数式の亡霊Sheet2:転移エルフ
まだ肌寒さの残る3月の終わり。
スナック『エンター』の店主アキラは業務スーパーでの買い出しを終え、店の勝手口がある雑居ビルの裏路地へ足を運んでいた。
大通りからは死角になる室外機の向こう側。
人だろうか?膝から先が見えている、裸足だ。
恐る恐る歩み寄ると、壁と室外機に上体を預けた意識のない若い女性が居た。
「おい、あんた、大丈夫か?」
急病なのか、寝てるだけなのか。
アキラは何度か声掛けした後、こりゃ119番するしかないかとスマホを取り出したところで、彼女が身じろぎした。
「気がついたか。どっか痛いとことかあるか?」
「ワ…ラ…」
何て言ったかよく聞き取れなかったが、口をパクパクしていたので水が欲しいのだと判断したアキラは、買ってきたペットボトルの水を与えた。
「アリガト…ウ」
よくよく見ると日本人離れした、北欧っぽい顔立ちだ。片言なのもこっちへ来て日が浅いからかも知れない。
…いや…そんなことより…
…耳が異様に尖っている!
何だこれ?付け耳か?
そういや格好も見慣れないケープまとってるし、コスプレか何かか?
半分ほど飲み干したペットボトルを持ったまま彼女はどこを見るともなく呆けている。
「立てるか?店の中で少し休むか?」
肩を貸しながら勝手口の扉を開けて、彼女を中に招き入れた。
…
「まぁ、そんなこんなで、捨て猫拾った様なもんなんですわ」
最近ご無沙汰だった常連に水割りを渡しながらエルがチイママになったいきさつを話す。
当のエルは席一つ空けた隣の女性客の相手をしながら、聞くともなしに聞いていた。
女性客はちょうどエルがチイママになった頃からの馴染み客なので半年程度の付き合いがある。
「ふーん、で、そのまま居着いちゃったと。でも来日は留学?学校どうしたの?故郷の親御さんは何て言ってんの?ねぇエルちゃん」
常連は渡された水割りもそのままに、頭の中のクエスチョンを一つでも減らそうと躍起になる。
話を振られたエルは、
「強制転移させられたので元居た世界に帰る術はありません。両親はずっと昔に亡くなりました。」
と、素っ気ない返事をした。
"強制転移"とか意味不明なワードだったが、両親が亡くなった事を聞いた気まずさでそれ以上深入りするのが憚られた常連は
「ふうん、色々大変だったね」
と当たり障りない言葉をかけるに留まった。
重い空気になりそうだと感じたアキラは、
「まぁ、お国の事情とか聞かされると雇用主としてマズいかもだから…」
と半ばおどけながら
「だからこの子は異世界から来たエルフなの。エルフのエルちゃん。治外法権なのさ!」
「それにね…」
変に口を挟まれない様、続けざまに話す。
「今じゃ俺なんかよりパソコンにも詳しくなって経理関係も任せてるんだから、辞められると困るんだよ」
時々"俺"を自称するアキラだが、それだけで男性認定する事は出来ない。
"俺っ娘"の可能性もある。
「あの…」
今まで黙って聞いていた女性客が、声を上げた。
胸元で控えめに挙手をしている。
「はい、育美さん!」
アキラがマドラーを向けて指名する。
そんなおふざけに少し笑みを浮かべた育美だったがすぐ真顔に戻し、ゆっくりした口調で話し始めた。
「実は見て欲しいファイルがあるんですけど…」