第六十話 記憶
日に日に和やかになっていく木漏れ日が差し込む居間。久しぶりに憩いのひと時を過ごしていた。
ゆっくりとグラスを傾け、チャイを飲み干す。喉が潤い、体の中がすっきりとした。
「これでケレムおじさまの葬式もおしまいね」
私と同じようにチャイを飲み干した菜月様が疲れを隠せずに慨嘆する。
「はい。お力添え、誠に感謝いたします」
「ほとんどの事務はオーマー様に引き受けていただいたけどね」
旦那様が死亡してから数日。滞りなく葬式や遺産相続などの手続きを終えた私たちはようやく一心地ついていた。
そこへ焼き菓子を持ってきたのは雫だった。
「菜月様。お茶請けはいかがですか?」
「ありがと。これはあんたが?」
「いえ。お菓子はお姉さまが。ですがチャイは私がいれました。いかがですか?」
「美味しいわよ」
「ありがとうございます!」
虹のような笑顔が眩しい。しかしそんな雫を怪訝そうに菜月様が見つめていた。
「ねえ、雫。あんた、そんなに明るかったっけ? もうちょっと沈んでたような気が……」
「女子、三日会わざれば刮目して見よ、というではありませんか」
「男子よ。いやそれにしても……ううん」
菜月様は首をひねっている。無理もない。数日前に比べると雫は明るくなった。むしろこれが本来の雫なのだろう。もっとも、その理由を覚えているのは私だけのようだ。
「あ。みんな。みんなのおかげでちゃんと弔ってあげることができたよ」
一応喪主である坊ちゃまが久しぶりに私服に着替えていた。
「いえ。坊ちゃまの努力の賜物です」
「うん。ありがとう。でも悲しくないよ。ちょっと複雑だけど。もう、お父さんの記憶はないから」
そう。
もはやケレム・ヤルドという人物の記憶は私を除いて誰の中にも存在しない。
精霊によって殺害された人物の記憶はこの世界から抹消される。
ゴブリンに襲われた記憶を誰もはっきりと覚えていなかったのはそのせいだ。ただし、記録、文字や写真などは残るので何かあった、ということは推測できる。
私がきちんと記憶しているのは転生者特権だ。フォゲットミーノットだったか。冗談で取得した能力だったけど、想像以上に素晴らしい能力だ。
あの旦那様の最期はどんな美食よりも私の舌を満足させる。あれを忘れていたらと思うと背筋が凍る。
だが逆に、忘却は救いでもある。坊ちゃまは旦那様からの教育を忘れた。雫は人格に影響が出るほどのトラウマを忘却できた。多少無理をしてでも精霊によって殺害してよかった。
忘れられた旦那様にとっては……どうだろうか。死後も家族を縛り付けるのはあの人の本意ではなかったかもしれないが……あるいは、誰からも忘れることなど許容できないか……死者の願いなど知る由もない。
「あ、そうだ。菜月さん。今まで聞きそびれていたけど結局婚約破棄の騒動はどうなったの?」
忙しさにかまけて聞けなかったことをこの機会に聞くつもりのようだ。私も少し気になる。
「黄ノ介様が各方面に迷惑をかけたことを謝っておられたわ。後、いじめの首謀者はわからなかったってこともね」
少なくとも菜月様の冤罪は否定されたようだ。収まるべきところに収まったということだろう。
「それで相談なんだけど……私、どうしてもやりたいことがあるの。聞いてくれる?」
「それは一体?」
「お母様と弟を探したいの。二人は……色々あってどこにいるのかわからないの」
「僕にできることなら何でもするよ」
「はい。菜月様にはお世話になりましたから」
「ありがと。あんたはどう?」
二人とは違い、やや険のある視線に晒される。
「お手伝いするのは吝かではありません。ですがお私も手伝いしていただきたいことがあります」
「何よ」
菜月様の視線が詐欺師でも見るような視線に変わる。なかなか勘がよろしい。
「実は私、法律相談所のようなものを開きたいのです」
「ふうん。人権がないから開けないわよね。だから私に名前を貸してほしいってところかしら」
正確に言うと法律職以外は法律相談所などを開設できないので別の手段を考えているけれど、概ねその解釈で間違いない。
本当に恋愛が絡まないと賢明な方だ。
「ご明察です。それにコネを取得することは菜月様にも利益になるかと」
「ま、いいわ。それに、もしかしたら私がきちんと働いている姿を見せれば黄ノ介様だって……」
まだ未練があるんですか。この国の社会を考えれば働く女性を娶りたいと思う男性は少数派だと思うのだけれど。
「ああそうだ。名前で思い出したけど、藤太。改名しないといけないわよ」
「あ、そっか」
「何故名前を変えるのですか?」
「ご両親が亡くなったじゃない。苗字は日本名に変えていかなきゃいけないのよ。義務じゃないけどね」
徹底的に日本の風習や文化を賛美しているらしい。先祖代々の名前を変えるなんて普通やらないだろう。
「それは自分で決めるんですか?」
雫の疑問も当然だ。ネーミングセンスを相当問われる問題だが。
「まあね。松田、とかが人気ね」
意外にも普通の苗字だった。変な名前になるくらいなら無難な名前の方がいいのだろうか。
「坊ちゃまは何かご要望がありますか?」
「うーん。そうだね……」
どうやらあまりピンとくるものがないらしい。
「では、あちらはいかがですか?」
私の手の先には紫色の花。あれを育てていたアイシェさんは旦那様が亡くなった翌日には屋敷を去っていった。今は私が手入れしている。
坊ちゃまや雫は残念そうだったが、私は何とも思わない。あくまでもアイシェさんの主は旦那様だったのだ。薄情ではない。合理的なだけだ。
「竜胆ね。いいじゃない」
「うん。いいね。僕も好きな花だし。それと、小百合。雫。二人も、竜胆……そう名乗って欲しいんだ。もちろん、公式に名乗れるわけじゃないけど……」
ホムンクルスに姓は名乗れない。それでも家族になりたいという意思表示だろう。ポチは……あいつのことはいいか。まだここにいるけれど所詮飼い犬に過ぎない。
坊ちゃま雫もあんまりあれに懐いていないし、懐かれていない。
「感謝いたします」
「藤太様。私は、とても嬉しいです」
雫は少し涙ぐむ程感激している。
私も思わず泣きそうだ。竜胆は好きな花の一つなのだから。
何しろ、竜胆の花言葉の一つは……悲しむあなたが好き、ですからね。
そこで電話鳥の鳴き声が聞こえた。
「私が行きますよ」
席を立つ。恐らく私に用がある相手だろう。
「お姉さま。戻ってくればお茶のお替りはいかがですか」
「ええ。時間はかかりませんから、用意しておいてください」




