
海岸沿いの舗道を抜け、鬱蒼とした松林の細道を進んでいくと──視界が不意に開けた。
そこに、朽ちかけたペンションがぽつりと建っていた。
かつて白く塗られていた外壁は、潮風と風雨に削られ、塗装は剥げ落ち、下地のモルタルが無残に露出していた。
青かった屋根瓦も色褪せ、苔に覆われ、いくつかは欠けていた。
それでも小塔の上に据えられた風見鶏だけは、錆びつきながらもなお、風の向きを示し続けている。
庭は、もとは丁寧に造園されていたのだろう。
だが今では、咲き終えた花壇の縁石は崩れ、植え込みには名も知らぬ雑草がびっしりと生い茂っていた。
人の手を離れて、季節をいくつも越えたその庭には、もはや手入れの痕跡はほとんど残っていない。
玄関先には土の抜けた植木鉢がいくつも転がり、割れたガラス片が雑草のあいだからきらきらと覗いていた。
朽ちかけた看板は柱ごと傾き、かすれたアルファベットの名──「SEA BREEZE」だけが、かろうじて読める状態だった。
「……潰れた宿って、こういう雰囲気なんだな。麗奈のメモでは、ここで間違いないはずだけど……」
香月の言葉に、クレアは無言で頷く。
車を降り、砂利をざくりと踏みしめる音が響く。潮の匂いを含んだ風が吹き抜けた。
この場所は、かつて地名のあった海岸の一角。
だが今では──オカルトじみた殺人事件の舞台となったせいで、人の足が遠のき、地図からも名を消されたと聞く。
さっきまで海岸沿いに漂っていたあの明るい空気は、すっかり消え失せていた。
空が曇ったわけでもないのに、胸の奥が妙に重い。
『……空気、変だね。胸の奥が、ぎゅっと詰まるみたい』
「魔力の残滓が残ってる。使われなくなって久しいらしいが……妙に濃いな」
香月は慎重な足取りで、玄関へと歩を進めた。
扉はくすんだ木製の両開き。錆びた蝶番が、軋んだ音を立てて開く。
──ぎい、と。
その先に広がっていたのは、静まり返ったロビーだった。
天井からはガラス傘のついた電球がいくつも吊るされていたが、いくつかは割れ、床に破片を散らしている。
窓辺には薄いレースのカーテン。煤けて破れた布が風に揺れ、隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。
床には砂と枯葉、飛ばされてきた紙屑、そして鼻をつくカビの匂い。
だが──
そこには、妙な違和感があった。
テーブルと椅子はきちんと揃えられ、受付カウンターにはペン立てとベルが、そのままの位置に残されている。
壁の掛け時計は止まっていたが、針はまるで誰かの手で合わせられたかのように、「4時44分」で静止していた。
「……廃墟というより、封じられてるって感じがするな。誰にも触れられないよう、意図的に放置されたみたいだ」
香月が低く呟き、ふと足元を見る。
玄関マットの下に、かすかに光を帯びた線が浮かび上がっていた。
白亜のチョークで描かれたその線──それは、魔術式の一部だった。
『……結界? 足止め系?』
「いや、これは魔術空間を構築する術式だ。何かの行動をトリガーに、内部にアクセスするタイプの……」
香月の指先が、床の線をそっとなぞる。
滲んでいるが、魔力の残り香が、確かにそこに宿っていた。
「……妙だな」
ぽつりと漏らした彼の声に、クレアが小さく首をかしげる。
『なにか、変?』
「ああ。構成は基本的な起動式……だけど……」
香月は眉を寄せたまま、その術式を見つめた。
「見たことがある気がする。──術式じゃなくて、感触が」
『誰かの癖に似てるとか? 流派の特徴とか……』
「いや、それも違う。どこにも属してない。これは術者自身の独自構成だ。でも──」
彼の声が、かすかに掠れる。
「この感覚……知らないはずなのに……知っている気がする」
記憶の奥に、氷のような指先が這い寄ってくるような、薄気味悪い感覚。
不快で、ぞわりとするのに、それでいて懐かしい。
思い出せそうで思い出せない。夢の中の断片に触れたような既視感。
『……精神干渉? 記憶を曖昧にする仕掛けがあるのかも』
「わからない。ただ──これは気味が悪いな」
香月は静かに立ち上がった。
「ここらから先は多分、人形師の魔術工房だ。踏み込めば、何かが始まる。──そんな気配がする」
その声音に、クレアも思わず息を呑んだ。
『……でも、ここまで来たんだよ? 慎重になるのはいいけど、引き返す気はないよね?』
香月は頷き、ポケットから一本の金属棒を取り出した。細部に魔力解析の術式が彫り込まれた、簡易型の魔道具だ。
人体に対する解析に特化している香月の魔術では、こうした術式の構造を正確に読むには不十分だった。
だから念のため、処理班の清香から簡易型の魔道具を借りてきた。
彼はその魔道具を、慎重に術式の縁へとかざす。刹那、空気の層に淡い光が走った。
感触は──やはり、馴染みがあり、そして不気味だった。
知らないはずの術式。けれど、どこかで『知っている』と囁く自分がいる。過去のどこかに、鍵をかけられた記憶があるような──そんな感覚だ。
それが人形師に繋がるものなのか、それとも別の何かなのか。
答えはまだ、闇の中だ。
「……入るぞ」
香月が短く言う。クレアは無言で頷いた。
そして、彼の足が術式の中へと踏み込んだ瞬間、空気がわずかに音を立てて揺れた。
人形師の魔術工房への扉が、静かに開かれた。