12.潜入開始
午前四時。空が白み始める直前の静寂が、青葉区の外れに広がっていた。
放棄された農地を横切る古い農業用水路に、一艘の小舟が浮かんでいた。
これは、香月が造形魔術で付近に生えていた木から削り出した船体に、シャルロットが施した簡易的な風魔術によって浮力と推進力を与えたものだ。
舟の底に描かれた風圧が循環するよう仕込まれた魔術陣は、添えられた魔石からの魔力を受け取り、水面を掠めるように滑らかに舟を押し出していく。
舟は、ほとんど音を立てることなく、暗い水路トンネルの奥へと静かに進んでいった。
先頭に立つのは香月、後部にはシャルロット。ふたりの影が、薄明の闇の中を慎重に進んでいく。
『こちらクレア。集音魔術による探知開始。進入は順調?』
耳奥で、クレアの伝声が微かに震えるように響く。
「ああ。今のところ、特に異常はない。水面も穏やかだ」
「トンネル内、微弱な魔力干渉を確認。そろそろ結界に近付きますわ」
「了解。シャルロット、侵入口はこの向こうか。例の偽装、頼めるか」
「ええ、任せてくださいまし」
シャルロットは外套の内ポケットから小さく細長い銀筒を取り出し、舟の上で静かに膝をつく。魔力を込めると、銀筒の中から淡い燐光を帯びた薄い霧が漏れ出し、二人の乗る小船を包み込んでいく。
それは、張られた結界に対して真正面から打ち破るのではなく、この舟一つ程度が包まれる程度の小さな偽装結界を、対象の結界を通過する時にだけ展開する偽装用の魔道具だ。結界外殻の認識層を限定的に誤魔化してくれる。
つまり、「侵入する穴を開ける」のではなく、「最初からそこに何も存在していなかった」かのように錯覚させる、極めて繊細な潜行に向いた魔術だ。
「……魔力構造、三層式。認識阻害と障壁魔術が組み合わされてるけど、感知領域は限定的。問題ないですわね」
銀の筒を持って指先を動かすシャルロットの動きは無駄がなく、舟の周囲にほのかに揺らめく幻影のような膜が張られていく。それが結界との干渉領域に触れると、まるで霧の中へと紛れ込むように、舟の存在がわずかに掻き消えた。
「……偽装、完了しましたわ。今のうちに通過を」
結界の中へ沈み込むように通過し舟はやがて、トンネルの終端に差しかかる。
「内部への侵入成功ですわね。それでは中和を開始しますわ」
そう言い、シャルロットが天井を見上げると、そこには古びた鉄製のマンホールがあった。
香月は舟から立ち上がると、壁に設置された梯子を掴んで一気に登る。そうして、蓋を片手で押し上げた。
かすかな金属音が、静寂を破る。
「開いた。敷地内に通じてそうだ」
「こちらは時間がかかりそうです。手筈通り、後で合流しますわ」
「わかった。先行する」
◆
香月が這い上がった先は、石造りの中庭だった。朽ちかけた修道院を思わせる構造で、壁面には古代語の聖句らしき文言が彫られ、蔦に覆われている。
夜明け前の薄闇の中、神殿めいた建物の影が不気味に沈黙している。
『それで、これからどうするの?』
耳奥で、クレアの声が静かに響くのにポツリと小さく言葉を返した。
「まだ夜明け前だ。動いている信者がいればいいが、そう都合良くもいかないだろうな……。まずは変身のために、解析魔術を使える対象を探す」
『今のところ、カヅキの周りには人の気配はないね』
「わかった」
足音を殺して中庭を横切り、石畳に落ちる礼拝堂の影の中へと香月は身を滑り込ませた。石造りの壁の向こう、礼拝堂の奥ではまだ人の気配はない。だが、張り詰めた魔力の糸のようなものが、空気の底を淡く震わせているように見えた。
(──魔力の残滓……いや、これは今も稼働中の結界か?)
香月はしゃがみ込んだまま、窓の縁に手をかけて礼拝堂の内部を覗いた。中は薄暗く、高い天井に吊された古びた燭台だけが、不自然なほど整然と揃っている。誰かの手で清掃されているのだろう。埃一つない床に、かすかに人の足跡が刻まれている。
視線を巡らせると、奥の祭壇の脇──その陰で奥の部屋の扉が開き、そこから誰かが出てくるのが見えた。
香月はすぐさま身を伏せ、窓の影に溶け込む。わずかに顔を出して様子を窺うと、現れたのは白い僧衣を纏った青年だった。年は二十代後半ほど。細身の体躯に、繊細な顔立ち。だがその目元には、長く信仰の道に身を置いてきた者だけが持つ静謐さが滲んでいた。青年は周囲を警戒する様子もなく、祭壇の前に跪いて短く祈りを捧げると、手にした書物をめくり始める。
(──あれでいい。あの程度の距離なら、気づかれずに接近できる)
香月は礼拝堂の壁に沿って、静かに移動を開始した。
口元で魔術の発動の言葉を二つ告げる。石畳の上に響くはずの足音は、クレアから剽窃した音魔術によって完全に遮断されている。そして同時発動で纏った肉体強化魔術が、筋肉の動きすら最小限に抑え、影のように忍び寄る香月の動きをさらに滑らかにする。
香月は静かに礼拝堂の中へ侵入すると壁の柱の陰から柱の陰へと素早く移動し、青年の背後へと回り込む。青年は祈りを終えたのか、書を閉じて立ち上がろうとした瞬間──
その隙を逃さず、香月は一気に間合いを詰めた。
振り下ろされた手刀が、青年の首筋に正確に叩き込まれる。魔術でわずかに強化された一撃は、痛みも声も残さず意識だけを断ち切る。
青年は、崩れるようにその場に倒れた。
「……悪いな」
短く呟いた香月は、すぐに青年の身体に右手を触れた。
「Analysis《解析》」
次の瞬間、香月の掌に淡い光が灯る。
掌に宿る淡光が青年の肉体情報を解析し始めると、香月の視界に次々と詳細な構造データが流れ込んでくる。筋肉の付着角度、骨格の比率、皮膚の柔軟性──それらを高速で読み取りながら、同時に身に着けている僧衣や装飾品の素材構成、織りのパターンまでも把握していく。
(この服……礼拝堂内部での儀式に最適化された魔術繊維か。魔力干渉に耐性がある。意外と実用的だな)
だが、読み取りが背面に差しかかった瞬間──香月の表情がわずかに強張った。
「……これは……」
青年の背中、肩甲骨と脊椎を縫うように、複雑な文様が彫り込まれていた。それは単なる入れ墨ではない。れっきとした『魔術刻印』であり、それは結界の魔術陣だった。
(こいつ……ただの信者じゃない。魔術師……それも、結界魔術に精通したやつだ)
その時だった。
香月の右腕──正確には、あの人形師との戦いでつけられていた、うっすらと浮かんでいた奇妙な紋様が脈打つように青白い光を放った。
「……っ……!?」
刹那、激しい目眩に襲われ、普段とはまるで異なる“何か”が脳内へと流れ込んでくる。
それはただの記憶ではない。まるで異物が意識の奥深くに食い込むように、映像と感情が一気に押し寄せてきた。
視界の端に、次々と現れては消えていく情景──まるで走馬灯のように、見知らぬ光景が脳裏に焼きついていく。
──荘厳な礼拝堂。十字架の前で静かに祈りを捧げる“自分”。
──視界に映るローブ姿の男たち。教義と魔術が交錯する、異様な講義の光景。
──修行場。壇上に立つ白髪と赤い瞳の少女たち──「選ばれし者」と呼ばれた者たち。
──夜ごと行われる異端の儀式。儀式を取り仕切る声が、頭蓋の内側に直接響いてくる。
──「我々の神は、形なきもの……」
──「主の器たる『始祖の肉体』を、いずれ現す者が現れる。彼女たちはその候補だ」
(……な、なんだ……これ……)
香月は額を押さえながら、流れ込む記憶の奔流を必死に遮断しようとした。しかし、その断片的な記憶は明らかに──目の前の青年が実際に見聞きしてきた人生の記録だった。
(これは……俺の解析魔術で記憶を読み取っているのか……? 今まではこんな事は無かった筈だ……)
再び右腕を見下ろすと、紋様はすでに光を失っていた。しかし、右腕の奥深くに、何か別の魔術的構造が埋め込まれている感覚だけがまだ残っていた。
(……まさか、この右腕に刻まれた魔術刻印は……)
思考の奥底で、警鐘が鳴り響く。
(──これは、人形師が仕掛けた罠なのか……?)
香月の魔術に何らかの干渉が行われたことは間違いない。だが、それが強化なのか、暴走を誘う毒なのかはわからない。
解析魔術の根幹にすら影響を及ぼしかねない異質な何かが、確実に腕を通じて侵食している。
副作用──その可能性も、否定できなかった。
けれど、今はそれを冷静に検証している余裕はない。
「……すまない。だが、お前の記憶、使わせてもらう」
香月は目を閉じ、一度深く息を吐いた。
そして──変身魔術の構成式に、先ほど得た肉体情報をイメージとして反映していく。
「Trance《変身》」
香月の姿は、青年と寸分違わぬ僧衣の男へと変わっていった。目元の静謐な表情すらも完璧に再現されている。
「……これで堂々と潜入できるな」
自分の鼓動がゆっくりと、だが確実に異なるリズムへと変わっていくのを感じながら、香月は静かに青年を抱え上げると礼拝堂の奥へと足を踏み出した。