24. 香る紅茶と追憶の手帳
中部国際空港を出た頃には、空はすっかり高く澄んでいた。
名鉄の特急に揺られながら、香月とクレアは金山駅で地下鉄名城線に乗り換える。
正午に差し掛かる少し手前──街が昼の熱気を帯び始める頃合いだった。
上前津駅に到着したふたりは、ゆるやかに流れる人波に混ざって地上へと出る。上前津駅からは歩いてすぐの距離に大須商店街がある。
真夏ほどの暑さではないにせよ、大須のアーケードには独特の蒸し暑さが残っていた。
観光客らしき若い男女のグループ、ゲームセンターの前ではしゃぐ子どもたち、そして通り沿いの|台湾焼き包子屋からは、蒸籠の隙間から立ちのぼる湯気と、肉と醤油が混ざった香ばしい肉包の匂いが漂っていた。
『……なんか、すごい生活感戻ってきたね。つい昨日まで命のやり取りしてたのが嘘みたいだ』
クレアが額の汗を拭いながら、ぽつりと言った。
「そういうもんだろ。表じゃ何もなかったことにされてる。協会の後処理、相当手際良かったな。なんでも、日本本部の調査局から警視庁に派遣されてる構成員が、いろいろ立ち回ってたらしい」
香月は通りを見渡しながら、まっすぐ目的の店へと歩を進める。
その先に現れたのは──黒と銀を基調にしたクラシックな看板。
大須の一角にひっそりと佇む、英国クラシカルがコンセプトのメイドカフェ『Lilyshade Manor』である。
ドアに手をかけた瞬間、ふわりと紅茶とアンティーク木材の香りが鼻をくすぐった。
中の空気は、外の喧騒とは一線を画すように静かで、落ち着いている。
扉が開く音に反応するように、カウンター奥からひとつ、顔が上がった。
そこにいたのは──イヴだった。
「お帰りなさいませ旦那様……って、香月君とクレアちゃん!」
二人の姿を見つけた瞬間、イヴはぱっと顔を明るくした。
接客用の柔らかな口調から、親しい知人に向ける素の声色へと自然に切り替わる。
彼女はカウンターの内側から小走りで出てくると、エプロンの裾を軽く整えながら、ふたりの前でぴたりと立ち止まる。
「わあ、ちょっと久しぶりじゃない? なんだか、いつもの時間に急に来なくなっちゃったから、どうしてるのかなって気になってたよ」
「まあ、色々あってな……こっちは無事だよ。そっちは変わりないか?」
「うん、リリーシェイドはいつも通り。──本業のほうは、ちょうど大きめの案件が決まって、撮影とかでちょっとバタバタしてたかな。まあ、いい感じに忙しくしてるって感じ」
イヴは明るく笑いながら、肩の力が抜けたように言った。
「あと、最近ちょっと涼しくなってきたから、ホットの注文がまた増えてきたよ。そろそろ秋メニューも考えなきゃなってとこ」
その声の調子も、仕草も、以前と何も変わらない。
香月とクレアのなかに、まだ残っていた非日常の余韻と、ほんの少しの距離を感じさせるほどに。
『……ほんと、なんかホッとするね。ここ来ると』
クレアがぽつりと言う。声音はいつも通り淡々としているが、その目元には、かすかに柔らかさがあった。
「? 何かあったの?」
イヴが首を傾げる。クレアはすぐに小さくかぶりを振った。
『ううん、こっちの話』
イヴは「ふーん」と声を漏らし、気にした様子もなくカウンターへと戻っていく。
「今日はふたりとも、ミルクティーで良かったよね? 茶葉、どうする?」
「俺はアールグレイで」
『今日はアッサムにしよっかな。……あ、スコーン余ってたらひとつほしいかも』
「了解です、かしこまりました~。ちょっと待っててね!」
奥で準備を始めるイヴの背中を見ながら、香月とクレアはいつもの席──店の中央にある小さな丸テーブルへ腰を下ろした。
空調のやわらかな風が、首筋の汗をほんの少し冷やす。
そして、しばしの沈黙ののち。
『……レイナさん、いるよね』
クレアがそう言ったのは、声色こそ普段通りながら、どこか探るような調子だった。
目線はイヴの方を見ていたが、その意図は明らかに別にある。
香月も軽く頷いた。
「多分、二階のバーカウンターか控え室だ。あいつ、ここでキャストするのがもうすっかり板に着いてきてるからな」
『行こっか。来た目的、そっちだし』
クレアはいつもの感情の薄い顔つきのまま、椅子から静かに立ち上がる。
香月もそれに倣い、ふたりはカウンター脇の階段へと向かう。イヴに一声かけようとしたが、ちょうど紅茶の蒸らしに集中しているようで、軽く手を挙げて合図だけを送った。
階段を上がりきった先──そこは一階よりもさらに静謐な空間だった。低く流れるクラシックの旋律に包まれ、昼の陽射しを遮る重厚なカーテンが室内の光を和らげている。
バースタイルのカウンターの内側──そこに立っていたのは、黒のワンピースの上に白のフリルエプロンに身を包んだ一人の女性だった。
長い黒髪を緩くまとめ、淡い紅を差した唇に、仄かな微笑みを浮かべるその姿。
昼下がりのやわらかな光に包まれて、カウンターの向こうに立っていたのは──霧島麗奈だった。
「お帰りなさいませ──……あら、大神君にクレアちゃん。どうかしたのかしら?」
彼女は一礼の所作をきちんとこなしつつ、すぐに顔を上げて微笑んだ。
接客用の口調ながら、どこか素の気配を含んでいる。
今の時間帯、リリーシェイド・マナーは昼のティータイム営業に切り替わっている。
夜にはバーとして稼働するカウンターも、日中は紅茶と焼き菓子をサーブするティースタンドとして活用され、アンティーク調の棚に並べられた紅茶缶やカップが、落ち着いた英国調の空間を引き立てていた。
麗奈はそのカウンター内で、ガラスのティーポットを傾け、茶葉の蒸らし具合を確認しているところだった。
『やっぱりレイナさん、似合うね。こういう制服』
クレアがぽつりとそう言う。無表情気味な顔のまま、ほんの少しだけ口角を上げながら。
「ありがとう。気づけば、制服にもこの空間にも馴染んでしまってたわ。紅茶の淹れ方も、カクテルの作り方も──ほら、夜のバー営業もあるから、ね。貴方達ならわかるでしょう? ……いろいろと学ぶには、最適な環境なのよ。ここは」
麗奈はカップを拭きながら、肩をすくめて見せる。
文脈的には紅茶やカクテルを学ぶにはちょうど良いという風に聞こえるかもしれない。だが、彼女の言う色々とは陽子率いる秘密結社である「夜咲く花々の廷」のメンバーとしての活動の事だ。
実際、協会に所属していないとはいえ、魔術の奥地を学ぶのにこれほど最適な環境もないのだ。
「イヴに注文はしてあるが、今日はそれを飲みに来たのがメインって訳じゃない」
香月が声を落としつつ、カウンター脇のハイチェアに腰を下ろす。
クレアも無言で隣に座った。ふたりの空気に、麗奈もティーポットの手を止め、視線を静かに向ける。
茶葉の香りが、テーブルの上に小さく立ち上っていた。
「──人形師の件ね?」
「ああ。陽子さんからは聞いているよな? 居場所を知りたければ思い当たる所をアンタに聞けと伝言を伝えられた」
クレアが椅子の背にもたれ、静かに言葉を続ける。
「ええ、聞いてるわ。貴方と因縁が深いものね……。それに、言われなくても、いずれはそうなると思ってた。彼に会いに行くのね」
麗奈は一瞬だけ瞳を伏せ、それからまたカップを手に取り、湯を注ぎながら淡々と答える。
その所作に乱れはなく、ただ静かに──その胸の奥で何かを噛み締めているような、そんな静けさだった。
『ボクたち、今──あの男の痕跡を追ってる。横浜で出現した人形師は分魂体だったらしいんだ』
クレアが口にしたのは、静かな声音だった。
その表情は淡々としていたが、声の奥には、微かににじむ焦りと苛立ちがあった。
「人形師……彼は、魔術界の闇においても一流の手練れよ。姿を見せるときは突然で、消えるときも完璧。足跡すら残さない。それもその筈、人形師として姿を現してるそのどれもが人形師でそのどれもが人形師本人ではないし、魔術協会と同じ忘却魔術も駆使してたみたいだから」
麗奈はそう言いながら、紅茶を一杯、香月の前に差し出した。
香月が小さく礼を述べて受け取ると、彼女はふと目線を落とし、静かに続けた。
「ディヴィッドも、彼を手本にして身元の隠蔽をしていたわ。あの冷徹さと徹底ぶり──記録も記憶も、痕跡そのものを消すことにかけて、彼の右に出る者はいないでしょうね」
わずかに声が硬くなったのは、過去の記憶を掠めたからだろうか。
けれど麗奈はすぐに表情を整え、正面のふたりをまっすぐに見据えた。
「……でも、完全に手がかりがないわけじゃないわ」
その静かな一言に、香月とクレアはわずかに身を乗り出す。
「以前──彼は一時期、イタリアに潜伏していたの。私が訪れたのは、都心から離れた小さな村の外れ。外観は朽ちかけた廃屋だったけれど、中に入ると、実験設備や魔術的な結界の痕跡が残されていた」
麗奈の語りは淡々としていたが、その声には過去の情景を辿るような温度があった。
「ほかにも、日本に戻ったあと、関東圏に潜伏していた痕跡もあるわ。いずれも、一度や二度足を運んだだけだけど……どちらも、痕跡を消すことを前提に作られていた。あの人らしい徹底ぶりだった」
『そこ、今も使われてる可能性は?』
クレアの問いに、麗奈は少しだけ考える素振りを見せ、それから静かに首を傾げた。
「低いとは思う。でも、完全に捨てられているとも限らない。もともと、痕跡を消しやすく、必要ならすぐ戻れるように設計された仮拠点だった……彼なら、また使う可能性はあるわ」
「その場所、教えてくれるか」
香月の頼みに、麗奈は小さくうなずいた。
「少し待って」
そう言うと、腰に下げたポーチへ手を伸ばす。
クラシカルなメイド服によく馴染む、生成りのレザーでできた小ぶりなポシェット。その中から彼女がそっと取り出したのは、深いワインレッドの布張りの手帳だった。角はすり減り、表紙には指の跡が馴染んでいる。明らかに、長く大切に使われてきたものだ。
「……ちょっと私的なものだけど、メモは残してあるの。ディヴィッドと一緒にいた頃のこと。人形師は、彼の商売相手のひとりだったから」
そう言いながら、手帳を胸に抱えたまま、彼女は慎重にページをめくっていく。指の動きは丁寧で、まるで過去の自分と向き合うように、じっと視線を落とした。
「──あった。イタリアにいた頃……ロンバルディア州の北、コモ湖のさらに奥。カステル・フィーノという村の外れにある館。ここが初めて彼に会った場所。外から見れば廃墟同然だったけど、中には実験設備や魔術的な結界の痕跡が残されていた。人目を避けるには、うってつけの場所だったわ」
麗奈は手帳のページを指先でなぞるように見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……彼の作業場のひとつだったのは、間違いない」
「その記録……見せてもらえるか?」
香月が少し身を乗り出して尋ねると──
「えっ……」
麗奈の動きが止まった。
手帳を握る指に、無意識のうちに力がこもる。
その拍子にページが一枚ふわりとめくれ、間から花の押し葉がそっと覗いた。
「それは……ちょっと、恥ずかしいわ。あの頃の私自身のことも、たくさん書いてあるから」
視線を逸らしながら、麗奈は静かに手帳を閉じた。
横顔には照れたような微笑みと、ふと胸を掠めるような寂しさが重なっていた。
「でも、場所の名前と大体の位置なら、ちゃんと伝えられるわ。……何か書けるもの、あるかしら?」
香月が鞄からメモ帳を差し出すと、麗奈はそれを受け取り、さらさらとペンを走らせる。
簡略な地図と村の名前、特徴的な目印、そして潜伏当時の状況が、淡々とした筆致で記されていった。
『レイナさん、関東圏にも心当たりがあるって言ってたよね?』
クレアの問いかけに、麗奈は手を止めず、軽くうなずいた。
「九十九里浜の近く。廃業したペンションよ。外装には改装の跡があって、内部にも魔術の痕跡が残っていた。でも、滞在はごく短期間だったと思う。それに他にもいくつか彼の拠点だった場所が世界中に散らばってる」
最後の一文を書き終えると、麗奈はノートを香月に返し、手帳をそっとポーチに戻した。
「どちらの拠点も、今は空き家かもしれない。でも、彼は──必要があれば過去に戻る人の筈。捨てたように見えても、まだ何かが残っている可能性はあるわ」
「……ありがとう。助かるよ」
香月の礼に、麗奈はふっと息をつき、控えめに微笑んだ。
「礼なんていらないわ。でも……もし本気で彼を追うつもりなら──あなた達に必要なのは、情報よりも覚悟よ」
その声音には、人形師という男を知る者の、確かな実感がこもっていた。
カウンターの上に、ひととき静かな空気が降りる。
香月は手元のノートに目を落とし、それからゆっくりと麗奈の目を見据えた。
その瞳には、ほんのかすかに、けれど確かに──決意の光が宿っていた。
「ああ……」
短く、低く絞り出すように応えたその一言に、もう迷いはなかった。