17.神に届くもの
空気が張り詰めた。
オル・カディスを見据えたまま、人形師が右手をひと振りする。刹那、彼の背後に漂っていた無数の黒糸が音もなく解き放たれた。
それはまるで意思を持つ蛇の群れのようだった。複雑な軌道を描きながら一斉に飛翔し、異形へと変貌したオル・カディスへ殺到する。魔力で編まれた糸の一本一本が、それ自体に術式を刻まれた斬撃兵器となっていた。
糸は空間を裂き、神殿の空気を凍てつかせながら突き刺さる──はずだった。
「……っ、動きが……止まった……?」
シャルロットの呟き通り、糸の群れは目標の目前で凍りついたようにぴたりと動きを止めていた。目に見えぬ壁に阻まれたわけではない。糸が踏み込んだ空間そのものが、まるで凍結した映像のように時間の流れを拒絶していたのだ。
香月は歯を食いしばる。
(……時が止まったように動かない。これは魔力による結界じゃない。もっと根源的な理の……拒絶だ……。何だこれは……?)
オル・カディスの全身には、ぶくぶくと黒い瘤が増殖し続けていた。ただの異形化ではない。不完全とはいえ、培養された始祖人類の遺伝子を持つクローン体を大量に取り込んだ結果だった。その異質な魔力が、周囲の法則そのものをねじ曲げ、己に都合のいい現実を構築しようとしている。
「効かないってわけかよ……!」
香月の呟きと同時に、オル・カディスが腕だった部位を振るう。凍結していた糸は次々と弾かれるように跳ね返され、神殿の天井や柱に突き刺さり、石の床が粉々に砕け散った。
だが、その直後。
「時間凍結か……なるほどな」
人形師が呟き、左手をわずかに動かす。弾かれたはずの数本の糸が空中で軌道を変え、再びオル・カディスを狙って交差するように突進した。
その精密さに、香月は息を呑んだ。
(……アイツ、この性質を読み取ったのか……?)
だがオル・カディスは微動だにしなかった。人間であった部分は、すでに顔の一部にしか残されていない。開いたままの一つ目が、糸の動きさえ予見するようにわずかに瞬いた。
次の瞬間、魔力が爆ぜた。
糸が届くよりも早く、オル・カディスの肉体の一部が自壊し、そこから無数の触手状の魔力が放たれる。それは糸を絡め取らんと、鞭のように唸りながら伸びてきた。
「来るぞッ!」
香月は叫び、即座に地を蹴った。肉体強化魔術の行き渡った身体が、しなやかに跳躍する。香月の跳躍とほぼ同時に、触手の奔流が空間を切り裂いた。
人形師の糸と魔力の触手がぶつかり合い、凄まじい衝撃波が神殿内を揺るがす。天井の彫刻が砕け、破片が雨のように降り注ぐ中、シャルロットは結界を張って皆感じです香月を瓦礫から守る。
「っ……! まるで化け物ですわ……!」
彼女が魔道具に注ぎこんだ魔力は風の障壁となり、瓦礫をはじき返す。だが、その中でもオル・カディスの圧倒的な心象の具現化の力は、周囲の空間を徐々に侵蝕しつつあった。
糸の攻撃はかろうじていくつか触手を断ち切ったが、それでもオル・カディスの肉体は怯むことなく再構築を続けている。崩れた部分にはすぐさま異形の肉が補われ、新たな黒い瘤が膨れ上がる。
香月は着地と同時に、背中の自在術式に意識を向け魔術刻印を発現させる。
「Energy Storm《魔力劫嵐》ッ!」
それは、古代魔術師の記憶の断片にあった詠唱魔術を、現代の魔術刻印──第四世代式へと再構築したものだった。ちょこの特訓を経てから、Storm Rageの他にも会得した高位術式の一つだ。
香月の前方に、幾重にも重なる光帯が展開し、魔術陣が閃光とともに浮かび上がる。帯状の魔力は激しい奔流となって、嵐のごとくオル・カディスへと襲いかかった。
だが、それすらも──
「──通らないか……!」
魔力の嵐は、オル・カディスの周囲に漂う異常空間に触れた瞬間、まるで時間が凍りついたかのように停止する。
そのとき、音がした。
重く、鈍い、何かが蠢くような音だ。
それは肉塊と化したオル・カディスの身体から鳴った、異様な音だった。ぐじゅり、ぐじゅりと、何かが蠢くような湿った音が続く。
次の瞬間、肥大化していた無数の黒い瘤が、まるで役目を終えたかのように内側へと沈み込み始めた。異様な膨張は収まり、代わりに肉が捻れ、蠢き、軋みながら再構築されていく。
「……何が起きて……?」
シャルロットが困惑の声を漏らす。その目には、異形からさらに異質へと変貌する光景が映っていた。
膨れ上がった肉塊は急速に凝縮され、やがて一つの人型を形作る。
「まさか……限界か……? いや──」
香月はディヴィッドとの戦いを思い出していた。あの時はディヴィッドがイヴの血で吸血鬼化の魔術薬を作り、それを自らに打った彼は始祖人類の持つ膨大な魔力に耐えられず膨れ上がった肉体は最終的に自壊した。
しかし目の前のこれは様子が違うらしかった。
香月の視線の先で、変貌を遂げたオル・カディスの肉体が、音もなく収束していく。ぐじゅ、ぐじゅ、と湿った音を立てながら、肉の塊は凝縮し、やがて形を成す。
──人型だった。
だが、それはもはや人ではない何かのようだった。
雪のように透き通った白髪が、静かに宙に揺れる。整った顔立ちには、かつて人間だった頃の面影は微塵も残されていなかった。老いさらばえた肉体は消え去り、代わりに現れたのは、若々しくも異様な男の裸身だった。中でも目を引くのは、その瞳だった。血のように濃く染まった赤が、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
ただの人間ではない。ただそこに立っているだけで、空間そのものが拒絶され、重圧のような存在感が全身を包む。
香月は、思わず息を呑んだ。
「……イヴと同じ……始祖人類、なのか……!?」
それは、現代の人類が到達し得ぬはずの原初の存在。かつて神の複製であると言われた、神話時代の「人間」。
「──いや、あれはなり損ないだ」
人形師が低く、そして静かに断じた。
香月が振り返る。彼の目に映ったのは、静かに糸を引き戻しながら、なおもオル・カディスの存在を見据える人形師の姿だった。その表情には、恐怖でも畏怖でもなく、冷徹な観察者としての視線があった。
「始祖人類の姿に似てはいるが、そもそも出来損ないを喰らって無理やり形にした肉体だ。本物には遠く及ばない」
「……それでも程遠いと言いますの? これだけの魔力を肌で感じるのに……?」
シャルロットが言葉を挟んだ。
確かに、香月自身も感じていた。
目の前のオル・カディスだったものが放つ魔力は、イヴの肉体を乗っ取った時の古代魔術師にこそ及ばないものの、それでも常識では到底測れぬ密度と異質さを孕んでいる。
ビリビリと肌を焼くような、濃密で異質な魔力。
力そのものが、空気を振るわせ、視界の端を歪ませる。まるで周囲の法則を、自らの存在に合わせて無理やり書き換えているかのようだった。
人形師は一歩前に進み、魔力糸をたゆたわせながら言葉を続けた。
「だが──警戒しておくに越したことはない。あれは、無理やり始祖人類の肉体に近づけた代物だ。魔力の性質だけは、確かに神域に達したらしいがな」
人形師が吐き捨てるように言う。
そのとき、凝縮された肉の塊だったそれが、わずかに首を傾げた。
まるで──こちらの会話を聞いているかのように。
香月は一瞬、息を呑んだ。
それは、ただの偶然ではなかった。完全に意識を持っている──いや、オル・カディスを名乗っていた古代魔術師の魂は、いまだその肉体に宿り続けている。
「フフ……」
かつてオル・カディスと呼ばれていた存在が、わずかに笑った。
それは言語ですらない。ただ喉の奥から漏れた、湿り気を帯びた音だったはずなのに──香月たちの脳裏には、まるで思考を直接突き刺すような声として届いた。
『理解したか。我が再誕の意義を。我こそが神の代行者となるのだ』
その瞬間、神殿全体の空気が震えた。
言葉にならない言語。否、そもそもこの世界の文法すら超越した「概念」としての声が、あらゆる知覚を侵食する。
シャルロットが眉をひそめ、額を押さえながら呻いた。
「……この声、脳に……直接……!」
香月も膝をつきかけた。重力が変化したかのような圧迫感。重苦しい圧力が、身体の芯を抉るようにのしかかる。
それでも、香月は歯を食いしばり、前を睨み据えた。
「……それがアンタの言う神の代行者の姿かよ。笑わせるな、どう見ても成り損ないだろうが……!」
香月の煽るような言葉に、オル・カディスは微かに笑った。そして、熱を帯びた威圧とともに、その声が響く。
『成り損ない……か。面白いことを言う。だが、所詮は現代の価値観に毒された貴様の戯れ言だ』
言葉が空気を震わせるのではない。それはまるで、思考の芯に針を突き立てるように、直接、意識へと叩き込まれてくる。
『我が欲したのは神に等しき力だ。それさえあれば──禁じられ、忘れられ、失われ、そして穢された魔術の理。そのすべてを解き放ち、科学などという下らぬ虚構に支配されたこの世界を打ち砕く事ができる。そして魔の理が支配する、真なる世界へと塗り替える。それが我が魂の悲願だ』
それは声ではなかった。「理解の強制」とでも呼ぶべきもの。
否応なく思考を浸食し、存在の根幹に直接訴えかける──まるで理そのものの形を持った、異質な圧力だった。
『この文明は、滅ぶべくして生まれた偽りの世。魔術を畏れ、封じ、忘れ去った愚者どもに未来など与えられるはずもない。ならば我が手で終焉を与えよう──この歪みきった現代に。忘却の淵に沈められた魔術の理を再び呼び覚まし、奇跡が隠匿されることのない真なる時代をここに再誕させるのだ』
香月の視界が、揺らぎ、滲んだ。
ただ立っているだけで、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
地を踏みしめる力が抜け、膝から崩れ落ちた。
──まるで、肉体の構造そのものが否定されていくようだった。
「ちっ……これは、精神干渉魔術じゃない……何だ、これは……!?」
香月は歯を食いしばり、かすかに横目で後方を窺う。
シャルロットも膝をつきかけながら、両手で魔道具を支え、
展開した風の障壁をなんとか維持していた。
その瞳は、恐怖と覚悟の狭間で揺れている。
──ただひとり、「人形師」だけが、まるで何事もなかったかのように、その場に静かに立っていた。
「概念干渉──世界の情報領域、その最深層に直接作用する、かつて神代にのみ存在したとされる、世界そのものを捩じ伏せる禁忌の力……。始祖人類のクローン化には失敗したようだが──代わりに、実に厄介なものを生み出してくれたな」
人形師が、ゆっくりと仮面の奥から視線を向ける。顔は見えない。だがその無機質な仮面に刻まれた無表情こそが、むしろ底知れぬ不気味さを際立たせていた。
「……出来損ないとはいえ、今のお前の肉体──その魔力はあまりに危険だ」
その言葉と共に、人形師の周囲に漂っていた魔力糸が、一瞬にして張り詰めた。
まるで意思を持つ生き物のように空間を滑り、ひとつ、またひとつと神殿の空気を切り裂いていく。それは、観察者の眼には見えないほどの速さと密度で、周囲の情報を縫いとめていった。
「この世界から排除させて貰う」
その一言は、まるで世界の裁定を下すかのような冷たさを孕んでいた。
『……くだらぬな。貴様の言葉は、すでにこの座に届かぬ。対話は不要だ。貴様には裁きのみが相応しい』
直後、空間に刻まれるかのように、黒い光が奔る。二人の意志の衝突が始まろうとしていた。