1.再会と修羅場はセットでやってくる⊕
中部国際空港セントレア、その到着ロビー。
冷房の効いた広々とした空間には、夏の名残を感じさせる湿気が薄く漂い、そこへ秋の乾いた空気が忍び込んでいるようでもあった。
香月は手にしたプラカード──『満月亭』と書かれた、どう見ても場違いなその看板を掲げながら、沈んだ表情で立っていた。
場違いなのは看板だけではない。自分たちの存在そのものが、この場所に浮いている気がしてならなかった。
隣にいるクレアも、同様に鋭い目つきで人波を睨みつけている。じりじりとした苛立ちが彼女の足元から空気ににじみ出ていた。
『……来ないね』
吐き出すようなクレアの一言。
彼女の伝声には露骨な苛立ちと、ほんのわずかな疲れが混じっていた。
二人は、魔術協会日本本部から派遣される構成員を迎えに来ていた。だが、到着予定時刻を過ぎても、それらしき人物は一向に現れない。
「まあ……日本本部の仕事だとは言ってもな。それにしても何もかも適当過ぎだよなあ……」
香月は肩をすくめる。
本来なら、日本本部はここで合流する予定の構成員の顔写真くらいは寄越してくるべきだった。だが、何故か「事情により詳細非公開」となっている。
ジェイムズからそれを伝えられた時は思わず「何だそりゃ……」とぼやいてしまったものだ。
おかげで二人は、空港ロビーで宙ぶらりんな時間を過ごしていた。
『ボクたち、これじゃただの看板持ちだよね……。それともプラカード芸人とか……本当に来るのかな……』
クレアがぼそりと皮肉を呟いたその瞬間──
人混みを割るように、勢いよくひときわ目を引く女性が現れた。
ふわりと宙を舞う、亜麻色の巻き髪。
季節の変わり目とは思えぬほど明るい日差しが、その髪に柔らかな光を落とす。その堂々たるプロポーションと華やかなオーラが、ロビーの空気を一変させた。
「カヅキですわねぇぇぇっ!!」
甲高く、しかし妙に上品な発音で叫ぶ声。聞き覚えがある。
真っ赤なトレンチコートを翻しながら、シャルロットが全速力で駆け寄ってくる。淡い亜麻色のウェーブがかったロングヘアが空気をはらみ、青い瞳が嬉しそうに輝いていた。赤いベレー帽が傾きながらも落ちないのは、彼女らしい奔放さの象徴かもしれない。
走りながら大きく手を広げたかと思うと、そのまま彼に抱きついてきた。
「えっ……!? まさか……シャルロットか!? うわっ!!」
咄嗟に身を引こうとする香月だったが、遅い。
香月より一回り小さい身体とは思えない、絶妙な重心操作と身体の絡め方。
シャルロットは、まるで格闘術の達人のように香月の自由を奪い取った。
思わず蘇ってくる過去の記憶に内心こう思った。
(こ、このテクニック……! ま、またこれかぁぁぁぁ!!)
それは悲鳴のような気持ちだった。
──魔術学院時代、格闘術が主武器だった自分ですら、彼女の「身体さばき」には何度も煮え湯を飲まされた。
格闘術の授業で、軒並み対戦相手が居ないレベルだった彼女は香月を指名して実戦訓練と相成った。だが、その時は彼女の巧みな技術により押さえ込まれ敗北を喫した。しかも、身体をしっかりと密着させて耳元で愛を囁かれるというある意味舐めプにも近いおまけも付いてだ。
力ではない、巧みな体重の預け方とバランス取り。
まるで柔術の達人に締め落とされるかのように、昔と同じように香月は動きを封じられた。ちなみに、グラマラスな体型も魔術学院時代と同じくそのままだ。
「ああ……カヅキ、お久しぶり……! 会いたかったわ愛おしい人……!」
香月の胸元に顔を埋めながら、うっとりとした声を漏らすシャルロット。
甘く上品なフレグランスの香りが鼻をくすぐる。そして、思い切り押し付けられる柔らかな感触に、香月の思考は真っ白になった。
「なっ……なにしてるんだお前はっ!」
香月は顔を真っ赤にしながら、必死にもがく。
だが、シャルロットの見事な密着テクに、抵抗は無意味だった。
(や、やべぇ……これ、傍から見たら完全にアウトじゃねえか……!)
案の定、周囲の視線が痛い。
空港客たちは好奇と困惑入り混じった目で二人を眺め、スマホを構え始める者まで現れた。
「あの子、逆ナンされた……? 感動の再会……? すごく情熱的……」
「いや、顔引きつってない? 大丈夫か!?」
「これ、通報案件なのか……?」
ざわめくロビー。
香月は精神的に半泣きだった。
そんな中、クレアの眉間にくっきりと怒りの皺が刻まれた。
「……てめぇ……」
彼女にしては珍しく、口で直接低く唸ったかと思うと、次の瞬間。
『このフレンチの女狐がぁぁぁああああああああっ!!!』
大音量の伝声魔術が発せられる。耳をつんざく程だ。
そう、何かにつけては香月にちょっかいを出してきていたこのシャルロット、クレアとは魔術学院での同級生で犬猿の仲だ。
シャルロットは何かと香月に迫ってきており、学生時代には寮の部屋に引きずり込まれかけたことさえある。
そんな経緯でクレアは彼女の事を毛嫌いしているのだ。
プラカードをぶん投げ、怒気を全身に纏ってシャルロットに突進する。
空気がびりびりと震える。
香月は反射的に身をよじったが、シャルロットにがっちりと抱きすくめられており、逃げられない。
(や、やべぇぇぇぇぇっ!!! クレアが……キレた!!?)
突撃してくるクレアの姿がスローモーションに見えた。
その顔は真っ赤に燃え上がり、今にも殺意の波動に目覚めそうな勢いだ。
しかしシャルロットは、微塵も動じない。
「あら、クレア。そんなに興奮して……ふふ。可愛らしいですわ」
にっこりと笑う。そしてさらに香月に身体を預け、頬をぴったりと寄せる。
彼女の柔らかな曲線美が、これでもかというほど香月に密着した。
「シャルロット! ちょっ、マジで離れろぉぉぉぉ!!」
香月の叫びもむなしく、シャルロットの拘束は解かれない。
周囲の視線はさらに増え、ついには職員までもが「お客様、どうかされましたか?」と眉をひそめて駆け寄ってくる。
──かくして、中部国際空港到着ロビーは、香月にとって地獄絵図と化した。
◆
中部国際空港駅を発車した特急列車ミュースカイは、なめらかな走行音とともに、秋の気配が色づき始めた街並みを後方へと置き去りにしていた。窓の外には、残暑の名残を感じさせる陽射しが斜めに差し込み、まだ緑の濃い街路樹がその葉を揺らしている。
向かい合わせにした二列シートには、香月、シャルロット、クレアの三人が座っていた。──ただし、その座席の配置は、当初の予定とはまるで違っていた。
「カヅキはこちらにどうぞ。わたくしがご一緒して差し上げますわ!」
そう言ってシャルロットは、満面の笑みで香月の腕を取り、自らの隣へとぐいぐい引っ張り込んだ。断る間も与えず、腕を絡めるようにして隣に座らせる。
シャルロットが窓際、その隣に香月。向かいの席では、クレアが頬杖をついてこちらを睨むように見ている。普段の表情の乏しい顔に露骨なまでに不機嫌さを浮かび上がらせていた。
空調の効いた車内は快適なはずなのに、香月の背中には妙な汗がにじんでいた。体温ではなく、空気の温度でもなく──人間関係の温度差に、だった。
(おい……居心地悪過ぎだろ……)
肩にふわりとかかるシャルロットの金色の巻き髪。動くたびに、甘く華やかな香水の香りが香月の鼻腔をくすぐる。しかも、わざとなのか無意識なのか、彼女は身体を香月に寄せてきており、肘にはしっかりと柔らかな感触が絶えず触れている。
香月は、心の中で叫びたい衝動をぐっと堪えながら、座席の隙間にでも逃げ込めたら──と真剣に願っていた。クレアの鋭い視線が、座席の向こうからじわじわと突き刺さってくる。目が合うたびに殺気すら感じるレベルだ。
『それで?』
不意に、クレアの伝声が響く。低く、押し殺したような声だった。
『なんで日本本部にお前がいるんだよ? しかも、作戦に加わるってどういうことさ』
遠慮のない口調に、香月も内心で頷いた。──まあ、無理もない。これだけ挑発的に密着されて、冷静でいられるはずもない。
「まあまあ、そんなにお怒りにならず」
シャルロットは相変わらず涼しい顔を保ち、座り直して姿勢を優雅に整えた。外の風景にちらりと視線をやってから、どこか芝居がかった調子で語り始める。
「わたくし、今回フランス本部からの正式な指示で、日本本部に一時出向しておりましたの」
『「出向……?」』
香月とクレアが声を揃える。
シャルロットは頷いた。
「ええ。人形師──禁忌に触れる人体改造・人身売買を行う魔術師。その行方を追うために、フランス本部が動いたのですわ」
『わざわざフランスから? それって……』
「……かなり大事って事なんだろ」
クレアが言うのに香月が呟く。
普通、各国の魔術協会本部が他国の案件に直接介入することは滅多にない。だが、相手は世界を股に掛ける程の悪名高いはぐれ魔術師だ。
それがわざわざシャルロットを送り込むというのは、よほど事態を重く見ている証拠だった。
「フランス本部の調査局──わたくし、今はそこに所属しておりますの。現場活動もこなしますけれど、主には特殊事件の捜査・諜報を担当している部署ですわ」
そう語るシャルロットは、どこか得意げに胸を張っていた。
「……意外とガチなとこ行ったんだな」
香月が呆れたように言うと、シャルロットはふふんと鼻を鳴らした。
「当然ですわ。わたくし、学院時代は魔術だけでなく、格闘術も成績優秀でしたもの。カヅキには敵いませんでしたけれど」
その微笑みは、どこか含みがあって、懐かしさすら滲ませていた。
──いや、こっちは舐めプされて負けてるんですが。
そう内心でツッコミながらも、隣の彼女の存在が近すぎて、香月は思考を逸らすこともままならなかった。隙あらば腕に触れてくる、柔らかな感触。ちらりと見える胸元の谷間。──落ち着けと言い聞かせても、脳が言うことを聞いてくれない。
顔を背けた香月の視線の先、窓の外には、次第に住宅街が増えてきていた。名古屋駅まであと少し。だが、車内の空気は緊張と不穏を孕んだままだ。
『で、その人形師って奴が……日本に潜伏してるってこと?』
クレアが表情を変えずに問いを返す。まだ不機嫌なのか低く鋭いその声に、シャルロットは頷いた。
「ええ、その可能性を大いに感じれる。しかも、神の檻に関連している疑いが強いのですわ」
シャルロットが真面目な顔で応じた。
神の檻。横浜を中心拠点として存在する、謎のカルト宗教団体だ。古代魔術師の記憶を断片的に手に入れたお陰で浮上した、古代魔術師の分魂体が居ると思わしき場所だ。陽子に調査を依頼し、ジェイムズが日本中部支部の調査班の面々を派遣してまで調べていた。
魔術協会日本本部が手を引いた今、香月たち日本中部支部が独自に調査を進めることになっている。
そして、そこにシャルロットが加わったというわけだ。
『日本本部が撤退して、お前が一人だけこっちに来たってわけね』
「正確には、神の檻を放置するのは危険だと判断したわたくしが、日本中部支部に自ら志願しましたの。もちろん、本部にもきちんと手続きを通して」
シャルロットはさらりと、しかし堂々とした口調で言い切った。
クレアが心底呆れたように目を細める。
『……わざわざ来なくて良いのに、このバカフレンチ』
「ありがとうございますわ。カヅキのために頑張りますわ!」
即答するシャルロットの笑顔はあまりに無邪気で、計算が見えない分だけ厄介だった。
香月は盛大にため息をつきながら、膝の上に置いた拳を握り直す。
(やっぱり、コイツが一番手強ぇ……)
名古屋駅までの道のりは、あとわずか。
車内にはクレアの静かな殺気と、シャルロットの屈託のない笑顔──そして、香月の胃の痛みが満ちているようだった。
秋の入り口に立ったこの静かな戦いの始まりは、すでに波乱の匂いで満ちていた。
なんて言うか、色んな意味で。