8.蒸気の狭間に消えた幻影⊕
夏の熱気を残しつつも、どこか澄んだ秋の気配が混ざり合う午後。
横浜中華街の石畳は昼の日差しを受けて鈍く熱を放ち、屋台からは焼き小籠包や香辛料の甘くて濃厚な香りが街路に満ちていた。
通りに揺れる赤い提灯の下。
香月は一軒の飲茶店で、窓際の席に座っていた。隣では、シャルロットが小ぶりな蒸籠の蓋を静かに持ち上げる。
「見てくださいな、この湯気。まるで、朝霧のヴェールのよう……」
シャルロットの声は上品で柔らかい。けれど、その視線には狩人のような鋭い光が宿っている。
箸で小籠包を一つすくい、レンゲにそっと移すと、慎重に一口──。
肉汁が弾け、口いっぱいに広がった瞬間、彼女の表情がほころんだ。
「んー……トレビアン。皮の儚さと、肉の旨味の調和……完璧ですわ。これはもう、食の宝石ですわね」
クレアの笑い声が、香月の内耳に響く。
『ま〜た始まった。任務そっちのけでグルメツアーしてるよ、このバカフレンチ』
その言葉に、香月は湯呑みのお茶を口に運びながら、わずかに苦笑した。
店内は落ち着いた木目調で統一され、壁には古い中国画。窓の向こうには、色彩と香りと人々の喧騒が織りなす、生きた中華街が広がっていた。
まるで、街そのものが呼吸しているようにも思える。
香月は何とはなしに、視線を外の屋台に向ける。
そのとき──目がある一点で止まった。
蒸し器の蓋が開く。
白く立ちのぼる湯気の中から、ふっくらとした肉まんが顔を出した。
店主がトングを構え、客の手に渡そうとした──その刹那。
スッ──と、肉まんが、まるで空気に溶けるように、そこから忽然と消えた。
店主の手は空を切り、客は瞬きを忘れたまま口を開く。
「えっ……?」
香月の口から、思わず声がこぼれた。
シャルロットも食べかけの小籠包を止め、身を乗り出す。
「今……見間違いかしら? 誰かが盗った?」
「……いや。あれは──」
香月の視線は、周囲を見回す店主から空っぽになった蒸し器のあたりへ移動しながら様子をじっと見据えていた。
クレアの伝声が二人に発せられる。
『でも、あの距離じゃ手も届かないし、そもそも誰も近づいてなかったよ?』
「魔術だ。しかも、かなり粗削りな」
その場に、かすかな光の揺らぎと、わずかな空気のよじれが残っていた。
まるで空間そのものが捻じ曲げられたかのような、見えない手が肉まんを掻き攫ったような──そんな感覚。
それは確かに空間跳躍魔術に似ていた。だが、学院で教えられるような正統の構成とはかけ離れている。
濁った魔力の波が、空気の底に澱んでいた。
その時だった。
民族衣装のようなボロの白い衣装を身に纏った少女が通りの向こうに立っていた。
細い指先には、さっき消えた肉まんが握られている。
香月と視線がぶつかる。
赤い瞳が、こちらを静かに見つめ返してきた。
その目には、ただの子どもとは思えない、底知れぬ「力」のようなものが宿っていた。
「アイツ……さっきの……!」
香月は迷わなかった。
椅子が軋む音を残して、立ち上がる。
木の床に、重く確かな足音が鳴った。
「クレア、シャルロット──さっきの子供だ! 追うぞ!」
言葉を残し、香月は勢いよく店の扉を開けた。
真夏の熱と秋の風が交差する空気の中へ飛び込むように駆け出していた。
◆
「クソッ、どこ行きやがった……!」
横浜中華街の石畳を蹴って、香月は駆ける。初秋の乾いた風が額を撫でるが、身体は残暑の名残に汗ばんでいた。観光客のざわめき、香辛料の香り、赤い提灯が揺れる屋台の通りを風のようにすり抜ける。
『次の角、左だよ。小さい足音、逃げてる。軽いけど、リズムが乱れてる。訓練された動きじゃないよ』
クレアの伝声が耳の奥に響いた。音魔術による索敵だ。
香月は人波の切れ目を見極めていた。動きに迷いはない。
排水溝の縁をステップ代わりに踏み込み、反動で体を引き上げる。手すりを掴んで屋台の看板を越え、鉄のポールを蹴って軒先へ跳び上がると空中で身体をひねり、屋根の上に着地する。
──こんな街中で魔術は派手に使えない。目撃されれば、支部の記憶処理班が動く羽目になる。ここは、体ひとつで走りきるしかない。
波打つトタンの屋根。滑る瓦の上をすばやく渡りながら、狭い路地の上を斜めに横切る。洗濯物のロープを飛び越え、突き出たエアコンの室外機を着地に使い、また跳ぶ。香月の動きは、街の形に溶けるように滑らかだった。
『路地を抜けたら、視界が開けるよ。そっちからなら追えるはず──行って』
香月は無言で頷き、木造建物の裏手に出た瞬間──魔術を発動させる。
「── Synergy Enhance《筋力・神経反応融合強化》ッ!」
背中の自在術式が形を変え、魔術陣を浮かび上がらせる。そうして、それが熱を帯びる。
全身に魔力が流れ込む感覚。筋肉が軋む。だが、脳が追いついてくる。反応速度が、人間の限界を超えていく。足裏が地を掴むたび、踏み込みが鋼のように固くなる。
跳んだ。細い塀を越え、鉄階段の欄干をスライドしながら降下し、音もなく着地する。
『三時の方向! そっちに近付いてくる! 距離は二十メートル以内──』
香月の視線が鋭くなる。フェンスの先──細い影が塀の隙間を抜けようとしていた。
「見えた……!」
香月は即座に地を蹴った。壁面を斜めに走り上がり、突き出た換気扇の上に足をかけて加速する。足場にした壁面のクーラー室外機が不安定に揺れたが、構わず踏み込んで高いフェンスを飛び越えた。そうして身をひねり、バランスを取る。
一気に距離を詰め、少女の背に手を伸ばす。すぐ目前、少女の背へ手が届きかけた。
「止まれ!」
その刹那、空気が震えた。
少女の足元に淡い光──空間が、きしむように歪み始める。
「っ……空間跳躍か!」
香月は反応した。その空間跳躍の発動タイミングは、あと一瞬だ。だが、間に合う。
指先が届くその瞬間、少女の姿は湯気のように空へと消えた。
香月の手は虚空を掴み、バランスを崩して地面に膝をつく。息が荒い。魔力の熱が背中にまだ残っていた。
「逃げられたか……」
その場に立ち尽くす香月の目に、ふと、何かが映った。
地面に、白い紙のように柔らかくなった包み紙が落ちている。その中心には──
肉まんがひとつ、ぽつんと置かれていた。
蒸気はまだ、わずかに温かい。
まるで、「自分はここにいた」とでも言いたげに。
「……どういうことですの?」
シャルロットが遅れて到着し、肉まんに目を留める。
「まさか……わざとか? いや、まさか」
香月は肉まんを見下ろす。転移の痕跡はわずかに残っているが、構成が荒く、異様に不安定だった。正式な転移術とは似て非なるもの。
『追えなかった……。この周辺にはもう居ないかもしれない。空間のノイズみたいな波紋が混じってる。これ、普通の空間跳躍魔術じゃなさそうだよ……』
二人に伝わるよう伝声魔術で発しているクレアの声も不安げだった。
香月は肉まんにそっと手を伸ばし、包みごと拾い上げる。
湯気が目に沁みる。
「これが、痕跡……かな」
少女の正体も、目的も、わからないままだった。