第五十八話 模造
妻の体調が悪いことを気付けたはずだった。無理をしているのだと気づくべきだった。
結局夫として妻を守れず。父にはなれず。医者としては患者一人守れない。
そんな人生なのだと決定してしまった。後には憎い男の息子だけが遺された。
抜け殻のような日々を過ごした。もはや苦痛すら感じなかった。事務的に、機械的にすべてを自動的に進行させた。
だがやがて、血の繋がっていない息子が成長するにしたがって我慢ができなくなった。唐突にすべてに嫌気がさした。
ふらふらとナイフを手に取り、手首を傷つけた。何度も。何度も。もう、楽になりたかった。
あの男に似た、しかし妻の面影を残す息子と会いたくなかった。
いびつな傷跡が手首にいくつも刻まれた時。傷は急激に塞がった。何が起こったのか調べるうちに以前やけになって、怪しげな訪問販売から購入したものが勇者の遺産の正体だと悟った。
それからは必死であの人を蘇らせるために研究に打ち込んだ。そのために資料を集め、様々な命を踏みにじった。
そして。
あの人の似姿は確かに産まれた。だが、髪の色は……黒かった。あの男に染まったような気がして奥歯が砕けるほど噛みしめた。
そうして産まれたホムンクルスは当然、彼女の名前を名乗らなかった。あの男から贈られた衣服を着た時は嫉妬で体が焼けそうだった。もしかすると記憶を取り戻せるかもしれないと彼女の故郷に送ったりもした。
やはり違うのだと失望し、新しい方法を模索した。
ああしかし。
亜麻色の、自分と同じ髪の色の少女が私を怯えた瞳で見つめる。あの人も、勇者に対してこんな風だったのだろうか。
黒髪黒目の少年が意外な反抗を見せた。こんなところはあの人と似ていた。
黒髪と、赤い血のような瞳が私を糾弾する。あの人と同じ顔で、声で私を咎める。
何故。
どうして。
こんなに苦しいのだ? あの人の他には何もいらないのに。
そして。
「が……は……」
死体のような何者かは突如として膝から崩れ落ちた。
「けほ、けほ」
肺に息を送ろうとして、むせる。
私もまた地面に手をつき、立ち上がれない。ようやく意識がはっきりして目にしたのは、旦那様の似姿が老人のようにしわがれていく様子だった。
(老化? いえ、まさか、ヘイフリック限界?)
動物の細胞はあらかじめ細胞分裂回数が決まっている。細胞の寿命と言い換えてもよい。
急速な回復や、とてつもない怪力。それらは強引に細胞分裂を促進した結果だとしたら? 文字通り寿命を縮める力だ。
ここに来て自分をもう一体創るという無茶で一気に老化が進行したのかもしれない。
どうやら幸運は私に味方しているらしい。いや、旦那様に運がなさすぎるだけか。
「法の精霊ミステラ」
ぐわん、と空間が歪み、知恵の輪を組み合わせたような不可解な物体が姿を現す。
『あーあー。一体こりゃどういうことだ?』
「ケレム・ヤルドがまだ生きていました。裁判を確定しなさい」
『ああそりゃ無理だ』
「どういう意味ですか?」
『こいつはケレムじゃない。よく見なよ。そいつの瞳をさ』
じっとしわがれた老人を見ると、瞳の色が赤かった。つまり。
「この人は、ホムンクルス⁉ で、ですが記憶はケレム様の物を保有して……」
『記憶を保有しているだけの赤の他人じゃないか。それを裁くなんておかしくないか?』
確かに。未だ罪を犯していない赤子は誰にも裁けない。それは私の信条にも反する。それにしても、ここに来て最も完成品に近いホムンクルスが誕生するとは、なんという皮肉だろうか。
狼狽する私をよそにケレム様のホムンクルスは私を求めるように這い寄ってくる。
「たす……ける。きみをまも……る。ちか……う」
もはや妄執だけが彼を動かしているのだろう。どうやら私と奥様の区別がついていない。
この事態はまずい。ケレム様が死んだのか確信できない。だが放っておけばこのホムンクルスもケレム様も死ぬだろう。
だがそれはまずい。死ぬのならば、精霊によって処刑されなければならない。そうでなければ少なくとも雫と坊ちゃまは救われない。
それを成すにはどうするべきか。
「ああ」
『ああん? どうした?』
「いえ。どうやら私は本当に性悪のようです」
よりにもよってこんな方法で断罪し、しかもそれを愉しそうだと思ってしまうのだから、私というやつはろくでもない。では、決着をつけよう。




