11.変わった物、変わらない物⊕
時は現代へと戻る──
この周回でも、変わらないものは変わらなかった。
些細な出来事、すれ違う誰かの表情、風の匂い。どれも大差はない。
けれど、一つだけ、決定的に違ったものがある。
──大神香月という存在だった。
陽子は静かな魔術工房の一室で、ひとり紅茶を淹れていた。
手元の動きは慣れたもので、深く息を吐きながら、立ちのぼる湯気をぼんやりと見つめる。
常に夜のままの窓の外に、過ぎ去った幾多の時間が重なって見えた。
「……千年以上。ようやく、変わった」
その声は自分自身に向けたものか、それとも……。
扉が、軽くノックされた。
「……入っていいよ、ジェイムズさん」
陽子の魔術工房へのアクセスは、基本的には店の従業員室に施した魔術陣を介し、合言葉を言う事で開かれる仕組みだ。しかし、たった一つだけ例外──特別な手段を用意している。
それは栄エリアのとある雑居ビルの四階にある今は表向き使われていない店のテナント扉の奥にある。
この扉は満月亭へのアクセスする為の物だが、そこにノックや合言葉なしで入るとある倉庫代わりに使われている部屋の隅に鎮座している掃除道具入れ。それこそが特別な手段だ。
これは専らジェイムズからのこの工房へのアクセスに使われる。無論、彼を中に招くか否かは陽子による許可制だ。
掃除道具入れに施された魔術陣にアクセスするには、ある『陽子式掃除ルーティン』を完全再現する必要がある。これがまた、口にするのも実際にするのもとんでもなく面倒臭い。
まず、扉の前に立ち、深呼吸。そして──
ほうきを持ち、決められた掃除用のダンスを一節踊る。
左足を一歩引き、右足で軽くステップ。モップをくるりと回して、まるでオペラの幕開けのように優雅に床を撫でる。見ようによっては、狂った清掃員にしか見えないが、リズムと振り付けは完全に決まっている。間違えるとその場で最初からやり直しだ。
次に、掃除用バケツに向かって「本日の反省点」を一言呟く。
「昨日、トイレ掃除をサボったことをここに懺悔します」
「クイックルワイパーを水拭き用と間違えました」
……などだ。別に内容は掃除に関する物でもなくて良いし、ほんの些細な内容で良いが、真剣に言うことが大切というルールを課している。魔術陣にはその心のトーンを感知させている。
最後に、掃除道具入れの扉に向かって、「ありがとう、道具たち」と笑顔で言いながら三回ノック。
これでようやく、扉のノブが振動する。これが成功の合図だ。それを回すとこの魔術工房へとつながる異空間の門が現れる。
ちなみに、陽子はこの儀式については、最初は若い頃のジェイムズに対するちょっとしたからかいで決めた物だった。
ただ彼は本当に真面目な性格だったから絶対に最後まで真剣にやるのだ。そう、年齢を重ねて初老になってもだ。
実際、今日もジェイムズは真剣な顔でステップを踏み、バケツに向かって己の中の何かを悔いていたようだ。その証拠が、この工房の扉にノックの音が聞こえてきたという現象だ。
──話が脱線した。本題に戻そう。
音も立てずに開いた扉の向こう。
ゆっくりとした足取りで現れたのは、白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、深い皺の刻まれた口元に穏やかな笑みを浮かべる男──ジェイムズだった。
「夜分に失礼。……少しだけ、顔を見に来ました」
「こんな時間にレディの部屋を訪ねるなんて、英国紳士としては失格かな。奥さん怒るよ〜、なんちゃって。……ところで、今日は何を反省したの?」
彼がこの工房に来るたびにする定番の質問を投げかける。
「どうにか貴方の望んだ未来を得たこの日に、最大限助力できていなかったのではないか……という反省です」
その返答に、陽子は少しだけ目を細めた。
この途方もない時間を彼は真剣に付き合ってくれた。彼にだけは、千年を超える孤独の一端を見せても、受け止めてくれるという確信がある。
ジェイムズはソファに腰を下ろし、温かな手で差し出されたティーカップを受け取った。
それだけで、長い沈黙が安心に変わる。
「……ありがとう、黒の姫君の犬だなんて揶揄われながらも懲りずに私について来てくれたお陰でようやくたどり着いた今だよ。本当に感謝してる」
ジェイムズがふっと息を漏らす。
──時は静かに流れる。
ティーカップの中、琥珀色の液面がわずかに揺れるたび、そこに映る景色が過去の断片と重なる気がした。
陽子は何も言わず、ただカップを持ち上げる。
その仕草一つひとつが、千年という時を生きた彼女の静謐さを物語っていた。
向かいに座ったジェイムズに紅茶を注いでカップを渡す。また、言葉を交わすことなく紅茶を味わう。
老いた彼の所作には、若き日の鋭さよりも、深い理解と包容の気配があった。
──部屋の中には、ただティーカップを置くわずかな音と、魔術工房の壁時計が刻む秒針の音だけが流れる。
言葉など不要だった。
長い沈黙が、かえって二人の間に確かな繋がりを浮かび上がらせる。
やがて、陽子がそっと息をついた。
ほんのわずかに口元が綻ぶ。
「君の所の──大神香月君がね、もたらしてくれた大手柄だよ。それに、君の大手柄でもあるよ。ね、日本中部支部長殿?」
「いえ……」
ジェイムズはゆっくりとティーカップを置き、静かに目を閉じた。音もなく過ぎる時間に、二人だけの世界が広がっていた。
「……時々思うんだ、貴方と過ごしたこの長い時間が、どれほど重いものだったのかって。本当に貴方を巻き込んでしまったんじゃないかって」
陽子は黙って彼を見つめ、紅茶を一口、また一口と味わう。その目に浮かぶのは、千年を生きてきた者の静かな決意と、心の中に秘めたどこか安堵の表情だった。
「……でも、最初から、何度周回を重ねてもずっと変わってなくて感謝してる事があるんだ。それは──」
陽子は一瞬だけ言葉を切り、続けて言った。
「──君の存在だよ、ジェイムズ君」
段々と年を経るにつれて、彼が一人前の男性となっていくにつれて呼ばなくなったその呼び方。
ジェイムズは微笑みもせず、ただ頷いた。彼の目は温かく、かつてのように、陽子を包み込むような優しさがあった。
「お互い変わらずにいられるのは、ありがたいことですよ。黒の姫君」
ジェイムズは軽く肩をすくめると、柔らかな笑顔を浮かべた。彼の目は、長年ともに過ごしてきた陽子に対する深い愛情と理解を物語っている。
ジェイムズから返ってきたその懐かしい呼び名とその言葉に、陽子はゆっくりと頷いた。言葉では足りない部分を、お互いの瞳が語り合っていた。
沈黙がしばらく続き、やがて陽子が静かに息を吐いた。
「……そうだね」
心の重さが、和らいだような気がした。