7.選ばれた者達1⊕
──名古屋の夏。
昼下がりのアスファルトが陽炎のように揺れている。蝉の声が遠くで鳴いていた。
陽子はひとり、ガラス越しに店内から見える階下の大須商店街の様子を見つめていた。
眼下に広がるのは、色とりどりの看板がぶら下がる、雑多でにぎやかな通り。
古着屋の軒先では、ビビッドなTシャツやパンクファッションの服が風に揺れている。通りを行き交う人々の中には、メイド服姿の少女の姿も。どうやらチラシ配りの途中らしい。
自転車のベルの音、近くの広場から響く大道芸人の掛け声、そして遠くから聞こえてくるチンドン屋の鐘と太鼓の音。
そんな音のざわめきが、この街の日常を彩っていた。
平成と昭和、若者文化と古き良き下町文化、現代サブカルチャーと電気街──
全てがごちゃまぜになって、この街はひとつの風景を作り出している。
どこか懐かしく、少し猥雑で、でも確かに生きている。
それが、彼女が愛したこの街のいつの時代でも変わらぬ空気だった。
黒猫メイドカフェ『Chaton Mystique』。
日本に戻ってから二年ほど経ってから陽子が名古屋で開業した一つ目の店舗。黒を基調にしたメイド服と猫耳カチューシャをコンセプトにしたメイドカフェだ。
香月やちょこが居る未来の時代でなら、もうベタベタ過ぎて古めかしいと思われても仕方ないコンセプトだ。だが、陽子が今居る令和に元号が変わる前のこの時代であれば、このぐらいのコンセプトの方がわかりやすくてウケが良い。
そう、この時代の頃合はまだメイドカフェというサブカルチャーが認知を受けて間もなく、一定の人気を得始める。まだ数あるコンセプトが出切って手垢が付いておらず、たくさんのメイドカフェやコンセプトカフェが群雄割拠する戦国時代のような頃合だ。
陽子にとって、これは懐かしい過去の光景だった。
彼女が過ごしてきた未来の世界では、メイドカフェはすでに『文化の一部』として定着していた。
多様化していく嗜好の中、第一店舗目というのはかえってこうしたベタで象徴的なスタイルの方がわかりやすく、人々に安心感すら与えていく物だという認識をしていた。
実際、この店舗を皮切りに年々と規模の拡大を続けて陽子は日本各地に店舗を持つメイドカフェ・コンセプトカフェのオーナーになっていくのだ。
そして、この扉の奥が、魔術協会に依存しない秘密結社『夜咲く花々の廷』の始まりの地になるとは、この地に身を置く協会所属の魔術師の誰も思いはしないだろう。
そして今──陽子の目に、最初の候補者の姿が映った。まねきねこ広場のあたりを通り過ぎていく法衣に身を包んだ男の姿だ。
正確には、最初のメンバーではない。彼と合流を果たすのは、まだ十年も先の話である。
彼の名は、ロナルド・ディオ。
教皇庁検邪正省に所属する祓術師である彼は現在、教皇庁傘下の養護施設である孤児院に身を置き、神の子の再臨──すなわち未来世界の崩壊を招く鍵となる、始祖人類の先祖返り・伊深未来の警護に当たっていた。
これはそんな彼が夜咲く花々の廷のメンバーになるきっかけとなる話だ──
◆
冷たい金属の十字架が、汗ばむ掌にじっとりと貼りついていた。
ロナルド・ディオは、静まり返った礼拝堂の片隅でひざまずいていた。ステンドグラス越しの午後の陽が、彼の黒い法衣に柔らかく滲んでいる。
ここは名古屋市郊外にある、教皇庁傘下の孤児院──『聖霊養育院』。
彼がこの場所にいる理由はただ一つ。神の子と呼ばれる存在、伊深未来を守るためだ。
「こんにちは、ロナルド・ディオさんだね?」
声の主は、礼拝堂の扉を開けて入ってきた少女だった。
彼女は黒のゴシックドレスに身を包み、深紅のリボンとレースがその輪郭を彩っていた。古びた教会の光の中に浮かぶその姿は、まるで別の時代から迷い込んだ幻のようだ。
ロナルドはそんな少女をすぐに警戒した。信仰の場に似つかわしくない異質な存在。だが、彼女の動きは洗練され、無駄がない。幼く見える容姿とは裏腹にその物腰はその若さでは得られないほどの落ち着きぶりだ。慣れた足取りで堂内を歩き、まるで自分の領分のように振る舞っていた。
「……誰だ、君は。魔術師……なのか?」
ロナルドの声は静かだが、緊張を孕んでいる。彼は法衣の下に仕込んだ小型の聖印にそっと指を添えた。
少女はくすりと笑う。
「預言者、とでも言っておこうかな。貴方が検邪正省の祓術師なのは知っている。教皇庁の裏組織に身を置きながら、吸血鬼の肉体を持つことも。でも、そんなに警戒しないで。私は悪い魔術師じゃない、貴方に助言をしに来たの」
陽子の言葉は冷静で、どこか引き込まれるような力を持っていた。彼女は静かにステンドグラスの光に照らされながら、まるで予言者のように堂内を歩き、ロナルドに向けて視線を投げかけた。
ロナルドはその言葉を聞いて、一瞬だけ息を呑んだ。
彼女の存在自体が、異質であり、何かしらの意味を持っていると直感したからだ。
「貴様、どうして私のことを──」
「それは簡単。貴方がここにいる理由も、貴方の未来も、全て私は知っているから」
陽子は、くすりと笑いながら続けた。彼女の口調には、どこか余裕が感じられる。
「未来?」ロナルドは眉をひそめる。「どういう意味だ?」
「この町、名古屋には未来の鍵を握る存在がいる。貴方が守っているその少女──伊深未来だよ。彼女の運命を見守る役目を持つ貴方に、私は伝えるために来た」
ロナルドは冷静に、だが警戒心を隠せないまま問い返した。
「それが、俺にどう関わる?」
「未来で、その伊深未来ちゃんに降り掛かる運命の話だよ」
ロナルドの眉が、ピクリと動く。
陽子は少し黙り込んだ後、ゆっくりと話し始めた。
「──それは、神話時代の超常的な肉体と強大な魔力を現代に宿す存在。魔術師にとって、まさに神の器。伊深未来ちゃんは、その始祖人類の先祖返りだ。だけど、その存在に気づいた魔術師に肉体を奪われ、魔術協会を壊滅させ、やがて世界を滅ぼす。……そんな終焉が、未来には待っているんだよ」
ロナルドの目が鋭くなった。
「それが、君の言う助言か?」
陽子は微笑みながら頷いた。
「ええ。そんな未来をこの目で見てきた。そして、私のこの話が信じられなくて放っておけばその終焉は間違いなく訪れる。彼女は普通には生きられない」
「……」
「だから私は、貴方に伝えに来たの。彼女をただ守るだけでは足りない。貴方自身が、彼女の運命に抗う力を持たなければならないってことを」
「運命に……抗う?」
ロナルドはその言葉をゆっくりと反芻するように呟いた。
「彼女を見張るだけの番人じゃ駄目。貴方自身が彼女を支え、時にはその行く末を変える力にならなくちゃいけないの。これは、神の意思でも教皇庁の命令でもない。貴方自身の意志の問題だよ」
「……」
ロナルドは言葉を失っていた。
神の子の再臨、それを守るためにここに派遣された。信仰と規律、それが全てだと思っていた。だが今、目の前に現れたこの少女は、まるで運命を弄ぶように微笑んで、未来を語る。
「私は『夜咲く花々の廷』という秘密結社の代表、史門陽子。未来に抗う者たちの集い。その始まりが、この名古屋で起きる。伊深未来ちゃんが迎える終焉の未来を止める為に」
「……そんな未来が、本当にあるというのか」
「ある。私達はそれを未来で何度も繰り返してきた。過ちを、喪失を、そして抵抗を。私も──貴方も」
陽子の瞳には、深く遠い時の流れを背負ったような光が宿っていた。
ロナルドはその視線から目を逸らすことができなかった。
「是が非でも貴方は伊深未来ちゃんを守って。だけど、同時に、彼女が『自分の運命を知って壊れる』ことがないように陰ながら支えて守ってあげて欲しい。……いえ、貴方は言われなくてもそうする。貴方はそういう人だから」
ステンドグラスから差す陽光が、まるで祝福のように礼拝堂を照らしていた。
「もし、貴方にもっと力が必要だと感じる事があったら私を訪ねてきて。もし未来ちゃんの事で困った事があれば私は──いえ私達は力を貸してあげられる。貴方の勢力にとって私は敵かもしれない。でも貴方にとって何が大切なのかは知ってる。必ず貴方は魔術の力を求めて私を訪ねてくる」
そう言って、陽子はロナルドにチラシを渡す。
それは今はまだ開店していない、十年後の未来にオープンする吸血鬼のお城がコンセプトのカフェ──L’ami de Roseの新装開店チラシだ。
「すごく先の未来の日付になるけど、その日にはお店は開いてるから」
陽子はひとつ、深く息を吐いた。
「……じゃあ、またね。次に会う時、貴方がどんな顔をしてるのか楽しみにしてる」
そう言って、陽子は礼拝堂の扉へと向かって歩き出す。
ロナルドは、チラシを見つめながらゆっくりと立ち上がった。チラシにはこう書いてある。
『未来を変える鍵はここにある!』
彼の背中にはまだ迷いがあった。だが、その瞳の奥に宿った微かな光だけが、陽子の言葉が届いたことを物語っていた。