18.世界は彼に捩じ伏せられる⊕
「……音が……消えた……」
クレアは目を閉じ、集中していた指先の動きを止めると、ぽつりと口で直接呟いた。
施設外部に展開していた集音魔術による索敵──その『耳』が、たった今断ち切られた。
神の檻本部。その地下最奥部で発動していた魔力の波が、唐突に静まり返ったのだ。
ノイズでも、妨害でもない。
まるで、空間そのものが沈黙に呑み込まれたような感覚。
(……神殿の奥で、何かが起きてる?)
胸の奥がざわつく。心臓が早鐘を打ち、警鐘のように脈打った。
香月たちは、まさにその最奥にいるはずだ。
だが今の状態では、伝声魔術を試みても、おそらく声は届かない。
あの沈黙は、あらゆる干渉を拒む結界に似た何かだろうか。
クレアはひとつ、短く息を吐いてから、展開していた音魔術を静かに収束させる。
次の手段は──自らが動くこと。それしかなかった。
神の檻本部は、すでに戦場と化している。
人形師が正門から強行突入し、防衛の為の結界は容易く破壊された。
今や、自律型の魔術人形たちが内部を蹂躙し、信者たちとの激しい戦闘が各所で展開されている。
本隊の到着は、人形師の突入直後にジェイムズに連絡を取ったことで前倒しとなったが、それでもあと一時間はかかる見通しだ。
正面突破は可能だろう。だが、突入の先には、敵も味方も区別のない混沌が広がっている。
一人で乗り込むのか。
無謀かもしれない。それでも──
(……待ってなんかいられない。カヅキが危ない)
恐怖がなかったわけではない。けれど、あの沈黙の先で、もしも何かが起きているなら動かずにいることこそ、最大の過ちになる。自分が失いたくない相手はわかっている。
『……ボクも行くしかないな』
そう独りで言い、立ち上がろうとした、その瞬間。
背後から、足音が聞こえた。
二人分。軽やかだが、どこか重い。
女性──だろうか。
その足取りには、異様な圧があった。
静かでありながら、確実に近づいてくる。
まるで存在そのものを主張するかのように、一歩一歩、確かに地面を踏みしめている。
(……まさか神の檻の巡回部隊?)
クレアは即座に振り返り、警戒の構えを取る。
しかし、そこに立っていたのは、彼女が予想していた誰でもなかった。
◆
静寂が、石壁を満たしていた。
神の檻本部に隠された地下神殿の最奥部。
天井の浮彫と列柱は淡く輝き、魔力の光が完璧な対称性を描きながら空間全体を満たしている。
空気は微塵も動かず、音という概念すら、この場には存在しなかった。
ただ一つの存在が、そこにあった。
そして、それだけで──すべてを支配していた。
オル・カディス。
その姿は、もはや人の域を超えていた。
本来なら天に祀られるべき神威が、地下深くに封じられているという事実そのものが、世界に対する冒涜に思えた。
白銀の髪は風もないのに宙を舞い、纏う衣は空気にすら触れず、まるで結界に護られているかのように揺らめく。
瞬間、空間がわずかに軋み、黒い布が宙から現出した。
まるで天の影が具現化したかのように、それは音もなくその身体を包み、静かに、荘厳にその姿へと馴染んでいく。
魔術の発動に伴う詠唱も術式もなかった。ただ、その存在が望んだだけで、神に相応しい衣が形を成す。
足は地を離れ、静かに浮かぶその姿は、この神殿という舞台における絶対の中心だった。
その赤い瞳は、目の前の敵──人形師を見据え見下ろしていた。
「チッ……神を気取りやがって。やっぱり、こっちの古代魔術師の分魂体も、世界を壊す気かよ……」
睨み合う人形師とオル・カディスを横目に香月は、舌打ちとともに魔力を練り上げた。
冷たい石床に立つ彼の足元で、かすかな蒼光が波紋のように広がっていく。
(──こりゃ、近づけば殺されるだろうかな)
かつてエドワードに寄生していた虫の肉体に宿っていた分魂体もまた、やり方こそ違えど、同じ結論に至っている。恐らく、オル・カディスもその類の筈だ。
すなわち──現代世界を崩壊させ、魔術の理が支配する新たな世界を創るという思想。
そして、その道を阻む者には、容赦などしないだろう。
殺す。それが当然のように。
それでもやるしかない。
香月が拳を眼前に構えて、ステップを踏み始める。
この分魂体を打ち倒し、現代を守り抜く。それが、魔術協会構成員である香月達に課せられた責務だった。
(こいつが外に出たら、もう……終わりだ)
魔力が香月の掌に凝縮されていく。戦いの幕は、今にも上がろうとしていた。
最初に動いたのは──人形師だった。
香月の魔力がまだ高まりきる前、しなやかに動いたその細い指先が、十数本の魔力糸を空へと解き放つ。
糸は蛇のようにしなると、ヒュンッ、と鋭い風切り音を立てて石造りの神殿に鳴り響いた。
狙いは、オル・カディスだ。
だがそれは、牽制でも時間稼ぎでもない。
最初から「討つ」意志がある──その速さと正確さが、そう物語っていた。
──だが。
糸が届く寸前、世界が一瞬、凍りついたかのような錯覚が走る。空間がひと呼吸ぶん、軋み、そして「捻じれた」。
あの、概念干渉による結界だ。
次の瞬間、糸は弾けた。
切断されたのではない。
まるで初めから存在しなかったかのように、視界から消えた。
「……ッッ!」
人形師の目が細くすぼまる。
驚愕ではない。理解の先にある、戦闘者の目だった。
(……空間ごと、削られた? いや、概念を捩じ伏せられたのか!)
魔力の性質がまるで違う。既存のあらゆる魔術とも、破壊の理とも異なる。
「時間凍結」ではない、今度は「否定」だった。
世界の一部を拒絶し、存在そのものを押し流す──まさに、神の権能と呼べる力。
オル・カディスは、ただ視線を向けて念じただけで、人形師の魔力糸による攻撃を「なかったこと」にした。
香月の背を、冷たい汗が伝う。
理屈では理解していたつもりだった。
この存在は、もはや人ではない。
──だが、実際に目の前でその現実を突きつけられる感覚は、別次元だった。
「厄介だな、あの概念干渉って奴は……!」
香月が舌打ち混じりに低く呟く。だがその手は止まらない。
魔力はすでに臨界を超えようとしていた。次の瞬間には、怒涛のような連撃へと転じる。
「Energy Storm《魔力劫嵐》ッ!!」
詠唱と同時に、香月の掌から奔流のように魔力が溢れ出す。
背中に刻まれた自在術式が焼けつくように発光して熱を帯びる。圧力を孕んだ光の帯が、断続的に空間へと放たれていく。
一条、また一条。絶え間なく生み出される魔力の奔流が、光の鞭となって四方八方に撃ち出される。
それは単なる一撃ではない。刻々と生成される新たな術式が、途切れることなく連続発動されていた。
(単発が効かねえなら──数で押し潰してやる!)
放たれた光帯は、生き物のようにうねりながら空間を裂き、神殿の石壁や柱を跳ね返り、鋭角な軌道で次々と敵へ向かう。
それぞれが稲妻のように炸裂し、轟音とともに周囲を焦がす。
全方向から襲いかかる閃光の連打は機銃掃射のようにオル・カディスを囲む。
一瞬の隙も与えず、怒涛のごとく襲いかかる。
だがそのとき――オル・カディスの足元から、空間が軋むような音が響いた。
再びの『拒絶』だ。
空間が揺れ、光が、魔力が、術式が――その「存在ごと」、根源から押し返されていく。
まるで神の手が「不可」と突き返すかのように、すべての光の帯が、突如反転し、香月たちへと殺到した。
「な──!?」
反応する暇もなかった。
制御を失った魔力の帯が、怒りをもって創造主に牙を剥いたかのように襲いかかる。
「伏せろッ!!」
香月の叫びと同時に、シャルロットが魔力障壁を展開しようとするが、一瞬遅れた。
跳ね返された光の帯が、空間を裂きながら三人に襲いかかる。
シャルロットの障壁は二重に張られていたにもかかわらず、光はそれを難なく貫通し、神殿の床ごと爆ぜさせた。
香月の左腕に灼熱の痛みが走る。
「ぐっ……がァアッ!!」
咄嗟に防御を取ったはずのその腕が、焼けただれていた。
その衝撃で体勢を崩し、彼は石畳の上に倒れ込む。
人形師もまた数発の光帯を避けきれず、片膝をつきながら糸で視界を遮るように展開するが、その動きに精彩はない。
そしてオル・カディスはただ一歩も動かず、沈黙の中で三人を見下ろしていた。
その無言で宙に浮かんでいるその様だけで、戦場の空気を完全に支配していた。
(クソッ……! アイツを止める方法が思いつかねえ!)
爆裂音の余韻が、神殿の奥に響き渡る。
香月は焼け焦げた左腕を押さえながら、呻くように立ち上がろうとする。シャルロットは薄氷のようにひび割れた魔力障壁を再展開しながら、呼吸を整えていた。人形師は再び立ち上がりかけていたが、その膝には血が滲み、微かに震えている。
オル・カディスの長い白髪が、静かに揺れる。
その瞳は変わらず、何者にも染まらぬ無感情な光を湛えていた。
怒りもなければ、勝利の確信すらない。
ただ『在る』という絶対性のみが、その存在を形作っている。
彼我の差異すら、もはや言葉にする意味を失っていた。
その時、突如として世界が裂けた。
高周波の「風」が、神殿を貫いたのだ。
どこからともなく飛来したその一撃は、目には見えぬ槍のごとく空間を突き破り──
次の瞬間、オル・カディスの右肩を撃ち抜いた。
「クッ……!?」
風を裂く音が、一拍遅れて響く。
不動を思わせたその身が、わずかに揺れた。
肩口から噴き出したのは、蒼白い光だった。それは血ではない。
それは魔力の奔流──
神に等しき存在に、ついに傷が刻まれた証だった。
「っ、あれは……!」
香月が、目を見開く。
「──クレアか!」
Sonic Spear。風の槍による狙撃魔術だ。
空間をも切り裂くような音の魔術。それは、極限まで精密かつ一点集中に魔力を収束させた、超高速度の風の矢だった。
この一撃が、オル・カディスの絶対性を揺るがせたのだ。
香月が神殿の上層に視線を上げる。
そこに開いた空間の断層から──三つの人影が飛び降りてきた。
先頭は、クレアだった。
いつもの無表情を崩さぬまま、風の刃を指先に纏って着地する。
その足元から生まれた気流が、神殿の砂埃を激しく巻き上げた。
続いて、フリルのゴシックドレスに身を包んだ陽子が、白木の大槌を肩に構え、優雅に舞い降りる。
『カヅキ! 大丈夫!?』
「待たせたね。ジェイムズさんから連絡を受けて、助っ人に来たよ」
陽子は大槌を一回転させながら、香月に笑いかける。
その笑顔には、この非現実的な戦場にあってなお、どこか日常の穏やかさが宿っていた。
そして──最後に降り立ったのは。
「フゥ〜〜〜〜ハッハッハッハァッ!!」
神殿の上空。魔力の爆風を撒き散らしながら、ひときわ派手に舞い降りる影。
風圧でスカートがはためき、陽光を跳ね返す黒髪が舞う。
背中を反らし、両腕を大きく広げたまま、空を背に優雅に着地した。
一拍の静寂。
そして少女は劇的に名乗りを上げた。
「闇夜に咲きし破滅の薔薇! その名も──魔界のプリンセス・夜神ちょこッ! 絶望と共に、今ここに舞い戻ったゾッ!! おぉぉぉんッ!!」
今日の彼女はいつもの変なTシャツではない。
ふわふわのフリルが揺れる、ピンクのロリィタ服。どうやら勝負服みたいなものらしかった。……一見、コスプレか何かにも見えなくもないが。
そうして額に指を当てて決めポーズ。片目をキラリと光らせた。
直後、花弁が風に舞い、なぜか雷鳴が大地を揺らした。
「なんで今、花びらと雷が……!?」「演出用の魔術かよ!」というツッコミが上がりそうな展開だがそれすらも追いつかないまま、ちょこは腰に手を当てて堂々と仁王立ちしていた。
「我が魔眼はすべてを見通すッ! そこの白髪のおっさん、ちょこ様の相手には──百年早いんだZEッ!! いぇ〜〜い! じゃすてぃす☆」
ビシッとポーズを決め、オル・カディスに対して挑発的に口上を叩きつけるちょこ。まさにやりたい放題である。
クレアはそんな彼女から静かに目をそらし、陽子はため息混じりに呟く。「……また派手に始めたなあ、ちょこちゃんは」
だが、そのふざけた登場の裏で、確かに『風向き』は変わった。
オル・カディス──神にも等しき存在が、わずかに一歩後退していた。
「……なんだ、貴様は」
冷たい声。だが、わずかに揺らいでいる。
ちょこは、へらっと笑って構えを取る。
「アタイ? 世界をねじ伏せるとか超理論ぶちまけてるラスボス風おじさんに、ちょっとお仕置きカマシに来たただの魔法少女だZE♪ 喰らうが良い、我が大魔術ッ!」
次の瞬間、ちょこの詠唱魔術が始まった。
「黄昏よりも昏きもの 血の流れより紅きもの──」
詠唱の第一節が紡がれた瞬間、場に緊張が走る。
「ちょっ、ちょこちゃんストップ!!」
陽子が全力で詰め寄る。笑顔は引きつり、声は裏返っていた。
「それ、マズいから!! 物理的にも法的にも権利的にも!! 色んな意味で!!」
「へっ?」
ちょこが首をかしげる。
「え、ダメなんですか? 超かっこいい呪文じゃないですか。私大好きですよ? 私もドラゴンに跨いで通られたいですよ?」
「私もそのシリーズは若い頃大好きで見てたし読んでたよ!! でもその呪文、今の子は知らない可能性あるかもしれないけどアプリゲーとかで未だにコラボとかされたりしてめちゃくちゃ有名なヤツだから! 完全にアウトだから!」
「え〜〜!? たまたま似てるだけですよ〜! この世はアタイのためにある☆」
「こらっ、絶対わかっててやってるでしょ! ダメだからね! ちょこちゃん、それ最後まで唱えて撃ったら世界が崩壊するとかじゃなくてこの世界が消えちゃう可能性だってあるんだから辞めなさい!! 大人の事情的な意味で!」
「ええ〜……」
ちょこはぶりぶりと頬を膨らませ、不満げに陽子を見上げた。
「せっかくカッコつけたのにぃ……アタイの見せ場がぁ……」
「大丈夫だよ、十分すぎるほど目立ってるから。むしろ訴えられる勢いで」
陽子はちょこの頭を軽くポンと叩き、肩をすくめる。その仕草には、年長者としての諦観と優しさが滲んでいた。
「貴様ら……」
呆気に取られていたオル・カディスが声を上げた。翻った長髪は、まるで白炎のごとく揺らめいている。鋭く三人を睨みつけた。
「貴様ら……この神の肉体によくも傷を……ッッ!」
その声には、怒りに混じって、明らかな焦りがあった。香月は、その微細な変化を見逃さなかった。
(──なるほどな、概念干渉は絶対というわけではないらしい)
クレアのSonic Spearが貫いたのは、オルの肉体だけではなかったのだ。
それは、あの男の守り──世界の理を捻じ曲げるという概念干渉を突破したという事実だった。
だが、それは決して単純な火力で打ち破ったのではなかった。
(あれは……意識の隙を突いた、不意の狙撃だった)
あの魔術は、極限まで魔力を収束させた一点突破の音速の一撃だ。そして、音という性質ゆえに、展開された魔術に気取られにくい。
つまり──あの概念干渉は、常に張り巡らされているわけではないのだ。
(発動には意識を介している。防御のためにその絶対性を展開するには、あいつ自身の集中が必要なんだな)
なら──逆に言えば、その意識の隙を突けば攻撃が通る。
陽子が香月の隣に並び、白木の大槌を肩に立てかける。
「さて、少年。この男をどうにかして倒そうか。準備は良いかい?」
問いかけに、香月はひとつ頷く。
瞳が静かに燃える。冷静に、だが確かに、内側で火が灯っていた。
「──ああ、ヒントは得た。やってやるさ」
言葉と同時に、背筋を伸ばす。
視線の先、神に等しき存在の胸に、確かに弱点があると知った今なら──
ここからはただ、その一点を突くだけ。
攻めるだけだ。
「ここからは──圧倒させてもらう」
宣言と同時に、空気が震えた。