6.エリオットの死
そして──三年半後。
魔術学院を首席の成績で卒業した陽子は、そのまま魔術協会付けの研究職に就いた。周囲の期待に応えるように、指導教授であり、師でもあるエリオットのもとへと配属された。時には、彼の代講として学院で教壇にも立った。
けれど、それはReinrevert《輪廻遡行》によって幾度も時を巡ってきた陽子にとって、いずれ通らなければならない『通過点』に過ぎなかった。自分が望んだ未来へとたどり着くため、どうしても回収しなければならない過去の道程──それがこの魔術学院での生活だった。
平穏に見えた日々は、陽子にとってまるで奇跡のような時間だった。笑い合い、議論を交わし、時に冗談を言い合ったあの時間。だが、その輝きがいつか崩れ去るものだと、彼女だけは知っていた。何度繰り返しても、どうしても変えられない一点があるということを。
その出来事は、まるで運命が告げる時報のようにやってきた。
重く軋む研究室の扉が開かれる。ほんの僅か、冷気が廊下に漏れた。扉の先にあったのは、静寂に支配された研究室と、血の海に沈むエリオットの亡骸だった。
冷たい石床に横たわるその姿は、まるで眠っているかのように穏やかだった。ただ、胸元を濡らす暗赤色の血だけが現実を告げていた。書架から落ちた紙が一枚、床の隅でゆらゆらと揺れていた。血の匂いが、インクや革装丁の香りと混じり合い、鼻腔を刺激した。
机の上には、一冊の本が開かれたまま置かれていた。ページには読みかけの印がなく、しおりすら差されていない。昨夜のまま放置されたそれは、エリオットが最後に読んでいた魔術書だったのか、それとも──彼が最後に誰かへ託そうとした想いだったのだろうか。
陽子は扉の前に立ち尽くしたまま、目を閉じた。
「……やっぱり」
掠れるような声が、唇の隙間から漏れる。
分かっていた。知っていた。この瞬間に何度辿り着いても、運命は同じ場所で止まる。そう、エリオットは何者かに殺される。
何をどう変えても、この結末だけは変わらなかった。エリオットの死という現実は、陽子の輪廻の全てにおいて、絶対だった。
足音が、静かに床を叩いた。陽子は一歩、研究室の中へと足を踏み入れる。
(──来る。次は、彼の番だ)
陽子は静かに目を開き、背後へと視線を向けた。
やはりそこには、ジェイムズ・ウィルソンの姿があった。だが、その顔はいつもの明るさを欠き、どこか影を落としている。焦燥と混乱、そして予感めいた不安が彼の表情に滲んでいた。
「陽子さん、エリオット先生は……?」
彼の声は震えていた。
「見ての通りだよ。……エリオット師匠は、誰かに殺された」
陽子が小さく首を振ると、ジェイムズの顔が見る間に絶望へと染まっていく。彼はふらふらとした足取りで研究室へと入り、遺体の前に膝をついた。そして、かき抱くようにエリオットの身体を起こす。
「どうして……」
その声は、ひどく幼く、頼りない。震える指先がエリオットの頬に触れる。
「……どうして……」
彼はまるで答えを見つけられない子供のように、同じ言葉を繰り返した。問いかけるように、すがるように。
陽子は、その姿を黙って見守っていた。いつ見てもダメだ。目の奥が熱を帯びる。だが、泣いてはいけないと、強く自分に言い聞かせた。
やがて、ジェイムズは涙に濡れた顔を上げ、陽子をまっすぐに見つめた。
「貴女は……先生を殺した相手を知っているんですか? 俺を負かしたあの未来視で……教えてください。お願いします……」
その問いは哀願に近かった。彼の声は怒りと悲しみに震えていた。
「……私のは、そんな魔眼のようなものじゃないよ。知っていることは知っている。知らない事は知らない。ただ、それだけ……」
陽子は、目を逸らすことなく静かに言った。ジェイムズの顔が痛むように歪む。だが、その表情の奥に、確かな決意が生まれ始めていた。
彼は遺体を静かに床へと戻し、まっすぐに立ち上がる。その瞳には、喪失の痛みと、それを超えようとする意思の光が宿っていた。
「……俺は、エリオット先生の敵を討ちます。俺の恩師を殺した相手を、この手で」
その言葉にはまだ揺らぎがあった。迷いも、怒りもある。けれど、その奥底には、彼がこの瞬間にしか手にできない覚悟があった。
陽子は、そっと口を開いた。
「……私には、師匠を殺した人物は見えていない。でも……わかっていることはある。彼は自ら、死の運命を拒まなかった」
陽子の声には、迷いがなかった。
「君の怒りは正しい。私もまた、師匠から託された人間の一人だ。きっと私たちは、この先の道のどこかで、彼の命を奪った『何か』に辿り着くのかもしれない。だから……」
陽子は一歩、ジェイムズへと近づき、まっすぐに見つめた。
「君があの時の賭けの約束を守ってくれると信じてる。だからこそ、もし私を信じてくれるなら……私の行く道について来て欲しい。一人じゃ辿り着けない場所があるから」
ジェイムズは、黙っていた。沈黙の中で、彼は多くの感情と葛藤を飲み込んでいた。やがて、彼は深く頷いた。
「……わかりました」
噛みしめるようにそう言って、陽子の方へと歩み寄る。彼の瞳はもう、迷っていなかった。
「俺は……あなたの言う通り、奇跡管理部の構成員になります」
その瞬間、静かだった研究室の空気が、ほんの僅かに動いた気がした。
◆
エリオット・ペンデュラムの葬儀は、静かに、粛々と進められていた。魔術協会本部の地下、歴代の魔術師たちの名が刻まれた霊廟。その一角に、今日、新たな魂が加わる。
陽子は人々の列の後ろ、少し離れた場所で黙って立ち尽くしていた。喪服の上に羽織った深い灰色のマントは、今や彼女にとって一つの“儀式”のようなものだ。何度も、何度も──彼女はこの光景を見てきた。もう、数えるのをやめて久しい。
最初の頃は、記録していたはずだった。未来が変わったかどうか、運命が捻じ曲げられたかどうか、確かめるために。だが、繰り返される時間のなかで、結末はいつも同じだった。エリオット・ペンデュラムは死に、陽子は彼を見送る。その終わりに、何度も何度も辿り着いた。
──だから、もう回数なんてどうでもいい。
それでも、慣れることなんてなかった。
香の煙が静かに揺れ、蝋燭の火がほのかに影を落とす。参列者の声は遠く、ただ空虚な儀礼の音だけが耳に残る。けれど陽子の中には、重く沈んだ痛みだけが確かに残り続けていた。
エリオットの死には、今なお多くの謎が残されていた。直接的な証拠はほとんど残されておらず、事件直後に魔術協会内部で調査委員会が組まれたものの、明確な結論は出ていない。
幾つもの説が飛び交った。外部の敵対組織による暗殺説。禁術に触れた末の自滅説。中でも囁かれていたのが、魔術協会内の内部争いに巻き込まれて殺されたという説だ。
古い体制の保守派と、近代的合理主義を掲げる改革派との軋轢──その狭間で、彼は沈められたのではないか。
それは公には語られぬ噂であり、誰も真実に触れようとはしなかった。
けれど陽子には分かっていた。そうした議論がいくら繰り返されようとも、どの時代を辿っても──彼は、必ず死ぬ運命にあるのだということを。
式が終わり、列席者たちが去った後。陽子は静かにその場に残っていた。隣には、同じように立ち尽くすジェイムズ・ウィルソン。彼の瞳はまだ若く、深い悲しみに揺れていた。
「……私は、ここを離れるわ。魔術協会を抜けて、日本へ行く」
陽子の声は、どこか無風の空間に落ちるようだった。
「日本に……?」
「ええ。私には、果たすべきことがあるから」
それだけを告げて、彼女は前を見据えた。長い時の果てにたどり着いた、決意の視線だった。
「あなたは奇跡管理部で手柄を立てて。そうしていれば、自然と私に辿り着く」
ジェイムズは驚き、そして黙り込む。言葉を探し、けれどそのどれもが喉の奥で止まってしまう。
やがて、彼は絞り出すように口を開いた。
「……それまで、待っていてくれますか?」
陽子は微かに微笑む。だがそれは希望の笑みでも、優しさだけのものでもない。数え切れない死を見届けてきた者の、哀しみと覚悟の滲む微笑だった。
「……もちろん。でも、私を追いかけてくるのはあなたの意志。でも、そうなる事は私は知ってる」
静かに霊廟を吹き抜ける風が、マントの裾を揺らす。火が一つ、また一つ消えていく。
数えきれない死の果てに、それでも陽子は歩き出す。
ジェイムズは、少し遅れてその背を追った。