エピローグ
時は遡る──
それはオル・カディスの抹消から、ほんの数分後のこと。
魔術空間は、陽子の手によって静かに解除された。
喚び出された魔術空間の景色は現実世界の景色へとゆっくりと回帰し、壊れかけた地下神殿の天井と床が徐々に形を取り戻していく。
しかし、その場に残された焦げ跡や破損した構造物は、先ほどまでの戦いの激しさを物語っていた。
中央では、香月が意識を失ったまま地面に横たわっている。
その身体を支えるクレアの手は震えており、シャルロットも傍で警戒を解かずに周囲を見回していた。
陽子は、周囲を見渡してある人物を探していた。
──人形師だ。
オル・カディスの抹消、その直前に香月の中から現れた何かの存在。
そして、その膨大ともいえる超越した力が発動されても、香月の身体が保たれていたという事実。
あれは偶然ではないと、感じていた。
人形師が香月の身体に何かを施していたのは、間違いないのだから。
(……居るはず。こんな状況を見逃すはずがない)
陽子の視線が焦げ跡の奥、崩れた柱の影に止まる。
そこに、わずかな違和感──空間の歪みがあった。
何もないはずのその場所に、わずかに揺れる靄のような気配があった。
「……行くつもり?」
陽子は、他の誰にも聞こえない声で静かに問いかけた。
その瞬間、周囲の時間がほんのわずかに滞ったように感じられた。
クレアの震える指先も、シャルロットの警戒する視線も、その刹那だけは遠い世界のことのように感じられる。
崩れた石壁の影から、ぬるりと白衣の男が姿を現す。
──人形師。
フードを深く被り、その顔は見えない。だが、存在感は強烈だった。
「やはり、見逃してはくれないか」
低く、どこか諦めを含んだ声が空気を震わせた。
陽子は歩み寄ることなく、一定の距離を保ちながら問いを続ける。
「あの少年の中にある『アレ』は、貴方の仕込みなの? あるいは──」
「……違う。仕込んではいない」
「じゃあ、あれは自然に目覚めたとでも? 貴方の手が一切入ってないなんて、誰が信じるんだよ」
陽子の声には、静かな怒気が混じっていた。
しかし人形師は淡々とした口調で、それを受け流す。
「俺は可能性を整えただけに過ぎない。俺はただ……器を調律しただけだ」
「器なんて言い方、軽々しくしないで」
陽子は睨みつけるように視線を向けた。
「彼は人間なんだよ。貴方の道具でもなければ、実験体でもない。勝手に触れて、勝手に手離して──何様のつもりなの?」
だが人形師は、動じなかった。
「……俺の目的は、観測だ。あの少年が、何に至るのか。あれが神性であるなら──彼はこの世界にとって祝福であり、同時に破滅でもある」
「……だから何だって言うの? それを見届けるだけなら、何もしなければいい」
陽子が一歩だけ前に出る。
「だけど貴方は、見届けるだけの人間じゃないよね? 気まぐれに手を加えて、壊れるかもしれない未来に、無責任な火をくべた。彼はね、そんな火に呑まれるほどやわじゃない。だけど──貴方の存在そのものが、彼の危うさを増幅させてる」
その言葉に、人形師はわずかに肩をすくめた。
「……それでも、俺には必要だった。あの器を、ここまで育てたのは、俺だ」
「……言いたい放題だね」
陽子の口元が僅かに歪む。
「それにね、もう一つ文句を言いたい事がある」
陽子は少しだけ声を低くし、真っ直ぐに人形師を見据えた。
「──貴方、私に会ったことあるよね?」
空気が変わった。
それまで冷ややかだった人形師の気配が、ほんの僅かに、けれど確かに揺れる。
だが、彼は何も言わない。フードの奥に隠れた表情も読めず、ただ沈黙のまま陽子の問いを受け止めていた。
陽子の眉がわずかにひそめられる。
「……私にとっても随分と遠い遠い昔のことだったから、記憶違いかもしれない。でも、どんなに顔を隠してても、姿を変えても──私は、貴方の空気を覚えてる。初めてじゃない、絶対に」
答えは返ってこない。
ただ、風が吹いた。崩れかけた天井の隙間から差し込む冷たい空気が、焦げ跡の残る空間を静かに撫でていく。
陽子は、少しだけ視線を逸らした。けれど、その声はなおも追及の意を含んでいた。
「知らぬふりでも、黙り通せば済むと思ってるの? 貴方みたいな人が、そう簡単に感情を捨ててるとは思えない。少年の肉体を加工したのも、きっとただの実験欲じゃないよね? ──私には、そう見えるよ」
その言葉に、人形師は微動だにしなかった。
沈黙が続いた。まるで、永遠にも思えるような長い静寂。
やがて、人形師はぼそりと低く呟いた。
「……知らないな」
それだけを言い残し、ゆっくりと背を向ける。
白衣が揺れ、靄のような存在が闇へと再び溶け込もうとする。
その瞬間、陽子の声が追いかけた。
「──エリオット・ペンデュラムの遺した魔術書を、貴方は今も持っているの?」
足が止まった。
ぴたりと、人形師の背中が静止する。
だが、振り返ることはなかった。
再び、沈黙が場を支配する。
それは、先ほどまでのそれよりも遥かに濃く、深く、そして重かった。
数秒──いや、永遠のような一瞬ののち。
人形師は、感情を削ぎ落としたような声で呟いた。
「……あの男に伝えてくれ」
その声は、靄に滲むように低く淡い。
「期は満ちた。お前は、俺を殺すに相応しい。俺を殺しに来い──そう伝えてくれ」
言葉に続いて、ほんの僅かに間が空く。
「……貴方の秘密結社の中に、かつて俺と会った者がいるはずだ。心当たりを尋ねるといい。俺は──俺の本体がそこで待っている。それで俺を終わらせるつもりだ」
そして──それきりだった。
白衣の男は靄の中に溶け、音もなく姿を消した。
まるで、最初から幻だったかのように。
◆
そして、時は現在に戻る。
陽子の魔術工房には、いつものように静寂が漂っていた。
ただ一つの魔術灯が柔らかく揺れ、その光は魔術書や観測具の並ぶ棚に静かに影を落としている。
その中心、机の前に座る陽子は、両肘をついて黙り込んでいた。
手元にあるのは、古びた魔術書。エリオット・ペンデュラムの遺稿、二十年前魔術学院での襲撃事件の時に表向きには消失したはずのものだ。そして、エリオットが陽子とジェイムズに託した物でもある。
彼女はその表紙を開くこともせず、ただ指先でゆっくりと撫でながら、ぽつりと漏らした。
「……なるほど。時魔術の発展系、か」
その言葉に、誰かが応じることはない。
けれど彼女は確信していた。
あの男──人形師が、単なる外道のはぐれ魔術師ではないことを。
香月の肉体に施した加工の技術的な精度と、世界線が変わる度に香月の肉体に施されてた術式の細部が微妙に違っていたこと、そしてあの一瞬に垣間見えた断片的な感情。
「どれだけ顔を隠しても、声を偽っても……仕草や、沈黙の選び方は、嘘をつけないんだよ」
机の上には、小さな水晶観測器があった。
彼女がその装置に魔力を送り込むと、空中にいくつもの光の軌跡が浮かび上がる。
それは、陽子の時間のループに接続された因果の枝。膨大な分岐数。一本だけ外れて一つだけ長く長く伸びた道筋が現在。そしてもう一つの長い道筋がある。
そこで出会っていた人物だ。
彼女の視線は、二つの長く伸びた因果の線を交互に辿る。
一本は現在──彼女が千年以上の時の果てにたどり着いた、伊深未来がエドワード・クロウリーの肉体を乗っ取っていた古代魔術師に肉体を奪われなかった世界線。
もう一本は、伊深未来が肉体を奪われて、魔の王として君臨し世界を崩壊させる地点から唯一陽子が二十年生き続けた世界線。
「……命を落とさなかった、唯一の例だった」
その声には、安堵も怒りもない。
ただ、静かに観測者としての重責を背負った魔術師の声があった。
繰り返す時間の中で、陽子自身もまた数多の分岐を辿ってきた。
その過程で何度も見てきた──仲間達の死。イヴ救出の失敗。そして、世界の崩壊、魔術が現代に解き放たれて混沌とした未来。
「そう……一度だけ、生き残った」
その時間線では、その人物は生命を保った。
代わりに、何かを捨てたのだ。心か、肉体か、それとも──自分自身か。
陽子は、魔術灯の揺れる光に照らされた観測器をじっと見つめる。
「あの魔術書……あれを手渡したのが、もしあるとすれば、あの世界線では──五年後。今よりもっと未来のことのはずだった。だから、ここには存在しない筈の人物の筈だ。それでも……あの時、あの男の空気に覚えがあった」
唇が苦く歪む。
彼が自分に対して言葉を選び、沈黙で感情を覆い隠そうとしたこと。
それでも、彼の感情の揺れが、その魔力の端々に滲んでいたこと。
──そして、あの最後の言葉。
「お前は、俺を殺すに相応しい。……言い方がまるで、自分を罰しに来てほしいって言ってるようだった」
そう。
彼は自分という存在を終わらせてほしいと願っていた。
それが贖罪なのか、解放なのかはわからない。
だが、それは明らかに陽子と同じ『観測者』としての言葉ではなかった。
「君は、見ていたんじゃない。──あの子に成れなかった自分を、あの子を通して救おうとしているんじゃないのか」
声に苛立ちが混じる。
机の上に手を置いた陽子の指先が、かすかに震えていた。
あの男は、ただの外道ではなかった。
ただの狂気でも、執念でもなかった。
それは、あまりにも人間的な、過去と未来に囚われた存在。
そして何より──陽子のよく知る人物に酷似した、『誰か』だった。
その『誰か』が誰なのか、陽子はもう知っている。だが、それを言葉にするにはまだ、早い。