9.選ばれた者達3⊕
「L’ami de Rose」のドアベルが、静かに、けれど重たく響いた。雨の匂いを含んだ冷たい空気が、店内へと流れ込んでくる。
店内はいつもと変わらない。
吸血鬼の城を模した幻想的な内装。深紅のカーテン、重厚なシャンデリアが放つ柔らかな灯り、そしてバロック調のクラシックが静かに流れる空間。
その中心に立つのは、陽子。カウンターの奥で、揺れる燭台の火をただ静かに見つめていた。
このお店は彼女の経営するコンセプトカフェ運営会社である『シャトン・ノワール』グループの第四号店だ。
十年前、第一号店『Chaton Mystique』をオープンしてから、陽子は今もなお現役キャストとして店に立ち続けている。
もっとも、彼女の見た目が十年前とまったく変わっていないことに気づいている客は少なくない。
「全然老けないですね」「お肌、どうしてそんなに綺麗なんですか」
そんな問いに、「永遠の18歳ですから!」と笑いながら押し通してるが、本当の理由は語れない。
彼女が半人半魔──ダンピィルだからだ。
実年齢は、もう35歳。
かつて一緒にキャストをしていた仲間達は既に現役を退いて裏方へと回っているか、他の業種で働いている頃合いだ。
エステに逐一通ってる設定を貫いてはいるが、いつまでもその若さを誤魔化し続けるには、そろそろ限界が見え始めていた。
そうまでしてフロアに立ち続ける理由。それは今日。十年前に撒いた種が芽吹くのを迎える為だ。
陽子がコンセプトカフェのオーナー兼キャストとして表で働いてる裏で、夜咲く花々の廷のメンバー集めは順調に進んでいる。今日も、一人の人物が仲間に加わる日だ。そう、十年前にこの店のチラシを渡した人物──
ロナルド・ディオ、検邪正省の祓術師。
彼がこの店に足を踏み入れるのは、陽子にはすでにわかっていた。
それも単なる予感ではない。何度も繰り返し経験し、時間の流れにおいて決まった出来事だからだ。彼がどんな顔をして、どんな姿でこの店のドアを開けるのか、全てすでに知っている。
ドアが開き、雨に濡れたコートを身にまとったロナルドが店内に入ってきた。
その足取りは少し重く、疲れた様子が目に見える。手に握りしめられているのは、陽子が十年前に彼に渡した一枚のチラシだった。
「お帰りなさいませ、旦那様。お一人様でしょうか?」
陽子は微笑みながら、カウンター越しに声をかけた。
ロナルドが顔を上げ陽子の顔を見ると、最初は少し驚いた様子が見えたが、すぐに冷静さを取り戻して店内に足を踏み入れる。その目には少しの迷いが混じっていたが、それもすぐに引っ込められた。
「──覚えていますか?」
陽子が言葉を投げかけるとロナルドがしばらく黙った。その後、ようやく口を開く。
「覚えています。十年前、貴女がこれを渡してくれた」
彼は震えるように、そのチラシを陽子に差し出した。
それを受け取った陽子の顔に、ほんのりとした笑みが浮かぶ。それは一瞬だけの微かな表情の変化だった。
「……理由は聞かないのですか?」
ロナルドがそう尋ねたとき、陽子はわずかに目を細め、カウンター越しに置かれた燭台の火を一瞬見つめた。
そして、フッと小さく息を吐いた。
「──ウララちゃん、ちょっと業者さんとの打ち合わせが急に入ったから、お店お願いね!」
明るく告げるその声に、緊張していた空気が少しだけ緩む。
キッチンの方から正社員キャストのウララの元気な返事がするのを背に、陽子はロナルドの前に立ち、奥の扉を指し示した。
「こちらへどうぞ、旦那様。少し、静かな場所でお話ししましょう」
彼女が示したのは、店の奥──重厚な赤いカーテンの奥にある、小さな扉だった。
幻想的な吸血鬼の城を模した空間とは対照的に、その先には現実の匂いが漂っている。
ロナルドは黙って頷き、彼女の後に続いた。
カーテンをくぐった先の廊下はやや暗く、壁にかけられた古い肖像画とアンティークの燭台が静かに彼らの影を揺らしていた。
陽子が立ち止まり、鍵をひねって扉を開けると、そこには外の幻想的な世界とは打って変わって、無機質な現実が広がっていた。書類の詰まったキャビネット、シンプルな机と椅子、そして壁際に置かれた年代物の本棚。どれも、店の顔には見せない裏の顔だった。
「どうぞ、中に入って」
「……」
ロナルドは陽子の静かな言葉に従い、重い足取りで部屋の中へと踏み入れた。
ドアの閉まる音が、どこか遠くで鐘が鳴るように静かに響く。
陽子はロナルドの後ろ姿を見つめながら、ゆっくりと扉を閉めて鍵をかけた。
その仕草には過度な警戒もなく、ただ「これから話されることが外に漏れぬように」という、ごく自然な所作としての意味があった。
「……やっぱり貴方は来たね。わかってたよ」
陽子は彼の対面に腰を下ろし、両手を膝の上にそっと添えた。
その口調には責める響きも、詮索の色もなかった。だがその分だけ、彼女の言葉はロナルドの胸にまっすぐ突き刺さった。
ロナルドはしばらく黙っていた。
事務室の時計が、カチ、カチ、と時を刻む音が耳に残る。
「……先日、孤児院が襲撃されたんです。はぐれ魔術師達に。とある人身売買を行う犯罪シンジケートの傘下に居る輩らしく……」
ぽつり、と呟いたその一言で、部屋の空気が一気に重くなる。
陽子の表情には変化はなかったが、彼女の視線がわずかに鋭さを増した。
「……その場にいた子どもたちは無事でした。辛くもはぐれ魔術師達を撃退できた。でも、私は……力及ばなかった」
彼の声には悔しさがにじんでいた。拳が膝の上で震えている。
陽子はその様子をじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「それで、貴方はその力が欲しいと」
その言葉にロナルドは顔を上げた。
陽子の目は、深い闇をたたえながらもどこか慈しみに満ちていた。まるで、彼の心の奥底までを見透かしているかのような眼差しだった。
ロナルドは、言葉を選ぶように、ゆっくりと頷いた。
「……もしあの時、私にもっと強い力があれば……あの子達を、未来を泣かせずに済んだかもしれない」
その呟きには、誰にも救われなかった英雄のような、傷ついた責任の重みが宿っていた。
名古屋養育院は人身売買を主とする犯罪シンジケート『ラクーン・ネスト』に囲われた、協会の序列にも名も刻めないような端くれのはぐれ魔術師達に襲撃される。その出来事は以前からの周回でも必ず起こっていた。
そして、この出来事がロナルドが今持つ吸血鬼の肉体だけではなく、より強い力を求めるきっかけになるのも知っていた。
陽子は微かに目を細めた。
そして、まるでその瞬間が来るのを待っていたかのように、静かに立ち上がる。
「──そうして、魔術の力を求めに貴方はここに来た」
陽子の言葉に、ロナルドは静かに頷いた。
「……でも、私はまだ迷っている。魔術の力に頼ることが、正しいことなのかどうか」
彼の声は揺れていた。それは罪悪感か、後悔か、それとも魔術という力そのものへの畏れか──。
陽子はそんな彼の姿を、ただ静かに見つめていた。彼女の表情に浮かぶのは、理解でも同情でもない、もっと深いところで響く、共鳴に近いものだった。
「教皇庁が、法術と呼ぶ物を知ってますか?」
ロナルドは小さく目を見開いたが、すぐに考えるように目を伏せ、ゆっくりと首を振った。
「……聞いたことはある。でも詳しくは知らない。魔術とは違うのか?」
陽子は小さく頷いた。
「ええ……名前だけね。魔術と法術は本質的には同じ。ただし、法術は教皇庁の規律と信仰によって管理される。『神の名のもとに使う魔術』、それが法術だよ」
彼女は机の引き出しから、一冊の本を取り出す。それは何年も使い込まれた物のように見え、その厚表紙の角が擦り切れていた。
「これを貴方にあげる。教皇庁の聖書を模して暗号化した魔術書だけど、解読表は別に渡す。その内、教皇庁とも協力関係にはなる予定なんだけど、今の段階だとこうしとくのが無難だからね」
ロナルドは黙ってその書を開いた。見た目は、古びた金の箔押しが施された荘厳な聖書だった。ページをめくっても、一見したところでは聖句の羅列や神学的な教義にしか見えない。彼の目には、それが魔術書だとは到底思えなかった。
だが、そこに書かれた言葉や図表の並びには、何か不可解な規則性があった。整然とした詩篇のようであって、どこか異質な構造を感じさせる。
意味のないように見える繰り返しや象徴的な語句、挿絵のように見せかけた線図──それらは、陽子が言う通り、ただの聖書ではなさそうだった。
魔術について深く知らないロナルドにとって、それがどれほどの意味を持つのかはまだわからない。ただ一つ確かなのは、信仰という形式を借りて書かれたその書が、通常の書物とは違う何かを内包していることだった。
「つまり……これを法術として使うと?」
ロナルドの問いに、陽子は少しだけ口元を緩めてから、静かに言葉を返した。
「どう思うかは貴方次第だよ。その力を得たいなら、私達は協力する」
その言葉には、重々しい意味や誘導するような意図はなかった。ただ、事実としての選択肢を彼の前に差し出すような、そんな静かな力が込められていた。
「ただし、二つほど条件があるよ」
陽子の声が静かに、しかしはっきりと部屋に響いた。ロナルドはページを閉じ、顔を上げる。その目はまだ迷いを含んでいたが、それでも逃げずに彼女を見つめていた。
「──条件?」
陽子は軽く頷き、椅子の背に手を添えたまま、まるで長年の因縁を確認するような仕草で言葉を継ぐ。
「一つ目。貴方には私の秘密結社である『夜咲く花々の廷』のメンバーになって動いて貰うよ。私達は俗に言うはぐれ魔術師や熱心な魔術協会所属の魔術師達とは違って、中立のスタンスだから。表向きは検邪正省の祓術師の貴方に技術提供って形を取るつもり。それに──」
陽子がロナルドの目を見透かすように見る。
「貴方は伊深未来ちゃんを守りたいのはわかっているから、私達と共に彼女を守って欲しい」
ロナルドは黙って陽子の目を見つめ、彼女の言葉が胸に響くのを感じていた。「未来」を守りたい、その一心でここまで来たことに迷いはなかった。しかし、陽子が提案した中立のスタンスというのは、彼にとって非常に曖昧で、想定していた善悪の構図が揺らぐような提案だった。
「そして、もう一つ。これは本当に個人的なお願いになるんだけど──」
陽子が杯を置く音が静かに響いた後、ふたりの間にしばし沈黙が流れた。
そして、陽子がもう一度、ゆっくりと口を開いた。
「貴方の教皇庁でのコネを使ってほしいの」
「……どこに?」
陽子は真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「教皇庁傘下の中高一貫校──正確には、その中の一人の生徒に会わせて欲しい」
「生徒……? 貴方が直接足を運べば良いだろう」
「一応、教皇庁の傘下の学校だからね。一応身分上はぐれ魔術師の私が堂々と侵入という訳には行かなくてね。……だからロナルドさん、貴方の立場で動いてほしい」
ロナルドの表情が少し険しくなる。
「それで、その生徒というのは?」
「未来の天才魔術師の卵さ。名前は──」