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【第五章完結】現代魔術は隠されている  作者: 隠埼一三
Episode Ⅳ『神の檻編』
129/160

20.神の影、その器⊕

 ゆるやかな白む視界の中で、誰かの声を聞いた気がした。


 重たい瞼を開けると、ぼんやりと霞む視界の中に、ひとつの輪郭が浮かび上がる。

 金の髪。凛とした目元。そして、心配げに眉を寄せるクレアの顔が──そこにはあった。


「……クレア?」


 香月は微かに口を動かし、言葉を漏らした。

 自分の頭が、彼女の膝の上にあることに気づく。まるで膝枕のような体勢だ。照れを覚えるよりも──胸の奥に、不安が広がった。


 白き神、オル・カディス──あの存在は、確かにこの場所にいた。まだ戦っていたはずだ。あの男は圧倒的な力で世界そのものを捻じ曲げんとしていた。

 だが今、空気は不自然なほどに静かだった。


 辺りを見渡す。

 冷たい石畳の床に、古びた緋色の絨毯が敷かれている。

 左右にそびえる黒大理石の柱は、人の背丈を遥かに超え、天井へと消えていく。壁の隙間には聖像のような奇怪な彫刻が並び、どれも異形の神を模したものなのか、見る者の不安を煽るような姿をしていた。

 蝋燭の灯りが、鉄製の燭台にゆらりと揺れ、石壁に奇怪な影を落としている。


 ここは既に陽子の魔術空間ではないようだった。

 神の檻教団施設の最奥部、地下神殿──禁忌の実験を行うための、閉ざされた聖域。

 だが、つい先ほどまで満ちていたはずの異様な圧力や殺気は、嘘のように消えていた。

 空気は凪ぎ、音ひとつない静寂が支配している。

 まるで、長い夢の終わりに辿り着いたような、奇妙な安らかさがあった。


「……ここは……? 時間が過去に戻った……のか……?」


 ぽつりと、呟く。

 かすかに浮かぶ既視感。時の狭間に落ちたような、不確かな感覚。


「まさか……俺死んでたのか……? いや……でも……戻る先の座標は……何なんだこれは……?」


 だが、その仮説はすぐに否定された。


『何を言ってるんだよ、カヅキ。キミが倒したんだよ。もう終わったんだよ。戦闘のショックでまだ混乱してるの?』


 クレアが、少し困ったように笑って言う。目の下には薄く隈ができていた。長く、傍にいてくれたのだろう。


『っていうか……逆にボクが聞きたいよ。香月、倒れた後、いきなり動き出して──あのオル・カディスを……』


 言いかけて、クレアは言葉を切った。

 その瞳の奥に、微かな恐れと戸惑いが混ざっていた。

 香月は息を呑む。


「……どういうことだ?」


 そう問いかけると、彼女は静かに語り出した。あの瞬間──香月が意識を失っていた、ほんの数十秒間の出来事を。


     ◆


 香月が倒れた。


 雷光が消え失せた空間に、重苦しい沈黙が満ちていく。

 その中心で、オル・カディスの身体がなお膝をつきながらも、僅かに蠢いた。

 既に胸部には香月のStorm Rage《雷閃嵐砲》深い傷が刻まれているはずだった。

 だが、オル・カディスはまだ死んでいなかった。


「っ……!」


 クレアは駆け寄りかけた足を止めた。

 その場に満ちる空気が、何か得体の知れないものへと変質していたからだ。


──香月の身体から、何かが起きようとしていた。


 彼は、確かに意識を失っていた。呼びかけても反応はなく、魔力の循環すら断たれていたはず。

 それなのに、オル・カディスの手に貫かれた彼の胸元から、淡い光の粒が立ち昇り始めた。


(これ……何……?)


 光は、まるで呼吸するかのように脈動を始め、次の瞬間、香月の背に刻まれた術式が紅に光を放つ。

 そして──彼の黒髪が、淡く銀白へと変じていく。

 まるで何かがその本来の姿を取り戻すように、静かに、逆らうことなく。

 瞳もまた、緋色の光を宿しながら、ゆっくりと開かれた。


 その双眸には、先ほどまでの香月の気配はなかった。

 けれど、『無』でもない。そして香月でもない、『別の誰か(・・・・)』がそこに宿っている──そんな感覚だった。


「何なのだ貴様……、どうして貴様が……」


 オル・カディスが狼狽する。視線の奥に、疑念と──恐れがあった。


「人形師は……人形師こそが、神胎を完成させていたとでも言うのか……?」


 その存在は、ただ静かに、オル・カディスの方へと手を伸ばした。


 そして、発した。


── אל תיגע בילדי האהוב, זה לא יסבול אדם כמוך. אלוהים מזויף, תיעלם.


 意味は分からなかった。

 だがその響きが空間の理そのものに命じるかのように、すべての魔術的構造がきしみを上げ始める。


 床が、壁が、空が、音もなく震える。


「やめろ……来るな……!」


 オル・カディスが両手を広げ、魔力の障壁を構築しようとする。だが、ちょこの詠唱魔術の影響下で発動はしなかった。


 オル・カディスが、震えた。


 否──拒絶していた。


 その言葉を、その命令を理解し、本能で恐れたのだ。


 次の瞬間、香月──いや、『それ』の身体から、圧倒的な魔力が奔った。伸ばした手を、オル・カディスに向ける。

 

 青白い光が、掌から放たれて宙空へと走り抜ける。

 それは雷でも光でもなかった。魔術の理の外側から呼び寄せたような、『神性そのもの』を思わせる力だった。


 陽子の魔術空間が軋む。

 いや、それどころか──世界の基準そのものが書き換わっていくような強大な魔力だった。それが本当に魔力だったのかさえわからないレベルでだ。


 クレアは立っていることすらできず、片膝をつきながら、それをただ見守ることしかできなかった。



挿絵(By みてみん)



 光がオル・カディスを包み込む。『それ』は拳を握り込むようにして、その力を行使した。


 その掌から、青白い光が放たれる。

 それは発射されたのではない。空間へ命令したかのように、因果を歪ませながらオル・カディスに突き刺さる。


 オルは咆哮する。


「やめろォォォォッ!! 我は神の代行者……神性の中枢なんだぞ!!」


 だがその声は、空しく響くだけだった。

 抵抗するように魔力を展開しようとするが、すべてを無に帰すような一撃が、それを音も無く飲み込む。


──存在ごと屠られた(・・・・・・・・)


 そう表現するしかなかった。

 オル・カディスの肉体も神域にまで到達した異質な魔力も、根本から抹消されていった。

 粒子が空間に溶けていくのではない。彼が「最初から存在しなかった」かのように、空間ごと修復されていく。


(な……に、これ……)


 クレアの思考すら追いつかない。

 ただ、その圧倒的な隔絶に触れて、理解した。


(──こんなのはカヅキなんかじゃない)


 それは確信だった。

 けれど、香月の身体を通してその存在は動き、最後にただ、静かに息を吐いた。


 そして次の瞬間、その眼から力が抜ける。

 紅の色彩がふっと消え、瞳は元の焦げ茶へと戻り、銀白の髪もまた、わずかに波打ちながら黒へと染まり直した。

 ゆっくりと崩れるように倒れてきた彼の身体を、クレアは小さい身体で受け止めた。


『カヅキ……!』


 名前を呼んでも、彼は応えない。

 けれど、魔力の循環は戻ってきていた。鼓動も、わずかに早まっている。


(……帰ってきて)


 祈るようにその額へ手を添える。

 すると、香月の睫毛が微かに震えた。


     ◆


「それじゃあ、俺が……意識のないまま倒したってのか」

『うん……。ねえカヅキ。本当に、何も覚えてないの?』


 クレアの声には、どこか探るような響きがあった。


 香月は黙って視線を伏せる。

 意識が戻る直前のことを思い出そうとするが、頭の奥に重い靄がかかっていて、何も引っかかってこない。


「……真っ白だ。気づいたら、ここでお前の顔があって……それだけだ」


 それが本当のことだった。だが、クレアは納得はしていないようだった。


『そう……そっか……』


 わずかに視線を逸らし、彼女はぽつりと呟く。


『でも、あのときのカヅキ……いや、アレは、絶対にカヅキじゃなかったよ。まるで何かに乗っ取られてたみたいだった』


 香月は眉をひそめる。


「どういう意味だ?」


 問いかけに、クレアは迷うように言葉を探しながらも、静かに答えた。


『目が……赤かった。髪も白くて。声も、姿勢も、それに発した言葉も……まるで別人だった』

「……白髪に、赤い瞳……?」


 香月は思わず自分の手を見下ろす。

 震えてはいない。だが、どこか違和感があった。自分という存在に、ほんのわずかに「自分ではない成分」が混ざっているような──そんな気持ち悪さが、体の芯にうっすらと残っていた。


『それに──』


 クレアが少し言い淀む。だが、香月は黙って続きを待った。


『あの時、カヅキの中にいた誰かが話してた。ボクには意味のわからない言葉だったけど……空間が震えて、オル・カディスが怯えて……』

「……言葉?」


 香月の頭に、微かに音の残響がよみがえる。

 それは確かに、自分の声だった──けれど、自分ではない何者かの、冷たく、威厳に満ちた命令だった。


אל תיגע בילדי האהוב, זה לא יסבול אדם כמוך. אלוהים מזויף, תיעלם.


 その言葉だけが、鮮やかに脳裏に焼き付いている。


(……誰だ。俺の中にいたのは……)


 そこまで考えて、香月の胸元が、かすかに熱を持っていることに気づく。心臓のある部分だ。


 そっと指を触れる。

 その瞬間、わずかに脳裏に誰かの意識が波紋のように広がった。


 優しく、それでいて冷たいようで温かい。慈しみすら感じさせる、どこか懐かしい声なき声だ。


 そう、あの言葉は言っていた。『お前のような贋物が、この子に触れるな』と。

 何故その意味がわかるのかは香月自身も理解できなかった。


「起きたみたいだね、少年」


 石の床に足音が響く。


 香月とクレアが声の方向を向くと、そこには、ゴシックドレスを翻した陽子の姿があった。

 いつもと変わらぬ口調、だがその表情には、僅かな安堵と疲労が滲んでいる。


「陽子さん……」


 香月が呟くように名を呼ぶと、彼女はにっと笑って応えた。


「戦いは終わった。この外では、もう日本中部支部の本隊の皆が後処理を進めてる。──だから、もう心配いらないよ」


 その言葉に、クレアもようやく胸を撫で下ろす。


「それより……」香月は少し躊躇ってから、ぽつりと尋ねた。「人形師は……どうなった?」


 空気が少しだけ張り詰める。

 陽子の目が、一瞬だけ沈むように伏せられた。そして、言った。


「……もう行ってしまったよ」


 短く、乾いたその言葉に、香月は目を見開いた。


「なんだって……? アイツが、目の前にいたんだろ……? アンタは見逃したのか……?」


 思わず声が荒くなる。

 怒りというより、悔しさが先に立った。


 自分を作り変えた張本人。過去を奪い、肉体を弄び、そして──復讐を誓った存在。彼に復讐を遂げる機会をみすみす逃したというのか。


「見逃したんじゃない」


 陽子の声は、静かだった。だが確かな口調で言った。


「……最初から、ちゃんと姿なんて見せちゃいなかったのさ。あれは、分魂体を封入した自律型の魔術人形。人形師の本体ではなかったのさ──それだけだよ」


 香月の表情が固まる。


「じゃあ……アイツを倒しても……」


 香月が、唇を噛み締めながら呟いた。


「……俺の復讐は何も遂げられないって事かよ……」


 拳を固く握る。

 胸の奥で渦巻く怒りと虚しさ、それに、何よりも逃げられたという敗北感。


 だが、陽子は首を横に振った。


「いや──ゼロってわけじゃないさ」

「……え?」


 香月が顔を上げると、陽子は緋の瞳で真っすぐに彼を見据えていた。だが彼女の瞳はわずかに揺れていた。伝えるべきかどうか──そんな迷いを孕んで。


「彼──人形師から君へ伝言を預かったよ」

「……え?」


 言葉の意味が理解できず、香月は目を瞬かせる。


「なんで……陽子さんが、アイツの伝言なんて──」


 陽子はわずかに口を引き結び、うつむいた。


「奴は……『本体ではない』って言ったけど、分魂体だからね。本人の意識は確かにあった。ほんの一瞬だけ、会話したよ。そこで君への伝言として私にこの言葉を託してきた」


 香月が息を呑む。


「──期は満ちた。お前は俺を殺すに相応しい。俺を殺しに来い」

 

 その言葉を聞いた瞬間、香月の胸に鈍い衝撃が走った。


 まるで、長く閉ざされていた因縁の扉が、今ようやく開かれたかのような感覚。


「……なんだよ、それ……」


 呆然とした声が漏れる。

 自分の身体を弄び、人生を狂わせた張本人が、今になって何を言う。

 しかもまるで、すべてを見越していたかのように。


 怒りが、静かに心の奥底から湧き上がってくる。

 けれど、それを押し殺すように、香月は拳を握りしめた。


「──お前は俺を殺すに相応しい、か……」


 ぽつりと呟いたその言葉は、まるで自分自身への問いかけのようだった。


「……何を企んでいるのかすらわからない感じだけどね」陽子が淡く笑って、肩をすくめる。「ただ、彼は──人形師は、君に『終わらせてもらうつもりだ』って言っていた。自分自身も含めて、全てを、だとさ」

「……終わらせる?」


 香月は眉をひそめた。


 あの男が、己の終わりを語るなど、信じがたい。人形師というのは、魔術協会が定める倫理規定すら無視して子供の肉体を加工して売るなどの行為すらしている外法のはぐれ魔術師なのだ。


「人形師が、そんな風に言うなんて……」

「そう。違和感しかないだろうね」


 陽子も頷きながら、緋色の瞳で香月を見つめた。


「人形師はこうも言っていた。『貴方の秘密結社の中に、かつて俺と会った者がいるはずだ。心当たりを尋ねるといい。俺の本体がそこで待っている』と──」


 陽子のその言葉に、香月は思わず眉を寄せた。


「……そうか。そういえば、そうだったな」


 香月が小さく呟くのにクレアが小さく反応する。クレアの目が、一瞬だけ香月と陽子のあいだを往復した。


「──レイナちゃんだ。霧島麗奈。彼女は、過去に一度……人形師と直接会っている」

「……ああ」


 陽子が言うのに香月の背筋に、ひやりと冷たいものが走った。


 思い返せば、麗奈の過去はあまりにも異質だった。家庭内の不和でオカルトに傾倒し、闇オークションに惹かれて魔術の存在を知り、魔術協会の保護の網からも漏れたままディヴイッド・ノーマンの元で無秩序に魔術を独学で研究していた。


 そして、あの男──人形師の元へと、たどり着いてしまった。


「麗奈が機巧魔術を使えるのも、人形師から直接学んだからだもんな……」


 香月の言葉に、場の空気がわずかに変わる。

 クレアが小さく息を呑み、陽子もわずかに表情を曇らせた。


「……少年、君はどうしたい? 私からレイナちゃんに人形師と出会った場所を聞くことは可能だけど」

「……いや。俺から聞くよ」


 香月はそう答えた。決して強い声ではなかったが、迷いのない響きだった。


 陽子は一瞬だけ目を細めてから、静かに頷く。


「……わかった。君がそう言うなら、止めはしない。ただ──気をつけなよ。レイナちゃんは、まだ君の事を恨んでるかもしれないよ?」

「そこらへん、大丈夫だって陽子さんもわかってんだろ」


 香月は静かに立ち上がる。まだ身体には微かな倦怠感が残っていたが、それよりも、胸の奥の熱の方が勝っていた。

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