1.始まりの喪失
──雨が降っていた。
暗い空を切り裂くように、機体の片翼が炎を噴いた。黒い煙が尾を引き、金属が悲鳴のように軋む。
飛行機は、斜めに傾いた。
母が叫んだ。
父が、香月をかばった。
そして──世界が、裏返った。
窓が砕け、音が消えた。
光も、色も、体温も、香月の中から流れ出していった。
気がつけば、腕の中に母はいなかった。
父の手も、もうなかった。
どこか遠くでサイレンの音がしていた。
けれど、それが自分に向けられたものだとは──しばらく、わからなかった。
あの日から。
香月の世界には、誰もいない時間が始まった。
病院の白い部屋で、香月はひとりだった。
誰が来ても、彼は何も言わなかった。
呼ばれても、食事が出されても、ただじっと、壁のシミを見ていた。
やがて彼は『親のいない子供』という分類に収まり、「引き取られる」ことが決まった。
行き先は──グレイヒル修道院。
霧に包まれた英国の片隅。石造りの、冷たい建物。
そこには「子供たちが暮らしている」と説明されたが、あまりに静かすぎた。
誰も、笑っていなかった。
話しかけてくる声も、まるで機械のように無機質で。
大人たちは修道服に身を包み、香月に祈るよう命じた。
けれど、祈った先に両親はいなかった。
何度手を合わせても──誰も、帰ってはこなかった。
──ある日。
「君に、新しい保護者が決まった」
院長がそう告げたとき、胸の奥が、ほんのわずかに軋んだ。
もう一度、家族ができるのかもしれない。
けれどその誰かは、笑っていなかった。
黒いスーツに、黒い手袋。
顔を覆う仮面の奥、その瞳には何の感情も映っていなかった。
「いい子にするんだよ」
見送りのシスターは微笑んでいたが──
その笑顔さえも、どこか作り物のように見えた。
車に乗せられ、森を抜け、石の坂道を下りた先。廃工場のような、鉄とコンクリートの建物がそこにはあった。
扉が開く音がした。
香月は、その中へと連れて行かれた。
◆
記憶は、そこから断片的になる。
最初は、言葉を投げかけられた。
「身体を強くしてやろう」「お前には素質がある」
その声は、金属を擦るような響きだった。人の口から出た音だとは思えなかった。
香月は首を振り、帰りたいと伝えた。けれど、その声は届かなかった。
次に始まったのは、検査だった。
血を抜かれ、体を撫で回され、目の奥に、奇妙な光を差し込まれた。
──それが魔術による施術だったと知るのは、ずっと後のことだ。
そして、加工が始まった。
「これはお前の未来のためだ」
声はやさしげだった。けれど、その手は冷たく、香月の腕を躊躇なく切開していた。
全身を拘束され、幾本もの針が刺さる。
骨に異物が埋め込まれ、筋肉が裂かれ、背骨に冷たい鉄が這い上がっていった。
痛みはあった。だが、それ以上に恐ろしかったのは──
自分の身体が、自分のものではなくなっていく感覚だった。
右腕が重い。
左足が、別の素材でできているかのように馴染まない。
鏡はなかった。
けれど、それでも分かった。これはもう──母の手を握っていた手ではない。
父に肩車されたときの、あの足ではない。
(……俺の身体は、誰のものだ?)
叫ぼうとしても、声は出なかった。
喉の奥に、何か硬いものが詰まっている気がした。
部屋の隅には、別の子供がいた。
無表情で、ただ順番を待っているようだった。
その子が、どうなったかは思い出せない。
ただ──ある日、その子はいなくなり、香月の腕が、少しだけ軽くなっていた。
それが何を意味するのか。
彼は知っていた。
だが、それを認めた瞬間、自分が壊れてしまいそうで──目を閉じた。
部屋の明かりは、ぼんやりと青白かった。天井には、焼き焦がしたような術式の痕跡。
香月は、その模様がなぜか泣いている顔に見えて、視線を逸らした。
壁には、子供の背丈に合わせた枷とベルト。床には、乾いた血の跡。
香月は、自分の胸に手を当てた。
鼓動はある。息もある。
けれど、それが『自分』だという確信は、もうどこにもなかった。
この工房にいた子供の一人が、こんなことを言っていた。
「神を封じるには、器がいる」と。
──もし自分が、その器なのだとしたら。
『大神香月』という人間は、もうどこにも存在していないのかもしれない。