13.静寂なる侵入⊕
教団施設の一室。ここは先ほど祈りを捧げていた青年に与えられた個室である。薄暗いランプの明かりが揺れる中、香月はベッドに横たわらせた青年──フェリクスを冷めた目で見下ろしていた。
(しばらく起きないようにしておくとして……問題は物理的にどう隠すか、だな)
香月は解析魔術によって得た記憶から、フェリクスに割り当てられたロッカーの場所と、その内部の状態を探る。
ロッカーは廊下の突き当たり、小規模な更衣室の中。中は空に近く、多少の私物が置かれている程度だった。
(……これなら入るか)
香月は僧衣を剥ぎ取った後にフェリクスの手足を布とガムテープで丁寧に縛り上げ、口には布切れを詰め込んだ。
廊下に誰もいないことを確認し、フェリクスを担いで素早く移動する。更衣室に入ると、記憶通り、壁際にずらりと並ぶ金属製のロッカーが目に入った。そのひとつ──フェリクスの名が刻まれたタグ付きの扉を開け、中を確認した。
(ギリギリだが、入らないこともないな)
香月はフェリクスの身体を押し込むようにロッカーへと詰め込み、内部の空間を最大限に使って彼を収納する。膝を折りたたみ、腕を胸元に巻きつけるようにしてコンパクトに収めた。
ロッカーの扉を閉めると、控えめな金属音が静かに響いた。
香月はズボンのポケットからチョークを取り出すと、音を立てぬように慎重にロッカーの扉へ魔術陣を描き始める。造形魔術の術式だ。
かつて魔術人形を作った際のものよりは、ずっと小さく簡素な陣だった。しかし、目的を果たすには十分な精度と強度がある。
「……少しの間、ここで大人しくしててくれ」
そう呟き、香月は魔術陣に掌を添えた。魔力を流し込むと、陣がほのかに光り、造形魔術が発動する。
イメージしたのは、ロッカーの扉と筐体が溶接された状態——見た目は何の変哲もない普通のロッカーのままだが、無理にこじ開けようとしない限り、外から開くことはない。
中に入ってるこの男が目を覚ました時は大混乱だろう。たとえ他の者に発見されたとしても、異常に気づくのは開錠を試みた後だ。その時には、確実に時間を稼げる騒ぎが起きているはずだ。
フェリクスという名の青年は、誰よりも早く目を覚ます男だったようだ。
夜もまだ明けきらぬ午前四時にはランプの灯を頼りに、一人静かに祈りを捧げていたようだ。
香月はその記憶をなぞりながら、小さく息をついた。
(──この男の信仰心が強いのは罪ではない。むしろ称賛されるべきだろうな)
だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。より集中しなければならない事が目の前にある。
確かに封じられたことを確認すると、香月はチョークの粉を払う。そうして更衣室の隅に身を寄せる。
このロッカーに閉じ込めた青年・フェリクスから得た他の断片的な記憶を改めて整理し始めた。
(──朝六時。礼拝堂で全体集会がある。それまでは各自、持ち場か休憩室か。外をうろつく者もいないのか……)
つまり、今は空白の時間だ。
下手に動き回るよりも、香月が信者に化けたまま目立たぬよう身を潜め、同時に後続との合流を待つのが最善のようだ。
(先遣隊の日本本部構成員四名の救出も、朝の礼拝で様子を探る方が良さそうだ。あとは……シャルロットの結界の中和が、バレないでくれれば──)
香月はロッカー室の片隅に腰を下ろすと、再び静寂の中に身を委ねた。ロッカーの中ではフェリクスがかすかに呼吸している気配があるが、発見されたとしても開かないのでは中の確認のしようは無いだろう。
「クレア、聞こえるか?」
香月が独り言のように呟く。それは誰に届くとも知れぬ、静かな問いかけだった。
一旦の沈黙。だが、すぐにノイズ交じりの微細な音が鼓膜に返ってきた。
『──こちらクレア。一応、聞こえてるよ。結界の影響かな、クリアには聞こえない感じだけど大丈夫。追えてるよ』
「信者の変身は完了。シャルロットの分の変装も一応確保した。時間に余裕がある……探知を頼めるか?」
香月の声に、クレアが間髪入れず返す。
『了解。日本本部の消息不明になった構成員も見つけられたら見つけてみる。ちょっと待ってて、集音魔術を展開するよ』
香月の周囲で、微細な魔力の振動音が広がっていく。クレアが集音魔術を展開しているのだ。
誰かが動く音や声、壁の向こうにこだまする微かな振動を拾い上げる。
『……聞こえる。これ……カヅキの居る場所じゃない。もっと下の階層……多分、地下から』
「地下か……何が聞こえる?」
香月が声を潜めて問うと、クレアの返答には一瞬の逡巡が混じった。
『うめき声。誰かが苦しんでる……女の人の声。長く引き伸ばされるような、途切れそうな呻きが周期的に……あと、鎖の音も。軋む感じ。動くたびに金属が擦れてる。……拘束されてるね。多分、誰かが地下に囚われてる』
香月は小さく目を細めた。その組み合わせに、状況の異様さを悟る。
(やはり、日本本部の先遣隊は捕まっていたか。単なる礼拝施設の顔は、表向きのものなんだろうな)
香月はクレアに小さい声で聞き返す。
「場所は?」
『礼拝堂の裏手。地中三メートル。音の反響からして、狭い空間だと思う。今動いてるのは一人だけっぽいね』
「拘束は?」
『確実にされてると思う。声は抑え込まれてて、口を開いて叫んだ痕跡もない。口を封じられてるか、何か魔術がかけられてるかも』
伝声魔術越しに伝わってくる情報のひとつひとつが、香月の警戒を強めさせた。囚われているのは、クレアの分析の通りなら──先遣隊の日本本部の構成員である可能性が高い。
『カヅキ、確認はしたけど、今すぐ行くのは危険かも。誰かが看守してる気配はないけど、音を聞き取らせないようにしてるってことは、何かしら仕掛けもある』
「わかってる。礼拝が始まるまでに、もう一度位置を確かめて突入する。シャルロットの準備が整えば……動く」
『うん。結界の中和は順調みたい。あと数十分で完了するってシャルロットが言ってたよ。カヅキは……ほんとに無茶しないでね』
「ああ、心配するな。シャルロットと合流するまでは大人しくしている。時間はまだあるからな」
香月は答えると、そっと息をついた。静寂の中、握った右拳にわずかに力がこもる。
(まずは、日本本部の構成員を救い出す。床を吹き飛ばせば地下に届くが……それでは騒ぎが大きすぎる。今は、礼拝の時間まで静かに動くべきだ)
香月は立ち上がり、フェリクスの部屋へと戻る。
今、何よりも必要なのは情報だ。断片的な記憶、クレアの報告、それらを冷静に繋ぎ合わせ、動くべき瞬間と行先を見極める。
歩を進めながら、香月は廊下の影に意識を研ぎ澄ませた。足音ひとつにも気を配り、潜む気配を探る。
だが幸い、教団施設はまだ早朝の静寂に包まれていた。誰の気配も感じられない。
フェリクスの部屋に戻ると、ランプの火はまだかすかに揺れている。香月は静かに扉を閉め、内側から鍵をかけた。
ベッド脇に腰を下ろし、右腕に視線を落とす。
解析魔術の魔術刻印──
香月は右腕に魔力を流し込む。刻印が淡く青白い光を放ち、術式の構造が肌の上に浮かび上がる。恐らく人形師に付けられたであろう、新たな術式。それは他者の記憶へアクセスする、香月は見た事がない異質な魔術構造だ。
(──この新しい術式、存分に使わせてもらおうじゃねえか)
香月は静かに目を細めた。
◆
避難場所
時刻は、間もなく朝六時を迎えようとしていた。
教団施設の廊下には、かすかな足音が戻り始める。静寂を破るのは、僧衣を纏った信者たちの歩みと、木製の床板がわずかに軋む音。全体集会──礼拝の時間が、いよいよ始まろうとしている。
香月は、フェリクスの部屋を出て廊下の一角に立っていた。変身魔術で容姿も、衣服も完璧に整えられている。周囲の誰も、彼を「よそ者」とは認識しないだろう。
礼拝堂へ向かう信者たちの流れに紛れるように、香月は無言のまま歩き出す。その目は常に周囲を観察し、警戒を怠らない。彼の目的は、あくまで情報収集と地下牢の構造把握──そして、後に控える日本本部構成員の救出のための準備だった。
礼拝堂の扉が開かれ、信者たちが一人、また一人と中へ入っていく。
香月──フェリクスに化けた彼は、信者たちの列に紛れて礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
内部の構造は、既に潜入直後の巡回で一通り確認済みだ。だが、肝心の地下牢に通じる出入口はわからなかった。建物の設計そのものに魔術的な隠蔽が施されている可能性がある。
(このまま手探りで探しても無駄だな。なら、知ってそうな奴から直接吐き出させるしか無さそうだが──)
そのとき、礼拝堂の扉が静かに開き、ひとりの男が入ってきた。
年の頃は五十前後。落ち着いた身のこなしと、深紅の僧衣。肩口には銀糸で刺繍された三本線の紋章。教団内で高位の役職に就く者だけに許された印だ。
香月の目が細くなる。
(……あの男。フェリクスの記憶にあったな。ヨアヒム・ガウク司祭……神の檻の幹部信者の一人か。なら、地下牢の情報も握っている可能性が高い)
香月はゆっくりと立ち上がり、まるで何かを思い出したように小さくうなずいた。
「ヨアヒム様、少々よろしいですか」
声をかける際の敬語も、奪った記憶のフェリクスの口調に忠実に倣った。演技は完璧だった。男──ヨアヒムは、軽く顎を上げる。
「……何だ、フェリクス。礼拝前だぞ」
「はい、申し訳ありません。報告書の件で、一点だけ確認がありまして……。手短に済ませます」
香月は頭を下げると、自然な動きで近づき、わざと軽く肩に手を添えるようにして距離を縮めた。
『Analysis《解析》』
口の中で小さく呟くとその瞬間、解析魔術が発動する。
触れた指先から流し込む微細な魔力が、ヨアヒムの表層意識をなぞり、記憶の断片を拾い上げていく。視界の奥に、幾つかの映像が浮かび上がった。
──重い鉄扉。階段を下る冷たい空間。儀式用と思われる円環。そこに囚われた者たちの姿──。
(……やはり、あったな)
香月は手を離し、すぐに一歩引く。
「失礼しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。改めて礼拝の後に、文書で再提出いたしますのでご確認をお願いします」
ヨアヒムは怪訝そうに眉をひそめたが、疑いの目は深くなかった。
「よかろう。神殿棟へ持ってこい」
「承知しました」
深く一礼し、香月は再び列の中へと戻っていく。胸中には確かな手応えがあった。今得た情報をもとに、地下への潜入口を特定できるはずだ。
あとは、救出作戦の決行のために、確実な経路を探し出すだけだ。
礼拝の鐘が、静かに響き始める。六時を告げる鐘のようだ。
香月は席へ戻り、目を伏せる。手に入れた記憶の断片は断定的ではないが、地下牢へ続く道を見つけるには十分な材料だった。あとは、潜入を続けてどこに入口があるかを突き止めればいい。行動を起こすのは、礼拝後だ。
その瞬間だった。
「──緊急! 緊急報告!」
堂内の扉が勢いよく開かれ、青ざめた顔の若い信者が駆け込んできた。礼拝の静けさが一瞬で緊迫に変わる。
「侵入者です!」
ざわめきが広がる。幹部信者──ヨアヒムがすぐに立ち上がった。
「どこだ? 内部か? 外部か?」
「それが……結界が……っ、破られ──」
香月の心臓が、一拍強く脈打った。
(……まさか、バレたか?)
背筋に冷たいものが走る。結界の中和に気付かれた? それとも、シャルロットの動きが何か……?
「……侵入者は一名、魔術の痕跡ありとの報告です!」
信者の声が上ずっている。全容がまだ見えていない。香月は視線を下げたまま、息を殺す。
(俺では無さそうだな……。だとすると、シャルロットか? ……いや、シャルロットが正面突破なんて選ぶはずがない。なら……)
「正門から堂々と入ってきて警備を突破して突入、との報告です!」
報告が続けられ、堂内に再びざわめきが走った。
「正面から……だと?」
ヨアヒムが低くつぶやき、次いで怒号が飛ぶ。
「礼拝を中断する! 全員、配置につけ! 地下神殿には警戒指示を出せ!」
信者たちが雪崩のように動き出す中、香月は内心で息を吐いた。
(……違う。俺でもシャルロットでもない。本隊の突入の時間はまだだ。別の……第三勢力か?)
別の信者がヨアヒムに駆け寄り、耳打ちする。
「確認が取れました。侵入者は白い外套を羽織り、仮面に顔を隠した魔術師です。まるで道化師のような風貌との報告もありました」
ヨアヒムの目が細められた。
「──まさか、あの、人形師だというのか……? あの神出鬼没のはぐれ魔術師が、ここに現れるとはな」
その言葉に、香月の肩がピクリと揺れた。
(……人形師だと?)
瞬間、胸の奥がざわついた。思考が一瞬止まり、次に走ったのは強烈な違和感だった。
(なぜ、その名がここで出る?)
人形師が、福富町の路地裏であのイヴに似た特徴のある少女を焼き殺したのは神の檻の教団施設から逃亡した失敗作の処分では無かったらしい。
では、何故殺した?
確か、中東で人形師が使った技術を神の檻は神胎を作るのに使っていたらしいという話はあった。だが、それは神の檻が人形師の技術を模倣したに過ぎなかったのだろう。
だと仮定すれば、闇市場での競合の商売相手を直接潰しに来たとかだろうか──それにしたって説明がつかない。
日本中部支部はこの「神の檻」という教団の、人体改造に関する技術の裏には、あの人形師が関与しているのではないかという可能性は考えられていた。
教団と人形師が繋がっている可能性──それが、調査を進める中で浮上していた最大の懸念だった。だが今、その可能性は明確に否定された。
(ヨアヒムの反応……あれは、他者を恐れる色だ。仲間や協力者に向けるものじゃない)
香月は静かに呼吸を整える。
礼拝堂を離れる信者たちに紛れ、彼もまた慎重に歩き出す。
だが、胸中は激しく脈打っていた。
(つまり──人形師は、神の檻の一員ではない。むしろ、奴らから見ても脅威になるということか)
そうであるならば。
今ここに人形師が襲撃しに来ている理由は、彼が神の檻の関係者で無い以上は香月たちの潜入作戦とは無関係らしい。
そして──教団にとってすら、予期せぬ存在のはずだ。
(何が目的だ、人形師……。まさか、あの地下牢か? それとも神胎……?)
思考が加速する。
人形師が独自に動いている。神の檻とは敵対関係にあると考えて良さそうだった。
だとすれば──この混乱の裏で、何かを奪うか、破壊するか、それとも……。
(……いや、待て。むしろ、今がチャンスかもしれない)
香月の目が細まる。
人形師が正面から突入し、教団が対応に追われるというこの事態は、自身の潜入行動を覆い隠す最高の隠れ蓑となる。
しかも、幹部たちは警備と防衛に意識を向けており、内部の監視は手薄になる。
(地下への通路……この混乱の中なら、探れる)
香月はヨアヒムと信者達が出払った礼拝堂で一人立ち上がり歩を速める。
目的は変わらない。神の檻の調査と日本本部の仲間たちを救出すること。
だが──人形師という「予期せぬ侵入者」の登場により、戦況は新たな局面を迎えようとしている。
(この場を利用させてもらう。お前が何を狙っていようと、今は──)
目を伏せ、礼拝堂の扉へと視線を移す。この外に地下神殿の入り口があるらしい。
ヨアヒムの記憶にあった、地下へ通じる扉──その場所の存在が、彼の頭の片隅でぼんやりと灯りをともしていた。