5.ぽよぽよと雷閃の間で⊕
陽子の魔術工房、その一角。
魔術陣で強化された床の上に、仮設とは思えないほど厳重な練習部屋が組まれている。空間全体には雷属性の結界が張られ、魔力の暴発すら封じ込めるよう設計されていた。
「じゃ、私はちょ〜っと店に戻るから。かわいい女の子と二人きりだからって、変な気を起こすんじゃないよ~♡」
ゴシックドレス姿の陽子がウインクがてら、冗談めかしてそう言い残すと、指を軽く弾いた。
彼女の周囲の空間がきらめき、陽子の姿がすうっと消えていく。
「……誰が起こすかよ。誰が」
香月は肩をすくめながらも、どこか落ち着かない様子で目の前に視線を戻す。
そこにいるのは、ちょこだった。
いつもより少しだけ真面目な表情で、しかし手にはふざけたフォントのカードを握りしめている。
そして──特訓が、始まった。
魔術工房の奥、雷属性の魔力が微かにうねる訓練空間。その中央で、香月は顔をしかめた。
「……マジでこれやらなきゃダメなのか?」
「うん! 詠唱魔術って、言葉に魔力を乗せる感覚を掴むのが大事なんだゾ☆ 最初は感情に寄せた方がわかりやすいし、恥ずかしいと逆に集中力上がるんだよ? たぶん!」
多分って何だよ。多分って。
ちょこが悪びれもせず差し出してきた詠唱カードには、書いてあった。
《きらきらスパークるん♪ 恋の雷おとしっ☆ ストームレイジ〜!》
香月は頭を抱えた。「恋の雷おとし」ってどんなワードセンスだよ。
「せーの、叫べっ!」
「っ……き、きらきらスパークるん……恋の雷おとしっ☆ ……ストームレイジ!!」
ピチ……ッ!
空気が少し湿っただけ。稲妻どころか静電気レベルだ。むしろ髪が逆立った程度だった。だが、多少発動はできている。
「惜しい惜しい! じゃあ次!」
手にした詠唱カードを次ページへ捲る。すると出てきた詠唱の呪文は今度はこれだった。
《ぽよぽよハートでドッカンちゅー☆ 雷のち晴れの、ストームレイジ〜!》
相変わらずのワードセンスに香月は嘆きたくなった。萌え萌えビームの悪夢が再来しているようだった。
「いやもう『ぽよぽよ』とか言いたくないんだが……」
それでも香月は叫ぶ。やるしかないのだ。
「ぽよぽよハートで……ドッカンちゅー……ストームレイジ!!」
パシュン!
掌から小さな火花が一つ。跳ねるように弾けた。
「よーし、次は同じ言葉でもっと気合いを入れて叫んでみるんだゾ!」
「わ、わかった……」
こうなったらヤケクソだ。萌え萌えビームの時に既に恥はかなぐり捨てている。
「ぽよぽよハートでドッカンチュー! ストームレイジ!!」
もうヤケクソだ。ヤケクソの極致だ。だが──
バチューン!!
「お、おおっ? ちょっと威力上がったかも!?」
「え?」
香月は目を瞬く。確かに、掌から少しだけ迸った火花の輝きが先ほどより強かった。気合の乗った分だけ威力が本当に上がっている。
萌え萌えビームの特訓時に気持ちを乗せろとちょこが言ってたあながち間違いではなかったのだ。
「……逆にすごいな。小学校の理科実験でもやってる気分だ……」
「うんうん、でも魔力はちゃんと出てるゾ〜! 心が雷属性になりきれてないだけ!」
笑顔でメモを取るちょこに、香月は額を押さえたまま息をつく。
(なるほどな。魔力は出る。発動も一応する。けど、出力がまるで安定しない。俺の言葉じゃないからだ……)
深呼吸。
香月は今まで叫ばされた『恥ずかしい言葉』の共通点を頭の中で整理し始めた。
(スパーク、雷、恋、晴れ……くだらない言葉でも、そこに込められた『情動』だけは魔力の媒体になってた。なら──)
彼はゆっくりと構え直した。拳を下げ、深く息を吸い込みながら目を閉じる。胸の内を静かに探るように、自身の魔力の流れを見つめていく。
空気のざわめきが微かに変わった。魔術陣の中心で、香月の気配が静かに膨らんでいく。
「風は……俺の怒りだ」
低く、呟くような声。それはただの言葉ではない。胸の奥底に沈んだ記憶と、今も疼く後悔に触れながら、彼はひとつひとつ、想いをすくい上げるように紡いでいく。そして世界に語りかける。
他の世界線で守れなかった人々。届かなかった叫び。時の周回に残された無力感と憤りや後悔。そして、未来を切り開くという強い意志。それらすべてを、ひとつの意味に束ねて──
「雷は、ためらいを断ち切る刃だ──」
その瞬間、空気が震えた。肌に感じる風が、はっきりと敵意を帯び始める。彼の身体を包むように、淡く青白い光が立ちのぼった。
ただ魔力を放つのではない。それに言葉という形を与え、意味と意志を流し込む。
「我が魂、嵐となりて──怒りを呼び覚ませ」
掌に、まるで呼応するように稲妻が集まり始めた。空に向かって放たれたそれは、雷鳴すら伴わず、ただ静かに、確かに殺気を孕んで光を放つ。
それを握り込んで、拳を形取る。
そして──
「ぶち抜け、Storm Rage《雷閃嵐砲》!!」
拳を、振り抜いた。
雷が一直線に地を貫き、爆ぜた風が空間を揺らした。彼の言葉は、ただの呪文ではなかった。想いを宿した咆哮だった。
地面は割れていないものの、濃密な魔力の痕跡が、焼きつくようにその場に刻まれている。
一瞬の静寂が、場を支配する。
ちょこは息を呑み、目を見開いたまま、ゆっくりと両手を打ち鳴らした。
「……やったね、カヅキたん」
香月は肩で息をしながらも、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……もう、ぽよぽよとかは言わねぇからな」
あの馬鹿みたいな詠唱すら、無駄じゃなかった。そう思えた。
◆
「おや、その様子だと完成できたのかな? 思ったより早かったようだね。この工房の時間で半日くらいかな。どうだった? 手応えは」
魔術工房の空間が再びきらめき、陽子が現れた。相変わらず優雅なゴシックドレスを纏い、口元には微笑を浮かべているが、その紅い瞳は訓練空間の焦げ跡を正確に見つめていた。
香月は息を整えながら、かすかに笑みを返した。
「……何度も試し撃ちさせて貰った。詠唱魔術ってのが、ただの言葉遊びじゃないってことはわかったよ」
「ふふ、それはよかった」
陽子はドレスの裾を持ち上げて足音もなく近づくと、香月の立っていた場所の床に膝を折り、黒く焦げた魔術陣の痕を指先でなぞった。
「この痕跡、雷属性としてはかなり純度が高いね。表層に揺らぎが少ないし、外部から干渉を受けた形跡もない。詠唱も自己生成……君、自前で組んだの?」
「いや、これはまだ完成形とは言えない。感情に任せて言葉をぶつけただけだ。多分、まだ即興ってレベルだよ」
「即興でこれ……なるほどね。やっぱり君、記憶だけじゃなくて感覚も持ち帰ってきたんじゃないの?」
「……何の話だ?」
陽子はくすっと笑って立ち上がり、フリルの袖を軽く払った。
「ううん、何でもない。でも、その雷は君だけのものよ。誰にも真似できない、『大神香月の詠唱』。その第一歩としては、上出来すぎるくらいじゃない?」
「……そっか。ぽよぽよのおかげかもな」
ぼそっと呟いた香月に、後ろから近づいたちょこが満面の笑みを浮かべてサムズアップ。
「ねー! 言ったでしょ? 恥ずかしい言葉って、魔力引き出すんだってば!」
「今すぐ忘れてくれ……」
香月は顔を手で覆い、ため息をつく。だがその顔には、確かな達成感があった。
陽子はその様子を見つめながら、ふと真面目な声で言った。
「……さて、これで君が世界を動かせる言葉の手がかりは見つかった。後は魔術陣で扱えるように落とし込むだけだよ。ただし──」
「ただし?」
陽子は静かに立ち上がり、その紅い瞳で香月を見つめた。空気が少しだけ張り詰める。
「その魔術は時間制限のある物だとは思っておいて。現代の汎用術式とは違って、これは今の君自身の情動に依存する魔術になる。言い換えれば、この魔術は君にしか使えなくて、その感情が鈍れば──心持ちが変わってしまえば発動もしなくなる」
陽子の言葉に、香月の眉がわずかに動いた。
「……つまり、今の俺じゃないと使えない魔術ってことか」
「そう。厳密に言えば今の君の想いにしか反応しない魔術になるんだ。情動に強く依存する魔術は、瞬間の力としては極めて優秀だけど──長期運用には向かない。いわば『刹那の魔術』ってところだね」
陽子は肩をすくめながらも、その口調に揺るぎない実感を込めていた。幾度となく時間を巡ってきた者だけが知る、魔術の限界と可能性を。
香月は、黙って手を開き、閉じてみせた。あのとき拳に宿った雷の余韻は、すでに消えている。
「でも、それでもいいさ。今の俺にしかできないことがあるっていうのなら、それを使い切るだけだ。それに」
「それに?」
「使えなくなったなら、その時の俺に合った魔術を、また一から作り直せばいいだけだ」
「……ふふっ、言うようになったね。すっかり魔術師の顔になってきたじゃない、少年」
陽子が微笑みを浮かべると、後ろからちょこが勢いよく両手を突き上げた。
「やったー! カヅキたんの詠唱デビュー、大成功〜っ! ウェーイ☆」
「おい、デビューって言い方やめろ……」
香月が苦笑いする。そんな彼を見て、陽子はくすっと笑って目を細めた。
「そうだね。それで、次のステップに進んでもらう前に──」
彼女は静かに歩み寄ると、香月の顔を覗き込んだ。その紅い瞳には、一瞬だけ過去の影がよぎった。
「君にひとつ提案があるんだ」
「提案?」
香月は不思議そうな顔をした。ちょこも首を傾げる。
陽子は頷きながら、静かに言葉を紡いだ。
「君に施したReinrevert《輪廻遡行》、過去に戻ってくる座標を変えてみるのはどうかっていう提案さ。今回の周回でね、もしも状況を打破できた時の為に座標の位置を決められるように改良してきたんだ」
「……なんだって?」
「要はゲームで例えると上書きセーブみたいなものかな。具体的には……」
陽子は続ける。「今は座標が麗奈ちゃんが君達を狙ったり、レナード・オルランドがイヴちゃんを誘拐しようとする直前になっている。今君が死ねば、そこからのやり直しになるが、座標を今に設定し直せばここに戻って来れる。ただし、元には戻せない」
「……」
香月は、言葉を失って陽子の顔を見つめた。その紅い瞳には、冗談や軽口の影はない。彼女は本気のようだ。
「……確かに、あの事件をどうにか解決してイヴが古代魔術師に肉体を奪われる未来を回避した。だが──」
「ここから先は私も未経験なんだ。だから、君の意思決定に任せたい」
「……考えさせてくれ」
しばらく沈黙の後、香月はぽつりとそう呟いた。陽子は無理に続きを促すことなく、静かに頷く。
「もちろん。これは命運を左右する選択になる。慎重になるのは当然だよ」
ちょこも、さすがに騒がしさを引っ込め、真剣な面持ちで香月を見つめていた。訓練空間の焦げ跡すら、今は静寂の一部に感じられる。
「……戻る座標『今』に変えるってことは、ここが新しい起点になる。俺がこの先で死んでも、ここに戻ってやり直せるようになる……」
香月は自分の言葉をかみしめるようにゆっくりと口にする。
「でも……それは同時に、もう二度とあの時点には戻れないってことでもあるんだろ? 違うか?」
「ううん、合ってるよ」
陽子の微笑みは、どこか寂しげだった。
「……私自身は、起点を変えたことはないし、今後も変えるつもりはないよ。何度死んでもこの二十年をまたやり直すつもりだからね。それに今の私が立っているこの時間軸に、君を巻き込んでしまった事にも責任を持ちたいから」
彼女は視線を落とし、黒く焦げた魔術陣の痕跡を見つめた。
「この世界線で何が起ころうと、何度でも立ち向かうつもりでいる。そして、どの世界線の君でもバックアップするつもり。それが君を付き合わせてしまった私の、せめてもの矜持だからね」
香月は目を細め、静かに頷いた。
陽子の言葉は、淡々とした響きの中に強い覚悟が宿っていた。
香月は再び焦げ跡の中心に立ち、目を閉じる。
今、この瞬間を起点にするということは──この時点を『再出発点』として、もう退路を断つという事だ。あの時に致命的な見落としを意図せずしていたとしてももう戻す事はできない。
「……慎重に考えるなら、即答で変えないって言ってたかもしれないな」
ぽつりと呟く声が、訓練空間の静けさに吸い込まれていく。
「前回はたまたま少ない周回でイヴが肉体を奪われる未来を回避できたが、これ以降だって望んだ結果を出す為に何度も同じ未来を繰り返すかわからない。しかもやり直したとしてもまた上手く行く保証もない」
香月は自嘲気味に笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。
目を開ける。視線の先には、ちょこの笑顔が、陽子の微笑が、今この瞬間に確かに存在している。
「……でも今はきっと違う」
右手をゆっくりと胸元に置き、雷の残滓を確かめるように深く息を吸う。
「俺は、俺達が掴み取ったこの世界を、信じてみたいと思ってる。失いたくないって思った瞬間があるなら、そこを起点にするのが一番自然だろ?」
陽子は黙って聞いていたが、その頬にかすかに安堵の色が差した。
香月は彼女をまっすぐに見据えて、はっきりと口にする。
「座標を……『今』に変えてくれ」
静寂の中で、その言葉は魔術工房の空間全体に確かな選択として響いた。
陽子は小さく微笑んで、静かに呟いた。
「──了解。これより、Reinrevert《輪廻遡行》の座標を再設定する。起点は……この場所、この時間だ」