未来の材料
希望を胸に抱き、夢を追いかける一人の男。
彼は願った。
ただ、未来だけを見据えて生きたい、と。
過去に犯した失敗、負った傷、思い出したくない出会い。
その全てを忘れてしまいたい、と。
彼を見つめるのは、時の神。
指をピンっと弾いてみる。
視線の先、彼の記憶から何か弾き出された。
神は、過去を忘れたいという彼の願いを叶えてやった。
過去を漂白された男。
自らが望んだことだった。
無限の可能性が広がる未来、希望にあふれた未来。
それさえあれば、何も要らないと思った。
しかし、彼は絶望していた。
記憶が、一日と保てなくなっていた。
過去が、どんどん消されていく。
迫り来る時の足音に怯えながら、必死に思い出そうとする。
過ごした日々。
育った場所。
愛しい人。
自分。
かつて追っていた夢も忘れてしまった。
夢を追いかけていたことも忘れてしまった。
男は、日記を付けることにした。
これがあれば、この先、過去を振り返ることができる。
吹き荒れる悲しみの中、少しだけ、希望の火が灯った。
明くる日、男は、少しだけ灯った火を、自ら吹き消した。
日記を読み返して思う。
――はて、これは誰のモノだろう?
自分で書いたことも、忘れてしまった。
そして、嬉しそうに笑った。
――僕も日記を付けてみよう。そうすれば、過去が残せるぞ。
書いては忘れ、忘れては書く。
昨日も、今日も、明日も、明後日も、彼はその営みを繰り返す。
ある時、男はふと思った。
――はて、過去とは何だったろうか。
――そんなモノは、存在しないのかもしれない。
彼は、自分に過去があったことすら、忘れてしまった。
過去の存在を忘れてしまうと、何も怖くなくなった。
目に触れる全てが新しく、耳にする全てに感動できる。
――ああ、何て素晴らしいんだろう。
そう思いながら、何百、何千と同じ毎日を繰り返す。
機械のように、繰り返すだけの日々。
かつて求めていた未来は、欠片すら無い。
人形のように、張り付いた笑み。
かつての彼は、どこにもいない。
――明日は、どんなに素晴らしい日だろうか。
今日と同じ明日を、夢見て眠る。
一万回目の朝を迎えた時、彼は動かなくなった。
自分が人間であることを、忘れてしまった。
その顔には、人形の笑みが浮かんでいる。
人ではなくなった男を見つめるのは、時の神。
指でピンっと弾いてみる。
人形が、コロンと転がった。
そしてニヤリと笑った。
「未来だけで、生きていけると思うなよ」
未来を創るのは、現在。
未来を創る現在を創るのは、過去。
忘れたい過去など、誰にでもある。
ただ、それを捨ててしまってはいけない。
そして、忘れてはいけない。
過去がなければ、現在はない。
現在がなければ、未来はない。
未来を望むのならば、過去を受け入れること。
過去を受け入れられる、自分を作っていくこと。
人の未来の材料は、その人自身の過去なのだ。
何かベタな感じですみません……。
思い出すだけで、恥ずかしくて嫌になる過去。
忘れてしまいたいと願うけれど、今の自分を作っているのは、そんな過去なんですよね。忘れないから、より良い未来を作っていける。次に生かしていける。
そう自分に言い聞かせて、何とか恥と向き合って生きています。
……頑張ろう。