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【第五章完結】現代魔術は隠されている  作者: 隠埼一三
Episode Ⅴ『人形師編』
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2.この道中、その先に

 十月の名古屋。秋晴れの空に、うっすらと白い雲が浮かび、乾いた空気にはほのかに金木犀の香りが漂っていた。

 季節の移ろいを感じさせる朝。香月とクレアは、新幹線ホームに並んで立っていた。


 向かう先は千葉・九十九里浜──かつて人形師が仮拠点として使っていた、今は廃業したペンションである。


「……そういえば、朝メシ抜きだったな」


 ホームに上がった途端、香月がぽつりと漏らす。クレアも無言で頷いた刹那、彼女の腹の虫が控えめに主張した。


「じゃあ、寄ってくか。──ほら、あそこ」


 香月が顎で示したのは、ホーム端の立ち食いきしめん屋だった。地元民には“定番”とも言えるその店には、スーツ姿の会社員や旅行者が列を作っている。


「懐かしいな……イギリスじゃ、こういうのなかったからな」

『うん……あっちじゃ立ち食い文化なんてほとんど無かったし、日本人って本当に忙しいんだなあって思っちゃう』

「そうそう。あっちはPret A Mangerプレタマンジェとか、パックのサンドイッチばっかだったろ。カウンターで立って済ます人はいても、基本座って食べるしな」

『でも、こういうのって、なんか味わい深いよね。ワビサビっていうの? ……そういえばさ』


 クレアがふと懐かしそうに笑う。


『魔術学院の頃、ロンドンにできたあのお店、カヅキとよく行ってたよね』

「ああ、あれか──」

「『丸亀UDON(うどん)』」


 二人の口から同時にこぼれたその名に、自然と笑みが生まれる。


「ロンドンじゃ貴重だったよな。ちゃんと日本の味がして、しかも安くて」

『ほんとほんと。五ポンドちょっとで天ぷらまでつけられたし……。ボク、チキンカツカレー好きだったなあ』


 クレアの言う「チキンカツカレー」は、日本でいうカツカレーうどんの事だ。ロンドンの店舗ではライスかうどんを選べたが、クレアはいつも迷わずうどんを選んでいた。


「本当に好きだな、カレー。でもな、日本じゃカツカレーうどんにガリなんて乗せねぇし、トッピングにアボカドとかベーコンとか……ちょっと理解が追いつかねえよ」

『ふふ。確かに。でも、あれはあれで向こう仕様だったんだよね』

「まあ、ローカライズってやつだよな。……日本式カレー食いたきゃ、素直にココイチでも行っとけって話だ」


 そのとき、香月の手元に、きしめんの丼が差し出される。削り節が湯気にふわりと舞い、出汁の香りが鼻腔をくすぐった。


『でもさ、やっぱり気づくんだよね。日本に来てからさ』

「……本場は、安くて美味すぎるな。あっちの半額だからな」


 ふたりは言葉少なに、朝の光の中で箸を動かす。



挿絵(By みてみん)



 ほどよいコシと甘みのある出汁が、空っぽだった胃と心にじんわりと染みていく。


『……なんか、沁みるね。こういうのに、ちょっと憧れてたんだ』

「旅の前にこういうのも、悪くないよな」


 丼を空にしたふたりは、静かに車両へと向かった。


 ──向かう先には、忘却と痕跡消去の魔術で隠された、人形師の影が待っている。


   ◆


 新幹線が、秋の陽光を切り裂くようにして東へ走る。


 十月の空はどこまでも澄みわたり、窓の外には雲ひとつない青が広がっていた。


 香月とクレアは並んだ座席に腰掛け、一冊のメモ帳を覗き込んでいた。

 ──霧島麗奈の手による、人形師の拠点に関する詳細な記録。地図、建物の構造、監視のタイミング……その全てが、整然と記されていた。


「……本気で情報屋でもやっていけるレベルだな」


 香月の声には、驚きというより、どこか警戒めいた響きが混じっていた。


『これだけの記録、相当な覚悟で書いてたんだと思う。レイナさん……自分の過去を忘れたくなかったのかも』

「……忘れたくない、か」


 香月は短く呟いたが、どこか言葉に詰まるようだった。クレアはそれを深く追及せず、そっと彼を見やる。


『ボクも、書けると思うよ。──カヅキとの毎日を日記にするだけなら』

「やめてくれ。お前まで記録魔になる気か」

『違うってば。ボクは、想い出を閉じ込めておきたいだけなんだよ』


 その声は、どこか切実だった。ふざけた調子ではなく、芯のある響きで。


『カヅキとの日々って、当たり前みたいで……でも、ある日突然、消えてしまいそうで怖いんだ。だったら、思い出せるように残したい』

「……消えるわけないだろ」


 反射的に返したが、クレアは小さく首を振った。


『そう思ってても、世界は簡単に壊れる。……ボクは知ってるよ。だから今がどれだけ大事か、ちゃんと分かってる』


 クレアの視線が香月を射抜くように真っ直ぐ向けられる。


『ねえ、カヅキ。ボクね──キミがどこまで遠くに行っても、絶対に追いかけるよ。ずっとそばにいる。そう決めてる』


 不意に、香月は息を呑んだ。

 何かを答えようとしたが、言葉は口の中で止まり、形にならなかった。

 ──この距離感。

 かつては兄妹のようだったはずの関係が、いつの間にか揺れている。


「……クレア」


 ようやく名を呼ぶと、クレアはわずかに笑みを浮かべ、香月の肩にもたれかかった。


『何だい? プロポーズなら今すぐでも受けるけど?』

「……いや、そういうのじゃなくてな……」

『うん、知ってる。カヅキが優柔不断っていうか、恋愛は奥手ってことくらい。でも、ボクの気持ちは変わらないから。ずっと、ずっと一緒にいたいんだ』


 列車は次第に東京へと近づいていく。

 その先には、避けてきた因縁との対決が待っている──かつて自分を「素材」と呼び、肉体を加工した人形師との決着が。


 緊張と覚悟が胸の奥をかすめる中、香月はふと、自分の肩にもたれるクレアの体温を意識していた。


「……クレアの場合、仮に俺が断っても一緒に居ようとするだろ。気が変わらないなら……まあ、何だ。俺はそれで良いよ。お前が居てくれると嬉しい……」


 そう言ってから、彼自身が一瞬驚いたように黙る。

 クレアは小さく笑っただけだった。


『うん、そうだね。そうする。仮にカヅキがボク以外の人とくっついても奪うつもりでそうするから』

「……クレアならやりかねないな」

『わかってるじゃん』


 白い車体は、静かに進む。

 過去と未来を繋ぐように、東へ、まっすぐに。


   ◆


 東京駅に到着した車内アナウンスが流れると、香月とクレアは静かに立ち上がった。


 ドアが開くと同時に、構内の喧騒が一気に押し寄せてくる。スーツケースを引く旅行者、案内板を見上げる外国人、スマホ片手に早足で歩くサラリーマン──人の波は歩調も目的もバラバラで、まるで音もない巨大な潮流のようだった。


 名古屋ではまず味わえない、この密度。この雑多さの中に、東京という街は、あっけらんかんと何事もない顔で立っている。


「で、ここからどう行くんだっけ? 九十九里浜の廃ペンションって、千葉の外れだよな」

『うん。総武線で千葉まで出て、そこから総武本線で──駅からは車で十五分くらい。ボク、レンタカー予約してあるから』

「お、そりゃ助かる。てか、お前が自分で段取りするなんて珍しいな。いつも俺に丸投げなのに」

『今回はちょっと気合い入れてるんだよ。カヅキと小旅行だし……。でも、レンタカー予約するとき、カードの上限ちょっと気になっちゃってさ。それで、パパに相談したの。そしたら──』


 クレアは胸を張る。


『ブラックカード、持たせてくれた。しかも、メイドを飛行機で飛ばして』

「……は?」


 香月は思わず足を止め、振り返る。その顔には、明らかな引きの色が浮かんでいた。そりゃもう、ドン引きである。


『パパ』はもちろん、クレアの父──リーヴァイ・フォード。ロンドンの魔術協会本部に籍を置く、風系魔術の名門・フォード家の当主であり、筋金入りの娘溺愛お父様でもある。


「フォード卿が? さすがにやりすぎだろ。それって、まさか──」

『うん、メイド長補佐のオウカさん。連絡してから半日でセントレアに来て、名古屋に着くなり休む間もなくカード会社の人と面談してくれて──その日のうちに受け取れたの。さすがでしょ?』

「いや、スピード感おかしいだろ! あの人は仕事選んでくれよ……。オウカ姉さん、魔術も普通に使える優秀な人なんだぞ!?」


 オウカ──正確には朱雀院(すざくいん)桜花(おうか)。かつて日本では、符術を家伝とする陰陽師の名門に生まれたが、ある事情から家は没落した。

 その後、フォード家に預かりとして迎えられ、魔術師としての研鑽を積む代わりに、メイドとして仕えることになった。


 本来なら、一定の修行を終えたのち独立し、家の再興を目指す──それが当初の取り決めだった。

 だが、彼女はなぜかそのままフォード家に残ってメイドを続けている。

 曰く、「フォード家の皆様のお世話は、私の天職です」とのことらしい。


 今では「執事長補佐」という少し曖昧な肩書きのもと、メイドとして、時に戦闘要員として、フォード家の要の一人を担っている。


 フォード家は、没落した魔術師の庇護と育成にも力を注いでおり──オウカも、香月自身も、その恩恵を受けて育った客分のひとりだった。


『でもオウカさん、「クレア様に不便があってはなりませんから」って、すごく嬉しそうに動いてくれたよ?』

「……完璧すぎるのが逆に怖いんだよ。てか、本当にブラックカードってあるんだな……」

『あるよ。家族カードだけど、限度額なし。なんでも買っていいって言われた』

「言われたからって使うなよ!? 旅費でブラックカードって、お前……いや、実際財閥令嬢か……」


 香月は頭を抱えつつも、目をそらすように前を見やる。


『旅費くらいで何騒いでるの。パパなんて「可愛い娘が異国で不自由してると思うだけで、心が張り裂けそうだ!」とか言ってたんだよ?』

「それ、名言っぽく言ってるけど正気なのか? そうやって甘やかすから、いろいろ麻痺するんだって……」

『カヅキだって知ってるでしょ? うちの家の過保護は、仕様みたいな物なんだから』

「確かに? そういや、今のお前の住まいもすごかったよな。都心の高級マンションで、セキュリティ空港レベルって聞いたぞ?」

『うん。パパいわく、「クレアに何かあったら、王国の危機より一大事」なんだってさ』

「国家より優先順位高えのかよ……」


 香月は肩を落としつつも、そこにある過剰なまでの愛情の裏側を、彼なりに理解している。

 リーヴァイ・フォードの極端な愛情は、クレアにとって自由を守る境界線でもあるのだ。


『でもね、パパには感謝してる。何をするにも、基本的に口出しはしない人だから。ただ、必要なものは全部、過剰なくらいに与えてくれるの』

「口出ししない代わりに全部盛りって、一番厄介だと思うぞ……」

『ふふ、そうかも。パパって変なところ、不器用だしね。でも、カヅキがいたから、ボクは日本に来るって言えたんだよ。パパも、それはちゃんとわかってくれてた』

「でも、俺がクレアにいかがわしいことしたら『国王陛下に誓って八つ裂きにする』って言ってんだろ……?」

『うん、言ってたね。でも大丈夫だよ。別にカヅキからじゃなくても。だってカヅキには、ボクからいかがわしい事をするし。既成事実作っちゃえば、パパも押し切れるよ』

「前提がそもそもおかしいし、言い方が怖えわ……」


 香月はこめかみに手を当て、人の波の中をかき分けるように歩いていく。

 隣でクレアは、肩をすくめながら笑っていた。


『でもね、そういうのってタイミングが大事なの。理屈より、雰囲気と勢い。既成事実って、そういうものでしょ? 今夜なんか持ってこいだと思うんだけどな』

「本人の前で堂々と言うな……」

『大丈夫、大丈夫。ちゃんとカヅキから許可は取るから。ボクって結構誠実だからね?』

「その誠実の定義が信用ならねぇんだよ……」


 香月は再び深いため息をつきながら、ふと前方を見やった。


「でもまあ……クレアが日本に来て、こうして一緒に動いてるのって、よく考えるとすごいことだよな。普通なら、英国で研究職とかしててもおかしくないのにさ」

『うん。パパには申し訳ないけど……ボク、日本が好きなんだ。カヅキがいるし、空気も肌に合うし──何より、自分で歩いてるって実感があるから』


 その言葉には、ふだんの飄々とした彼女からは想像できない静かな決意がこもっていた。


『ロンドンでは、どこに行ってもフォード家の令嬢って扱いだった。表でも、裏でも。でも──』

「日本では、クレアはただのクレアでいられるもんな」

『うん。誰かの娘でも、妹でもなくて。ボク自身でいられる。それが、嬉しいんだ。だから──頑張りたいんだよ。カヅキと一緒にいる時くらいは、ね』


 香月は少し黙ってから、視線を前に戻す。


「……なら、俺も応えなきゃな。せめて、ご令嬢様の荷物持ちくらいは、しっかりやらせてもらいますよ」

『あ、じゃあ荷物だけじゃなくて、ボクの全部、お願いしてもいい?』

「言い方考えろ! それフォード卿に聞かれたら誤解されるやつだからな!」

『誤解じゃないよ? ボク、本気だから』

「……それはそれで困るんだよ……」


 そう言いながらも、香月の口元には苦笑が浮かんでいた。


 クレアは彼の肩に、そっと身を寄せる。

 その何気ない仕草に、香月は不思議と胸の奥が温まるのを感じた。


 ──東京駅の雑踏の中で、ふたりは肩を並べて歩いていく。


 荷物を転がす音、構内アナウンス、無数の足音の波。その中でも、ふたりの歩調だけは、不思議とぴたりと揃っていた。


「……総武線のホームって、こっちで合ってたか?」

『うん、大丈夫。4番線に来る電車が快速だから、のんびり行こっか』

「了解。……てか、今回やけに準備万端じゃないか? いつものクレアと違う気がするな」

『むぅ、失礼な。ボクだってやる時はやるの。だって今回は──』


 一拍置いて、クレアはふわりと笑った。


『カヅキとふたりの冒険なんだもん。準備不足で台無しにしたくないでしょ』

「……なるほどな」


 電車がホームに滑り込んできた。

 クレアが一歩、香月の前に出る。その背を見て、香月もまた歩き出す。


 開いたドアの向こうには、しんと冷えた車内の空気と、旅の始まりを告げる静けさが待っていた。


 ふたりは並んで電車に乗り込む。

 扉が閉まり、地下の静寂を切り裂くように、車体が静かに動き出した。

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