3.古代魔術⊕
満月亭での緊迫した会議が終わり、香月は重たい足取りで地下鉄の出入り口の階段を上っていた。
魔術協会日本中部支部の拠点である雑居ビルからは電車で二駅ほど、大須商店街の片隅。
一見すると、どこにでもあるようなメイドカフェの入り口のドアをくぐる。
「──お帰りなさいませ、旦那様♪」
元気な声が飛び交い、黒を基調としたメイド服にフリルのエプロンを重ねたキャストたちが笑顔で頭を下げる。
定番の挨拶だが、香月は出迎えられるたび、どうにも慣れない……と苦笑する。
頭をかきながら、用件を伝えた。
「……えーと、大神便利屋事務所です。今日は陽子さんに用事があってここに来ました」
キャストの一人が「あっ、奥ですね」と笑顔で頷き、厨房の奥へ声をかける。
香月は軽く会釈しながら、「STAFF ONLY」のドアをノックした。
カチャリ、と鍵が外れる音のあと、ドアがゆっくりと開く。
「珍しいじゃない、少年。営業時間中に来るなんて」
現れたのは、グレーのパンツスーツを身に纏ったまま、どこか場違いなほど冷静な表情をした女性──陽子の世を忍ぶ仮の姿に変身した姿だった。
その眼差しには、常に何かを見透かすような鋭さが宿っている。
「……少し、相談があって」
「はいはい、どうぞご案内」
陽子に促され、香月は奥へと歩を進める。そこには、いつものように従業員ロッカーが整然と並んでいた。
陽子が指を鳴らし、合言葉を口にする──次の瞬間、空間がねじれ、魔術工房への門が開かれる。
視界が一瞬で切り替わり、景色はまるで舞台転換のように一変した。
その先に広がるのは、何度訪れても異世界のように感じられる空間──陽子の魔術工房だ。
天井から吊るされた触媒の瓶、部屋の各所に描かれた魔術陣、壁一面に並ぶ魔導書。漂う香の匂いと微かに感じる魔力の波動が、この場所が外界とは完全に切り離された領域であることを静かに告げている。
陽子は変身魔術を解き、十八歳の頃とほとんど変わらないゴシックドレス姿へと戻った。
「さ〜て、何があったのか聞かせてもらおうかな?」
陽子がティーテーブルの椅子に腰かけながら問いかける。香月は黙ってポケットから小さなメモ帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これ……前回の戦いで、俺の分魂が戻ってきた時、あの古代魔術師の記憶の一部が、断片的に流れ込んできたのは話したよな?」
メモには、乱雑に走り書きされた古めかしい呪文と魔術陣の一部と思われる図形が記されている。
「ははあ、なるほど?」
それを覗き込んで陽子が目を細めた。手元のメモを指先で軽く弾きながら、興味深そうに呟く。
「古代魔術師の詠唱魔術を、第四世代魔術の魔術刻印に落とし込もうとしてるわけか……。でもこれは、現代の汎用術式じゃ発動すらできないね。というより、術式に使われてる言葉選びそのものが異質。文法が合ってない」
香月は黙って頷いた。
「自在術式で発動できないか試してた。でも、魔術陣にあの詠唱を組み込んでも反応なし。言葉を少しずつ変えてもまったくダメだった」
「詠唱そのものも試してみた?」
陽子の問いに、香月はわずかに顔をしかめて頷いた。
「ああ、古代魔術師の言葉をそのまま口にして、魔力を巡らせながら唱えてみたけど……反応はなかった。ただ、詠唱の終盤で一瞬、視界が歪んだ気がした。空間が引きずられるような感覚だった」
「……危険な兆候だよ。それ以上続けてたら、大変なことになってたかもね」
陽子は腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「そのままの文言じゃ、私でも使えないかも。魔力だけで発動するタイプじゃない可能性がある。詠唱という行為自体が、超自然現象を作用させる鍵になってると考えてもいい」
「……精神構造ってことか?」
「心の在り方だよ。あの時代の魔術師が何を信じ、世界をどう認識していたか──その前提が違えば、詠唱の意味も成立しない」
「つまり、俺があの古代魔術師に近い思考や価値観を持たないと、魔術が成立しないってことか」
「恐らくね」
陽子は椅子から立ち上がり、書棚のひとつに手を伸ばした。そこには古びた羊皮紙に包まれた文献が幾重にも積まれている。
「詠唱魔術の再現、それも古代系となれば、理論だけじゃ絶対に届かない。君はその欠片を持ち帰っただけでも偉い。でも、そのまま使いこなすには──あの時代の意識にもっと近づく必要がある」
陽子は書棚から一冊の分厚い本を引き抜き、机の上にバサリと置いた。表紙には見慣れぬ言語で刻まれたタイトルと、うっすらと魔力が滲む封印の痕跡。
「……何だこれ?」
「第一世代魔術しかなかった時代の、儀式記録だよ。夢のある発想が多くてね、私も時々眺めるんだ」
「羊皮紙じゃないんだな?」
「これは写しだよ。本物は協会の極秘保管庫にある。けど──ここには彼らが何を信じ、何を恐れ、どう魔術を紡いでいたかの痕跡がある」
陽子はそれを香月の方に押しやると、にやりと笑った。
「ただし、これを読み解いたからって再現できるとは限らない。『時代』が違うからね。──でも、君にとって鍵になる人物がいる」
「鍵……?」
香月が眉をひそめると、陽子はふっと微笑を深めた。その表情には、どこか愉しげな謎めいた色が混じっている。
「ふふ、ちょうどいいよ、少年。あの子なら──きっと、君の突破口になる」
そう言って、陽子はまっすぐ香月を見据える。
「近いうちにセッティングしてあげる。準備しておいて」
そう言い残して、陽子はくるりと背を向け、工房の奥へと歩き出す。
香月は古文書を見つめながら、胸の奥に湧き上がる奇妙な予感を感じていた。
そして──奇妙な予感は、シリアスな方向性ではない形で的中した。