19.突破口は一瞬の虚に⊕
「──それで、どう攻める?」
陽子の問いは短く、しかし重みを帯びていた。
香月は視線を逸らすことなく、前方に佇むオル・カディスを見据えたまま口を開く。
「あの概念干渉──常時発動ではないらしい。アイツが意識したとき、世界の理そのものがねじ曲がる。……クレアの魔術が通ったのも、きっとその一瞬を捉えたからだ。だから、意識の虚を突けば、突破口はある。」
「意識の虚、ね」
陽子が静かに呟いた。
「となれば、しばらく観察して見極めたいところだけど……」
「様子見?」
香月が横目に問い返すと、陽子の口元がふっと笑みに緩んだ。
「夜咲く花々の廷には、秘密兵器がいるんだ。彼女をぶつけてみたい」
「ああ、そういうことか」
香月の視線が、後方に立つ小柄な少女──ちょこへ向けられる。
あの異質な魔力に対抗できるとすれば、彼女しかいない。世界をねじ伏せるような力に対し、ちょこは『世界にお願いをする』ような詠唱魔術の使い手だ。並の魔術師では思いつかないような発想で魔術を発動させる可能性だってある。彼女の魔術もまた、常識の枠外にある。
「……よし。それじゃあ、まずは俺とアンタで仕掛けるか」
「わかった。タイミングは、合わせようじゃないか」
二人が静かに、前へ一歩踏み出す。
その横で、クレアが右手を掲げる。金の髪が微風に揺れ、視線は鋭く白き神へと注がれていた。狙っているのは、先ほどSonic Spearを通せた、あの一瞬の隙だ。
「クレア、もう一撃、狙えそうか?」
香月の問いに、クレアが目だけで返す。
『やるつもりだよ。でも、今はボクたちの存在が認識されてる。そう簡単にはいかないかもだけど』
彼女の声には、張り詰めた沈黙が宿っていた。
『だから、一瞬でいい。ヤツの意識を、ボクから逸らし欲しい』
「一瞬……な」
陽子が肩に乗せていた大槌を前へ構え直し、柄を握り直す。
「その瞬間を、私と少年で作ってあげればいいのだろう?」
「ああ」
香月が頷く。瞳が静かに、だが確かに闘志を灯していた。
「ヤツに隙が生まれた瞬間だ。クレア、そこで決めてくれ」
『任せて』
クレアが短く応え、片足をわずかに引く。全神経が指先に集中し、彼女の全身が魔力の弦のように張りつめていく。
「行くぞ」
低い呟きと共に、香月が地を蹴った。
猛禽のごとく白き神オル・カディスへと急接近――しかし、目には見えぬ障壁に叩き返された。
『拒絶』の概念干渉だ。
空中で香月の体が大きく跳ね、後方へ吹き飛ばされる。だが、ギリギリで身を捻って石畳を掴み、受け身を取った。巻き上がる砂塵の中、口元の血を手の甲で拭う。
「くそ……正面からじゃやっぱり無理か」
その刹那──。
陽子が肩へ引き戻した大槌を掲げ、低く呟いた。
「Let us party tonight.《さあ、招待してあげよう。半人半魔・史門陽子の棲む世界へ》」
白木の柄が、石床を突く。
瞬間、漆黒の魔力が辺りを呑み込み、世界が一変した。
そこは陽子の魔術空間──古びた吸血鬼の居城。赤い絨毯、漆黒の柱、ゆらめく蝋燭の炎が、張り詰めた静寂の中で幻想的に揺れていた。
ただ一ヵ所。オル・カディスを中心に半径一メートルだけ、地下神殿──元の空間の光景が球体のようにぽっかりと浮かんでいる。
「これが、私のとっておきの大魔術のひとつ。小世界の魔術ってやつさ」
陽子の口元が、微かに笑みを浮かべる。
「普通、魔術空間ってのは魔石と陣式で場を異界化するものだけど……これは違う。私自身の心象風景を、今この場に喚び出して現実に重ねてる」
その瞳は、獰猛さと透明な意思を併せ持つ光を宿していた。
「ふふっ……この世界に入るのを拒否しているんだね。でも見えたよ──少年、クレアちゃん。ヤツの概念の檻が」
その言葉と共に、元の空間が不自然に震えた。
沈黙の中、微細な亀裂が走り、境界が崩れる音もなく塵と化して霧散する。
「……時間切れだ」
陽子が静かに告げる。
オルを覆う元の空間──概念干渉の魔力だ──は役目を終え、陽子の魔術空間の内部へ完全に呑まれた。
「今だ、クレア!」
香月の叫びが空間を貫いた。
クレアの右手に魔力が奔流のように集まり、空気が震え出す。
「Sonic Spear」
彼女が厳かに呟いた瞬間、淡く蒼い風の槍が放たれた。
連射される音速の矢が、白き神の輪郭を穿つように撃ち込まれていく。
最初の一撃が、囁くような衝撃と共に命中した。
二発、三発──次々に命中するその瞬間。
オル・カディスの輪郭が、揺らいだ。
まるで水面に石を落としたように、絶対だった『存在』が微かに波立つ。
「通った……のか……!?」
香月が目を見開く。
しかし、喜びは一瞬だった。
白き神の胸元に、軋む音と共に再び障壁が再生を始める。
陽子の魔術空間を押し返すように、元の神殿の光景がオル・カディスの周囲に浮かび上がっていく。
『拒絶』の干渉は消えたわけではなかった。あれは、ほんの一瞬だけ現れる裂け目──切れ目に過ぎなかった。
『……もう一発ッ!』
クレアが声を上げ、極限まで魔力を絞って放った一撃が加速する。
だが──その瞬間。
オル・カディスの瞳が、音もなくこちらを見据えた。
「……ッ!」
全身を冷たいものが走る。存在そのものに睨み付けられるような錯覚。
直後、オルの周囲に新たな干渉波が広がった。
それは、拒絶ではない。
──否定。
世界が音を失い、陽子の魔術空間さえ軋み、ひび割れ始めた。
「まさか……こんな短時間しか隙がないなんてね……!」
陽子が眉をひそめ、大槌を再び構える。
だがすでに、空間の縁には細かく黒い亀裂が走り始めている。
崩壊の兆しは、すでに足元から始まっていた。
漆黒の床に広がる赤絨毯が、音もなく崩れ去り、虚空の底へと吸い込まれていく。漆黒の柱も、蝋燭の炎も、ひび割れたガラスのように砕け、砕けた破片はすべて『否定』の波に飲み込まれていた。
「空間ごと否定して……っ、これがヤツの本気ってわけか……!」
香月が舌打ちをしながら、身構える。
陽子は歯噛みしつつも、なお大槌を手放さない。だが魔術空間の崩壊は止まらない。否定の力が陽子の心象風景すらも呑み込みつつあった。
そのときだった。
ふわり、と風が舞った。
そして誰かが歩み出る。
小柄な体には不釣り合いなほど、足取りは堂々としていた。
周囲の空間がきしみ、世界そのものが軋みを上げる中──その人物はひとり、胸元で小さく手を組み、片目をつむってぱちりとウインクする。
「よいしょっと。──さあ、アタイの出番だZE☆」
高らかな宣言の直後、なぜか勢い余ってつま先が石畳の割れ目に引っかかり、前のめりにぐらついた。
「おおおおおんっっ!? ってっと……セーフ☆」
陽子と香月が一斉に振り返る。視線の先にいたのは、戦場の雰囲気とまるで噛み合わない──いや、もはや『異物』と言っても差し支えない──存在だった。
その少女は、どこかのコスプレイベントから迷い込んできたかのような、ピンクを基調にしたふわふわのロリィタ服に身を包んでいた。フリルにリボン、星の飾り。脚元には厚底ブーツが輝き、背中にはおそらく魔術具ではないであろうハート型のバッグが揺れている。
戦場に似つかわしくない。
だがその姿は、まるで奇跡の象徴のように神聖で、同時に──このばで圧倒的に意味不明だった。
ちょこは一歩、また一歩と前へ進み、両手を広げて空を仰いだ。
「行くゾ! 思い知るが良い、我ぁが力!」
その声が、異様な重みを伴って空間を揺らす。
詠唱が始まった。
──それは、まるで祈りのようだった。
神聖さと奔放さが混ざり合い、どこか芝居がかった調子で、しかし世界の深層へと静かに染み込んでいく。
「──世界よ、我が願い受け取り給え……」
空気が震え、魔力の脈動が足元から立ち上がる。だがその荘厳な雰囲気は──次の瞬間、粉砕された。
「うぉい、そこの白髪おじ!」
ちょこが突然、今しがたまでの荘厳さを放り捨てる。
指をくるくると回しながら、満面の笑みを浮かべてオル・カディスに言葉を投げつける。
「おしゃべりしようとしたその意識、ピッて切っちゃうね? だってアタイ、今めっちゃ静かにしてほしい気分だから☆ 喋ろうと思った時点で、チャックは既に完了済☆ 黙れ、イキり神様! その意識までもぉ……お口チャック・ザ・ジッパー! しぃ〜〜っ!!」
そのハチャメチャな言葉の羅列は、ハッキリ言って詠唱ではないように見える。だが、それはまさしく彼女の詠唱魔術だった。
彼女は感覚的に世界に言う事を聞いてもらえる。いや、世界の側が彼女の言葉に合わせてくれると言っても過言ではないのだ。
それは破壊でも、干渉でも、封印でもない。ちょこの願いを、世界が素直に受け入れてくれるという、規格外の現象だった。
「んぐっ……! がっ……あッッ……!?」
初めて──オル・カディスの喉から、意味を成さぬ呻きが漏れた。
それは、怒りでも痛みでもない。
何かを伝えようとしたというその衝動ごと、切り取られたのだ。
否、意識の先端が、無理やり『閉じられた』と言った方が正確だった。
本来のちょこの魔術は、理屈を通さない超感覚派の詠唱魔術だ。
詠唱の構造も、魔術理論も、常識的な行使手順も存在しない。
ただ一つ──「こうなってほしい」という彼女の願いを、世界そのものが『受理』してしまうという、神域の行為。
結果、オル・カディスという異端者の『世界をねじ伏せる魔力』を行使するという意識は、まるでジッパーで無理やり塞がれたかのように沈黙した。
「よぉし、成功〜☆ てかさ、ず〜っと世界に無理矢理言う事聞かせようとしてたでしょ? それ、アタイのセンス的にノーサンキューなんだよね〜♪」
ちょこが口元に指を当て、今度は「しぃ〜」と音を立てる。
その瞬間──
空間の軋みが止まった。
否定の干渉波が、まるで咳き込むように一瞬止まり、崩壊しつつあった陽子の魔術空間がわずかに再構築される。
「……やった……? 本当に……」
陽子が、呆然と呟く。
理解が追いつかないのは、彼女だけではない。
香月が目を細め、オルの様子を観察する。あの異常な魔力圧も、黙りこくったまま微かに揺れているだけだ。
「今の内だ! 畳み掛けるぞ!」
香月の号令に呼応するように、誰かの足音が響いた。
いつの間に着替えたのやら深紅のトレンチコートを翻し、古城の魔術空間をすり抜けるように現れたのは、フランス魔術協会所属の構成員──シャルロット・ルフェーブル、その人だった。
陽子が魔術空間を展開してくれたお陰で、結界を張る必要がなくなったらしい。
「何処のどなたかは存じませんが、あの厄介な魔力を封じるなんて流石ですわね!」
ちょこに声を掛け、懐から何かを取り出しながら彼女の青い瞳が静かに敵を見据える。
「ここからわたくしも加勢しますわ」
彼女の右手に握られていたのは一丁の魔術銃だった。彼女が狙いを定めると同時に、彼女の周囲に複数の魔術陣が空中に浮かび上がった。
「クレア、合わせてくださいまし!」
『しょうがないな!』
クレアが仏頂面のまま短く応じると、両者の魔力が呼応するように高鳴った。
シャルロットが掲げる魔術銃の銃口には、蒼白の魔力が凝縮されている。まるで星光を閉じ込めたかのように輝くその魔力は、次の瞬間には怒涛の一斉射撃へと変貌する。
「Étoiles de Jugement!」
シャルロットの詠唱と共に、魔術陣から放たれた無数の光弾が、弧を描きながらオル・カディスへと殺到する。音もなく、しかし確実に敵を貫く速度と精度だ。
そして、クレアも同時に動いていた。
『今度こそ……!』
魔力を一点に収束させた彼女の指先から、新たなSonic Spearが形成される。先ほどよりもさらに細く、鋭く、貫通力に特化したその矢は、空気の抵抗すら削り取るように振動しながら狙いを定めていく。
──静寂。
一瞬だけ、全ての音が世界から剥がれ落ちた。その中で、放たれる閃光のような音速の一撃。
シャルロットのÉtoiles de judgementと、クレアのSonic Spearが、時間差なく同時に到達する。蒼白と蒼光が交差し、白き神の胸部を──穿つ。
光が爆ぜた。
今まで一度も崩れなかった存在の輪郭が、初めて明確に、視覚的に崩壊した。
まるでガラスが割れるように、オル・カディスの身体から淡い光の粒子が飛び散る。
それは、オル・カディスという存在を構成している世界の理をねじ伏せる魔力そのものだった。
「……通った……通ってますわ……!」
シャルロットが驚愕と感嘆の混ざった声を漏らす。
オル・カディスは一歩、後退した。
その顔に感情はない。
だが──確かに、揺らぎがある。
「ちょこ、もう少しだけ頼む……!」
香月が叫ぶ。だがちょこは振り向かず、空に手を掲げたまま、淡く笑う。
「もっちろんさぁ☆ アタイ、今ね、すっごい楽しいの。だからもうちょっとだけ、このワガママ、聞いてもらうね〜世界ちゃん♪」
その瞬間、空間全体が優しく光った。
オル・カディスの否定の概念干渉は完全に止まっていた。
──今だ。
香月の魔力が爆発的に高まり、彼の背に彫られた魔術刻印がひとつの極点へと達する。
それは己の背に刻みつけた自在術式──過去の戦いで古代魔術師から奪ったその魔術を、自己流に落とし込んだオリジナルの術式を記憶から脳裏に思い浮かべると紋様が蠢いてその形を成した。
右拳を振りかぶり、オル・カディスへ肉薄する。そして、拳を突き出しながら吠えた。
「Storm Rage《雷閃嵐砲》!!」
穿つような雷の嵐を纏った拳が、オル・カディスを打ち貫く。
Storm Rage《雷閃嵐砲》の極限に高められた香月の魔力がオルの胸部を貫いた瞬間、凄まじい雷鳴と共に光が弾け、時空の深層をすら穿つような衝撃が走った。
オル・カディスの身体が、大きく仰け反って吹き飛ばされる。雷撃が収まり、香月が着地した。
「──これで終わりだ」
雷光が消え、オル・カディスは崩れるように膝をつき、そのまま地に伏した。
胸部には、深々と抉れた跡が残っていた。そこに灯っていた魔力のコア──光源は、淡く明滅し、やがて静かに消えていく。
全員が息を飲む。
陽子はわずかに目を見開き、シャルロットは魔術銃を下ろした。
ちょこは胸元で手を組み、小さく頷く。
クレアが一歩、前へ踏み出した。
『本当に……やったの……?』
香月は振り向き、静かに答える。
「……ああ。これで──」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
香月の足元から、音もなく影が広がった。
黒く、濃く、底の見えない奈落のように──それは、まるで地面そのものが、彼を選んで飲み込もうとしているかのようだった。
「ッ……な、んだ……これ──」
異変に気づいた瞬間、視界が暗転する。
腹部に、重く鈍い衝撃が打ち込まれたような感覚が走った。
全身から重力が剥がれ落ちていく。
意識が、現実から切り離されていく。
仲間たちの叫びが、遠くでこだまする。
だが、もう何も聞こえなかった。
ただ、香月の身体が、その場でぐらりと力を失い崩れ落ちる。
遠のく意識の中で、誰かに抱き止められたような──そんな気がした。