14.沈黙の神殿
香月は礼拝堂を出てすぐ、足を止めた。
廊下を走り抜ける信者たちの足音。叫び声と怒号が交錯する中、ひとり静かに歩を進めるその姿はむしろ異質なまでに落ち着いていた。だが、それに誰一人気付かない。
混乱の渦中にありながら、香月の歩みには一切の迷いがなかった。それはまるで、この瞬間を待っていたかのような静謐さだった。
(記憶の中では……この廊下の先、右手の壁に沿って設けられた祈祷室──その奥の隠し扉が、地下神殿への出入口だ)
香月は意識を研ぎ澄ませ、視界の端に魔力のわずかな歪みを捉える。
祈祷室の一角、壁に掛けられた鉄製の十字架。外見は装飾品にしか見えないが、ヨアヒムの記憶によれば、それこそが隠し扉を開くための鍵だった。
(この混乱の中なら、強引にやっても気づかれにくい。──万一のために、誰にも見られないようにしなくちゃな……)
彼は周囲を一瞥し、人影がないことを確認すると素早く祈祷室へと身を滑り込ませる。
内部には重々しい沈黙が支配していた。
石造りの壁、香の残り香、床に敷かれた古びた絨毯。
そして、その奥に──例の十字架がある。
香月は迷いなく歩み寄り、十字架に手をかける。
記憶通りなら、ほんの僅かに魔力を流し込むだけで、封印された機構が作動するはずだ。
(……行くぞ)
意識を指先に集中し、ごく微細な魔力を注ぎ込む。すると──カチリ、と乾いた音を立てて、壁の一部がわずかに沈む。続けて、鈍い石の擦れる音が鳴り、十字架の裏手に設けられた隠し扉が、ゆっくりと横へとスライドしていく。
その奥からは、ひんやりとした地下の空気が漂ってきた。
「さすがですわね、ちゃんと作動したみたい」
背後から、落ち着いた声が響いた。
香月が振り返ると、そこには教団の僧衣をまとったシャルロットが立っていた。
その姿は一見して荘厳さと静謐さを兼ね備えていた。
波打つような豊かな淡い亜麻色の髪が法衣の外に溢れ出し、白く重厚なフード付きの衣は、神の檻の信者たちが着用する典礼服そのものだった。
幾何学模様の刺繍が施されたその僧衣は、どこか東欧の民俗衣装を思わせ、背後から差し込む光に照らされて彼女の輪郭を神秘的に浮かび上がらせていた。
フードは目元の影を落としながらも、その下から覗く表情には確かな自信と覚悟が宿っている。
あまりにも自然にこの空間に溶け込んでいて、まるで最初からこの教団の一員であったかのようですらあった。
「意外とよく似合ってるな……それ」
香月の言葉に、シャルロットは薄く笑みを浮かべ、フードの陰で小さく首を傾げた。
「皮肉ですの? それとも本気で言ってらっしゃるの?」
「……冗談だよ。だが、変装としては完璧だ」
シャルロットは肩をすくめ、ゆったりとした所作で香月に近づいた。
「外の混乱のどさくさに信者の方の衣服をちょっと拝借しましたの。でもカヅキこそ変身魔術を使っているんですもの、そちらのほうがよほど完璧な変装ですわ」
「……そうだな、でもよくわかったな?」
香月がそう言うと、シャルロットは耳の所をトントンと指で叩く仕草をした。
「クレアのナビゲートが無かったらわたくしでもわかりませんでしたわ。カヅキに置いてけぼりをされるところでした」
「結界の中和、済んだんだな」
「ええ。わたくしの方はもう片付きましたわ。結界を中和してる間に何者かが無理やり結界を破壊していったようで……人形師がこの教団施設に乱入してきたとか」
「ああ。それもクレアに聞いたんだな。なら話が早い」
香月が頷く。
「これは好都合ですわ。この混乱に紛れれば、誰にも気づかれずに動けそうですわね」
シャルロットは言いながら、袖の中から懐中時計型の魔道具を取り出す。それは教会の結界層の重なりを解析・可視化するためのフランスの魔道具技師の手による物だった。盤面にはすでに赤色だった魔力領域が青へと変化しており、封鎖領域が一時的に無効化されたことを示している。
「この隙に、地下神殿に入る。……準備はいいか?」
「もちろん。わたくしたちがここに来たのは、そのためですわよね?」
互いに頷き合い、香月は隠し扉の奥へと先に身を投じる。その後に続いて、シャルロットも白い僧衣の裾を翻しながら、静かにその空間へと消えていった。
扉が閉じてその姿を消すと同時に、ふたたび沈黙が戻る。
外では、なおも怒号と足音が鳴り響いていた。
◆
地下へと続く階段は、湿り気を帯びた石造りだった。
足を踏み入れるたびに、冷たい空気が肌を撫でる。天井には灯りひとつなく、シャルロットが僧衣の袖口から取り出した魔道具の灯火だけが、薄暗い空間をかろうじて照らしていた。
「……想像以上に、息苦しいですわね。魔力の密度が違う。まるでこの場所そのものが、何かを封じているみたい」
「ああ、俺も同感だ。空気が澱んでる。地下というだけじゃない……これは、何かヤバいものを隠してる感覚だな」
階段を下りきった先は、広大な石造りの空間だった。
天井の高い礼拝堂──いや、『聖域』とでも呼ぶべきだろうか。
壁一面には古い魔術記号が刻まれ、中央には石の祭壇。そしてその周囲には、円形に並べられた十数体の像が静かに立っていた。
それらは人型でありながら、どこか歪で、不自然に精巧すぎた。
シャルロットが息をのむ。
「……これは……彼らの言う『神像』なのですか?」
像たちは、それぞれ異なる人物像を模しているようだった。老若男女、服装も様式も微妙に異なる。だが、いずれにも共通していたのは、そのリアルすぎる質感だ。
石像の表面に混じって、明らかに有機的な質を持つ部分があった。手の甲、首筋、まぶたの裏、髪の房──その一部に、まるで人間の皮膚や組織が混ざっているかのような、生々しい素材感がある。
香月は足を止め、像のひとつに視線を落とす。
「……先遣隊の報告通り、生体素材だな。魔術で保存処理されてる」
「信者の身体の一部……あるいは、遺体を利用した可能性もありますわ。これは……ただの彫刻じゃない。神への奉納品として捧げられたものかもしれませんわね」
像は動かない。声も出さず、意識のかけらも感じられない。ただそこに、厳かに立ち尽くしているだけだ。
しかし、それゆえにこそ、圧倒的な神聖さを感じられるものでもあった。
「……度が過ぎた信仰の極致、ってやつか。自分達が思う神の器に近づけるために、人間を素材にするなんてな……」
「先遣隊の報告には、魔術的な処置を受けた人体が冷凍保管されているとありましたわね……」
香月が中央の祭壇に目を向ける。
そこには一際大きな像が据えられていた。他の像よりも精緻で、人間の少女を模した姿。その両眼は閉じられており、眠るように静かだ。その姿はまるで生きているようだった。
閉じられた瞼の下に宿るまどろみの気配。小さく開いた唇。頬に落ちる髪の流れまで、どこか意図的に「人間の美しさ」を模した造形だった。だがそれは単なる職人の技巧の域を超えていた。
シャルロットが小声で呟く。
「……これ、本当に像ですの?」
香月は無言で頷いた。
だが、どう見ても「像」では説明がつかない。肌の質感は石とは思えないほど柔らかそうで、微かに体温が残っているかのような錯覚を覚える。呼吸すら聞こえてきそうな沈黙の中、像はただ、そこに佇んでいた。
「……そうだと思いたいがな。敵の中に機巧魔術の使い手が居たら今にも動き出しそうだ」
香月の言葉に、シャルロットは警戒の色を深める。
「ええ。ですが……そのような兆候は、今のところ感じられませんわ」
そう言いながら、彼女は祭壇の手前まで歩を進めてその一際大きな神像を見上げる。その時だった。
「誰だ!」
鋭い声が地下礼拝堂の静寂を破った。
神像の台座付近で調査を続けていた香月とシャルロットは、反射的に振り返る。階段の上から複数の黒い僧衣姿の信者たちが降りてきていた──いや、その胸元に銀糸で編まれた十字の刺繍、整った隊列、そして隠しきれない武装の気配。巡回部隊だ。
「神像への接近は、認可を受けた上位信者のみが許されているはずだ。名を名乗れ」
先頭の男の声は低く冷たく、声をかけるというよりも命令だった。
周囲にいた他の信者たちもざわつき始める。
「……女の方は見ない顔だ」
「配属されてきたばかりか?」
「それにしては、神像に近すぎる」
「魔力の流れが……妙に研ぎ澄まされてないか?」
視線が集中する。ざわめきは疑念と警戒を孕みながら、香月とシャルロットの周囲に無言の壁を築いていく。
シャルロットは一歩前に出て、フードを深くかぶったまま、低く口を開いた。
「新たに配属された修練生です。案内役と……はぐれて……」
「その説明は妙だな」
男の目が鋭く細められた。
「貴様のような女は、名簿にはいない。姿勢が信者のそれではない、巡回部隊の修練生が何故神像にそこまで近付ける。……明らかにおかしい」
ローブの下、彼の右手が結界具を構え、魔術の構えに入る。
「この場で拘束する。抵抗すれば、神像への不敬として処断する──」
言いかけた瞬間、空気が張り詰めた。
礼拝堂の天井が突如として内側から弾け飛び、厚い石造りの天蓋が粉砕されて瓦礫が降り注ぐ。高所から差し込んだ外光が煙と塵に霞み、破片と砂塵が乱雑に舞い散る中、一つの影がその裂け目から降り立つ。荘厳だった堂内は一転して、暴力的な非日常に塗り替えられた。
信者たちが悲鳴を上げ、巡回部隊も咄嗟に防御結界を展開する。
「爆発!? 何だ!?」
「……外からの……襲撃者だ!」
立ち込める土煙。その中心から、ゆっくりと異形の影が現れる。
関節が球体のように歪んだ四肢。人間に似て非なる姿。蜘蛛のように背中から伸びる魔力糸。そして仮面のように無表情な白い顔をかぶった、白い外套を纏う人物。
「──探す手間が省けたな」
その男のくぐもった声、そしてその姿に、シャルロットが即座に反応した。
「……人形師……!」
そして、砕けた天井の裂け目から──球体関節の傀儡たちが数体、落ちてくるようにして禍々しい音を立てながら姿を現した。
「戦闘用魔術人形多数──迎撃態勢に入れ!」
巡回部隊の一人が叫ぶ。信者たちは混乱の中でも一旦身を引き、体勢を立て直そうとする。礼拝堂の厳かな空気は、刹那のうちに緊迫した戦場へと姿を変えた。
仮面の魔術師──人形師は、仮面の下でくぐもった低い声で笑う。
「お前たちの神も、信仰も、崇拝も……所詮は精巧に造られた贋作にすぎない。俺がそのすべてを壊してやる」
白い仮面の奥に覗くのは、あらゆるものを嘲るような冷たい瞳。その視線が香月たちを射抜いた瞬間、シャルロットが短く警告する。
「カヅキ、来ますわ。──奴は本気ですの」