7. 彩煙の街、赤瞳の邂逅⊕
名古屋の湿気を含んだ残暑とは打って変わり、横浜の空気はどこか乾いていて心地よかった。柔らかな陽光が駅のホームを包み、秋の訪れを感じさせていた。
新幹線のドアが開くと、香月はスーツケースを引きながら静かにホームへ降り立った。秋晴れの空の下、車窓から見えた街並みはどこか懐かしさを誘う一方で、これから始まる物々しい任務の緊張感をまとっている。
そのすぐ後ろで、クレアがヘッドホンを外して首にかけると小さく伸びをした。
『……やっと着いた。で、これからどうするの? 張り込み……とか?』
「いや、まずは周囲の偵察と聞き込みだ。教団の本拠地の位置は割れてる。どう潜入するかは、現地を見てから判断したい」
香月が答えると、もう一人の同行者──シャルロットが陽光にきらめく亜麻色の髪を揺らしながら近づいてきた。足取りは軽やかで、表情は旅人のように楽しげだった。
「じゃあまずは腹ごしらえでもしましょう。中華街、すぐ近くでしたわよね?」
『はぁ? いきなりご飯かよ』
クレアが呆れたようにため息をつくと、シャルロットは胸を張り、まるで当然のように言った。
「当然ですわ。戦の前には、美味しい食事と甘いスイーツが不可欠。わたくしたちはまさに命を削るような仕事をしているのですもの、栄養補給は重要よ」
命を削る。その意味合いはまさに香月達が魔術を使う者達だからこその発言だ。
『……ただのグルメ旅行にしたいだけじゃないのか? ……でもまあ、その提案、バカフレンチのくせに悪くないな』
クレアが皮肉混じりに笑う。香月はそんな二人のやり取りを横目に見つつ、ふっと口元を緩めた。
(確かに……魔術を使えば、それだけ血を消耗するしな。肉でも食べておかないとだな)
そう考えながら、お腹をさする。
だが、その思考の底には、あの断片的な記憶がこびりついていた。
──古代魔術師の記憶。
その脳裏に垣間見えた記憶には、他の分魂体が神の檻の中枢メンバーの中に居るという事だった。
カルト教団『神の檻』。彼らは『神胎』と呼ばれる存在を作り出そうとしているという。ジェイムズが派遣しどうにか生き延びた先遣隊の報告では、イヴを狙っている兆候はなさそうだったが──
(古代魔術師の分魂体は、それぞれ独立して動いているようだ。記憶も、情報も共有されていない……。なら、あの記憶の断片──神胎という言葉の指す物が何かってのも、まだ謎のままだ)
香月は胸中の警戒心を押し殺しながら、階段を下りていく二人の後を追う。目的地は中華街。横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り換える為に移動する。しかし、その道中すら、気を抜くわけにはいかない。
『ねぇ、香月。神胎って……やっぱり、イヴさんと関係あるのかな?』
クレアが並んで歩きながら伝声で問いかけてくる。その声には、任務の重みをしっかりと受け止めている気配があった。
「ああ……だが、今のところ直接的な関係は見えていない。先遣隊が接触した時点では、イヴの存在には気づいていなかったらしい。むしろ、別の対象を『神胎』としてしている可能性の方が高そうだ」
『別の対象……生贄とか……?』
クレアの声が僅かに震える。その横で、シャルロットがスマホを操作しながら気軽に振り返った。
「そのあたり、わたくしもジェイムズ様から聞いてますわ。神胎とされる対象は選ばれた者で、どうやら複数いるみたいですわ。もしかしたら、神を降ろすためには複数の器が必要という教義なのかもしれませんわね」
「ふざけた話だな……人間の肉体を神の器にするなんて」
「『神の檻』がどんな構造の教団なのかもまだ不明な部分もありますし、目的も全貌が見えていませんもの。だからこそ、まずは信者への接触が最優先ですわ」
香月が頷こうとしたとき、シャルロットがスマホを掲げて声を上げた。
「さあ、まずは中華街へ行きましょう?」
◆
「はい、到着! この角を曲がれば中華街よ。ああ、お腹ぺこぺこ……!」
「お前な……さっき自分で『信者との接触が最優先』って言ったばっかりだろうが」
香月が呆れたように言うと、シャルロットは無邪気に笑って返す。
「もちろん。任務も大事ですけど、現地の味を知るのも情報収集の一環ですわ。食文化って、時に宗教や歴史の影を映し出すものなんですもの」
「……こじ付けだな。小籠包が食べたいが本音だろ」
「あら、カヅキ。わたくしが食べちゃいたいのは、貴方が一番ですけれど? ね? 愛しい人?」
香月とクレアは同時に肩をすくめ、言葉を失った。
昼時の中華街は、観光客の熱気と香辛料の香りで満ちていた。人の波、賑やかな声、異国情緒溢れる看板の数々──だがその喧騒のどこかに、『神の檻』の関係者が紛れ込んでいるかもしれない。
(……この中に、奴らの関係者が紛れている可能性はある)
香月の視線がふと一人の少女に引き寄せられた。
雪のように白い髪。雪花石膏を思わせる肌。そして、赤い瞳。
(えっ!? イヴ──!?)
その少女は香月の視線に気づいたのか、一瞬こちらを見返した。
──違う。
年齢は十五歳あたりだろうか、イヴよりもだいぶ幼く見える。民族衣装のような──とはいえだいぶ傷んだ白い長布の衣装を纏っているその姿は浮浪者のようにも見える。確かに白髪に赤い瞳、イヴに酷似した容貌だったが、薄汚れているし何より表情が違う。冷たい仮面をかぶったような、無機質な顔。まるで人形のように感情を欠いたまなざしが、香月の脳裏に引っかかる。
(……似ているが、別人だ。だが、あれは……)
少女はまっすぐに人混みをすり抜けて、通りの向こうに吸い込まれるように入っていった。
「……カヅキ?」
シャルロットの呼びかけに我に返る。彼女は小籠包の看板を見ながらも、香月の様子をちらりと見やった。
「何か気になることでもありましたの?」
「いや……。似た顔を見ただけだ」
答えながらも、胸の奥に生まれた違和感は残ったままだった。
(あの瞳……まるで、感情を持たないような……。完成された神胎……? いや、まさか……神の檻がそんな大事な物を野放しにする筈が無いよな……)
そのとき、隣を歩いていたクレアが声を低くする。
『ボクも、さっきの子見たよ……イヴさんにちょっと似てた。普通の人間じゃない気がする。それに……魔力の揺らぎが、何か変だった』
「……気づいたか。やっぱり何かありそうだな」
香月は目を細めて通りの向こうの方を見つめる。だが、すでに人の波に紛れて、少女の姿は見えなくなっていた。
『ねえ、カヅキ。追う?』
クレアの問いに、香月は一瞬迷った。しかし、焦る必要はないと自分に言い聞かせる。
「いや、下手に動くとこっちの存在が割れる可能性がある。まだ様子を見たい。神奈川支部の監視網を使うなりすれば、ある程度何かはわかるだろ」
「ええ。一応、神奈川支部に連絡してみますわ。協会の構成員が数名、ここに常駐しているはずですし」
シャルロットがスマホを操作しながら、さらりと言う。その表情にはまだ余裕があり、場の空気を和らげるように笑みを浮かべた。
「でもまあ、せっかく来たのですもの。まずは一口くらい、美味しいものをいただいても罰は当たりませんわ」
「お前なあ……」
呆れながらも、香月は心のどこかで、その平静さに救われていた。状況は不穏だ。だが、焦るわけにはいかない。魔術協会奇跡管理部の構成員として、この任務に向かうには冷静さが必要だ。
(神胎……神を降りさせる為の器──まさかもう完成しているのか?)
人混みにまぎれた一瞬の邂逅。それは偶然ではなく、警告だったのだろうか。
香月はシャルロットとクレアの後を追いながら、もう一度、あの赤い瞳の残像を思い浮かべた。
(……この任務、ただの潜入捜査じゃ終わりそうにねえな)
胸の奥に、冷たい予感がじわじわと広がっていた。