22.静寂に名が落ちる
「──碧流ちゃん、無事だったんだね〜……よかったあ〜」
ふわふわとした口調でそう言ったのは、かりんだった。
神の檻崩壊から三日後。
魔術協会神奈川支部によって設けられた臨時診療施設──紅坂診療院の裏階層に展開された魔術空間内の仮設診療室には、負傷者の治療と後処理報告に追われる関係者たちが集まっていた。
かりんは、碧流の救出の報を聞くやいなや、身重の身体をおしてここまで足を運んだ。
清香の手を借りながらの移動だった。
白衣を羽織った清香が、かりんの背を支えるように寄り添っている。
かりんからの連絡を受け、空間跳躍魔術を繰り返して迎えに来たのだ。
体力的にはすでに疲弊していたが、同年代の親友の願いとあらば、迷う理由はなかった。
その腕に身を預けるようにしながら、かりんはそっと微笑んだ。
「ほんとに……心配したんだよ? 碧流ちゃんが人体加工されてたって聞いて……」
「……ごめん、かりん。私、自分でも……何が起きたのか、まだ整理できてなくて」
ベッドの上で横たわる碧流は、肩まで毛布にくるまり、うっすらと開いた瞳をかりんに向けた。
頬や首筋には、魔術的な治癒を受けたとはいえ、薄く傷痕が残っている。痛々しい癒合の跡が、まだ肌に色濃く刻まれていた。
──先遣隊として神の檻に派遣された日本本部構成員は、全員救出された。
だが「無事」と呼ぶには、あまりに残酷な仕打ちだった。
彼らの肉体は儀式の素材として扱われ、全身に切開と縫合の痕が残されていた。
中でも最も酷かったのは、延髄付近──首の後ろに設けられた、魔力誘導管の挿入跡である。
外部から魔力を供給され、自我を剥奪された状態で術式の媒体として使役された──その痕跡は、明確だった。
碧流も、例外ではなかった。
それでも、彼女が正気を保ったまま意識を取り戻せたことは、もはや異常なまでの幸運としか言いようがない。
あるいは、外部からの干渉で、術式が途中で中断されたのか。真相はいまだ不明だった。
とはいえ、神奈川支部と日本中部支部の合同による即席の医療班が動員され、各地の治癒魔術使いたちの尽力によって、彼らは一応の回復を見せていた。
碧流の瞳はまだ伏しがちではあったが、そこには確かな光が宿っていた。
三日間眠り続けていたとは思えないほど、強い意志の気配があった。
「大丈夫だよ〜。碧流ちゃんが生きて戻ってきてくれたなら、それだけで十分だもん〜。ね、清香ちゃん?」
「……ええ。協会の記録でも『生還困難』と判断されていたんです。この回収は、もはや奇跡ですよ」
清香は端的にそう答えながらも、その瞳の奥には、はっきりとした安堵の色がにじんでいた。
「あそこの部屋の……彼が、私たちを助けてくれたの?」
碧流の問いに、かりんと清香は一瞬視線を交わした。
言葉を選ぶような沈黙が、そこにあった。
口を開いたのは、清香だった。
「──いえ、正確には違います。貴方たちを直接救出したのは、神奈川支部と本部からの増援として到着した構成員たちです。彼らが地下神殿施設の奥で、貴方たちを発見しました」
「……そう。じゃあ、私……」
碧流が、何かを思い出そうとするように目を細める。
だがその表情は、まだ混濁の余韻を引きずっていた。
「でも、彼が……」
かすかに漏れた言葉。
その瞳はまだ遠く、答えの届かない場所を見つめているようだった。
その問いに、そっと寄り添うように、かりんが口を開いた。
「うん、カヅキくんはね〜……あの空間のいちばん奥で、教祖と戦ってたんだって〜。空間そのものを支配してた敵を、ちゃんと倒してくれたの。だからみんながすんなりと隠れた地下神殿の中に入れるようになったんだよ〜。あそこに突入できたのは……カヅキくんのおかげ、なんだって〜」
かりんの声には、いつもの調子を保ちながらも、確かな敬意と信頼が込められていた。
彼の果たした役割を、きちんと伝えたいという想いが、言葉の端々に滲んでいた。
碧流は、そっと視線を落とす。
そして、小さく頷いた。
その胸の奥に、ふと──あのときの奇妙な感覚が、よみがえる。
──空気が、変わった。
監禁されていた狭い部屋。
脊髄に埋め込まれた魔力誘導管が、意識を濁らせ、思考を曇らせていた。
体の芯を冷たい鎖で縛られているような鈍重さと、内側から押し潰されるような圧迫感。
それが、ある瞬間、不意に消えたのだ。
重しが外れたように、息がしやすくなり、まぶたの裏の闇がやわらいだ。
何かがほどけた。縛られていたものが、内側から解き放たれていくような──
誰かに「もう大丈夫だよ」と、そっと背中を押されたような感覚。
「あのとき……そう。空気が変わった気がしたの。まるで、空間そのものがほどけていくみたいで。閉じ込められてた何かが、そっと外に流れ出していくような……」
呟きは、記憶を慎重に手繰るような調子だった。
その声の奥には、名も知らぬ感謝と、言葉にできない畏れ、そして微かな確信が宿っていた。
「あれは……もしかしたら、あの子の魔術だったのかもね……」
ぽつりと漏れたその言葉に、隣で静かに耳を傾けていた清香が、無言のまま頷いた。
「──大神構成員は、戦闘直後に意識を失って、こちらに搬送されました。現在はあの部屋で治療とカウンセリングを受けていますが、命に別状はありません。意識も戻っていて、お話もできるようですよ」
その言葉に、碧流はようやく息をついた。
胸の奥が、ほんの少しだけあたたかさを取り戻した気がした。
「よかった……そう、なら……」
微笑もうとしたその唇は、かすかに震えながらも、確かに柔らかく緩んでいた。
「直接じゃなくても、彼のおかげで私たちは戻ってこられたのよね。ちゃんと……お礼を言わなきゃ」
その言葉に、かりんも頷いた。
「うんうん〜。でもあの子、褒められるとすぐ顔真っ赤になるんだよ〜? いざ目の前で言われたら、きっと困っちゃうと思うな〜」
「……ふふ、そうなのね」
ようやく、微かに笑った碧流の顔を見て、清香もまた、そっと息をついた。
◆
「──カウンセリングばかりでまるで事情聴取を受けてる気分だよ」
呟く声が、病室の静寂に沈んだ。
紅坂診療院・魔術空間の最奥、隔離された個室のベッドに、香月は身を横たえていた。ようやく面会謝絶状態から解放されたと言ってもこの三日間の拘束はなかなかに堪えた。
身体にはすでに目立った外傷はない。けれど、問題はそちらではなかった。
精神と魔力回路の異常な変位の可能性──
魔術協会の診断結果はそう記されていた。
「……まあ、自覚は無いわけじゃないが」
天井を見つめたまま、香月は言った。
あの戦いの終盤、自分の中で何かが目覚めた。
それは魔術師としての枠組みを超えた、もっと根源的な感覚──術式すら要しない奇跡現象の行使だったらしい。
遺っているのはうっすらと誰かが自分の中から、肉体を乗っ取って出てきたという記憶くらいだ。
自分の意識が沈み、代わりに誰かが前に出た。
いや、正確には誰かと自分が、溶け合ったような感覚だった。
「なあ、まだ俺の中に居るのか?」
自分の胸元を押さえ、ふと問いかけてみる。
返答などあるはずもない。そう思っていた──のに。
──リリス。
誰かが囁いたわけではない。
けれど、その名は確かに香月の意識に染み込んでくるようだった。
理由も経緯も分からない。ただ──知っていた。
ずっと前から、ずっと内側にあった名前かのように。
「……リリスっていうのか」
その名を口に出した瞬間、心の奥で小さな波紋が広がった。拒絶も敵意もない。ただ、静かな同意の気配だけが返ってくる。
名前を知ったことで、得体の知れなかった存在が、少しだけ輪郭を持ったような気がした。
そのとき──
ドンッ!!
病室の扉が乱暴な音を立てて開かれた。
香月が驚いて起き上がろうとするより早く、廊下から風のようにクレアが飛び込んでくる。
『──カヅキッ!!』
怒鳴るような、泣きそうな、けれどとにかく勢いのある声だった。
ボサボサの髪に、片腕だけを通して羽織ったままの半袖のジップアップパーカー、そして目には隈。準備もおざなりに、全速力で駆けつけてきたのがひと目でわかる格好だった。もしかしたら、この仮設診療室で寝泊まりしてたのかもしれない。
香月は反射的に身を起こしかけ──だがその直後、
「ぐえっ」
変な声がクレアの口から直接漏れた。
直後、再び開いた扉の端がクレアの背中に激突。バランスを崩した彼女は、正面の壁に顔面から突っ込む羽目になった。
「な、なにしてんだお前……」
香月が呆然と口を開くのと同時に、
ひらりと上品に足を踏み入れてきたのは、整えられた淡い亜麻色の髪と赤いベレー帽が印象的なシャルロット・ルフェーブルだった。
「モンシュー……いえ、カヅキ。だいぶ元気が戻ったようで何よりですわ! ……って、ちょっとクレア? どうして壁にキスなんかしてらっしゃるのかしら? 好きなの? 壁が」
『だ、誰のせいだと思ってんだよ! ボクが先に入ったのに! シャルロットが押してきたせいでっ! ノックって物を知らないのかこのバカフレンチ!』
顔を抑えたまま振り返ったクレアは、鼻を真っ赤にしながら叫んだ。
涙目である。
「まあ。あなたがもたもたしていらっしゃるから、どれほどお待ちしても動きませんでしたもの。緊急時における判断は迅速に──これ、協会で教わりましたでしょ?」
『それ緊急の意味が違うでしょ!? ボクが先にドアノブに手かけてたの、見てたよね!?』
「うふふ、目撃はしておりましたけれど。まさかわたくしの前を遮って通るような無礼、クレアさんに限って無いと思っておりましたのに……」
『うわー出た出た、フレンチ風味の嫌味全開だー! 相変わらず性格にトゲありまくり!』
「まあ、失礼ですわね。わたくしのトゲは、相手によって選り分けておりますのよ?」
『選んでるのそれ!? わざとじゃん!』
香月は、目の前で繰り広げられる二人のやり取りに頭を抱えそうになる。
これは、魔術戦のあとに訪れる静かな療養期間──などというものでは、到底なかった。
「……あのさぁ。俺、こう見えてまだ病人らしいんだけど」
『カヅキは黙ってて! こっちは大事な話の真っ最中!』
「モンシューはしばしお休みあそばせ。この場はルフェーブル家の貴族令嬢たるわたくしにお任せくださいまし」
『それを言ったらボクだって、フォード家の令嬢だってば!』
「いやいやいや。なんでこの部屋の主の発言、こんなに軽く無視されてるんだ俺……」
額を押さえながら呟く香月の苦悩をよそに、ふたりは揃ってベッド脇へ歩み寄る。
やがて、ほんの一瞬だけ、彼女たちの騒がしさが和らぐ。
『……それでも』
と、クレアが先に言葉を発した。
さきほどまでの喧嘩腰が嘘のように、声のトーンは落ち着いていた。
『ほんと、無事でよかったよ。ボク、怖かったもん……。カヅキを、失うんじゃないかって』
「……クレア」
『ま、顔に出すのは損だからって思ってたけどさ……ボク、そういうのあんま得意じゃないから。顔赤くなる前に言っとく』
ぶっきらぼうな口調に、不器用な優しさが滲む。
その向こうで、シャルロットも少しだけ目を伏せて頷いた。
「本当に、心配しましたのよ。あれから三日間、一報が来るたびに、胸が締め付けられるようでしたわ」
「シャルロット……お前まで真面目な顔すんなよ……こっちが照れる」
「うふふ。では、代わりに褒めて差し上げますわ。よく頑張りましたこと」
「そ、それはそれで照れるんだよ……!」
苦笑する香月を見て、ふたりは顔を見合わせると、今度はふっと笑みを漏らした。
張り詰めていた空気がようやくほどけた、その瞬間だった。
──そして。
『……ねぇ、カヅキ。ボク、さっき聞こえたんだけど』
ふと、クレアが香月の耳元に顔を寄せて、直接囁いてきた。
「リリスって……誰?」
「っ……!」
香月の肩がぴくりと跳ねる。
それを見たシャルロットが、すかさず身を乗り出した。
「まぁ……、リリス……さん? 聞き捨てなりませんわねぇ。どこのマドモアゼルかしら?」
「うわ……出たよ、詰問タイム……!」
ベッドの上で、香月は心の底から後悔した。どうして、さっき口に出してしまったんだろう、と。
だが、ふたりの問いに香月が答える間もなく。
「あー、やっぱ聞こえちゃってたんだな……」
ベッドに身を起こした香月は、困ったように頭をかきながら目を逸らす。
「いや、なんていうかな……名前が、頭に浮かんできたってだけで。別に誰か特定の人物ってわけじゃ……」
『嘘』
「うっ……」
クレアが即座に被せてくる。
言い訳を潰すその目は、じっと香月の瞳を見つめていた。
『今の反応、絶対なんか知ってるやつの名前でしょ。隠し事してる顔だし』
「ぐぬぬ……」
「まさか、治療の間に恋でも芽生えましたの……? まあまあ、仮設診療所のロマンスなんて素敵じゃありませんこと? ──ただし、その方の身辺調査はみっちりさせていただきますわね」
「いやだから違うって……!」
香月は慌てて手を振ったが、どこか焦りが滲んでいるせいで、かえって逆効果だった。
ふたりの視線が、じりじりと詰め寄ってくる。
ベッドの上に追い詰められた香月は、じっとりと額に汗を浮かべながら呻いた。
「……あー、もう。リリスってのは……その……なんか、オル・カディスから攻撃を受けて気絶したときに、俺の中から何かが出てきた気がしてさ」
あえて誰かではなく何かと言った。
その方が、まだ信じてもらえる気がしたからだ。
「意識が途切れて、そのあと、何かが俺の体を使って戦ってた……気がする。記憶も、はっきりしないけど……たぶん、あのとき俺を助けてくれたのはそいつなんだ。で、さっき名前が、ふっと浮かんできて……」
『──リリス』
クレアがぽつりと繰り返す。
『それってつまり、何者かがカヅキの中に棲みついてるってこと……?』
「棲みついてるって言い方やめろよ。俺の中でペットでも飼ってるみたいじゃないか」
「まぁ、まるでイマジナリーのペット? それとも悪魔憑きかしら。──祓術師の出番でしょうか?」
「マジでやめてくれ。それ、俺の知ってる奴が嬉々として俺ごと抹殺しに来るから」
なんとか冗談めかして返すものの、香月の表情にはどこか引きつったものが残っていた。
そして、しばしの沈黙。
やがて、クレアが静かに言う。
『……でも、それでもボクは、信じてるよ。カヅキはカヅキで、どこにも行ってないって』
「クレア……」
『だって、ボクたちを助けてくれたのは、その何かだけじゃない。たぶん、カヅキ自身の意志もあったはずでしょ? ……だから大丈夫。変になったりしたら、そのときはボクが正気に戻させてあげる』
そう言って、不器用に笑うクレア。
その隣で、シャルロットも微笑む。
「ええ、わたくしも。貴方がどれほど変わろうとも、信じるべきところは変わりませんわ。だって、貴方は──」
そこまで言って、ふと言葉を切る。
「……貴方は、わたくしたちの仲間ですもの」
香月は、それ以上何も言えなかった。
ただ、ふたりの顔を見て──小さく、しかし確かに、うなずいた。
「……ありがとうな」
そのとき、扉の向こうで控えていた医療班のスタッフが、咳払いと共に控えめに声をかけてきた。
「そろそろ面会時間が……」
『あっ! じゃあ、また来るから! 今度はお見舞いのプリン持ってくるからね!』
「それは楽しみですわ。わたくしはワインゼリーを用意いたしますわね」
「いや、病人にアルコールはやめろよ……」
いつものように賑やかな空気を残して、ふたりは病室を後にした。
──ふたたび静かになった部屋の中。
香月は、もう一度天井を見つめた。
「リリス……」
静かにその名を呼ぶ。
答えは、ない。
けれど、どこか胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。