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第四十九話 役者

 私が地下室に潜入してから数日。私は菜月様と冬の家にいた。

「おじさまに電話したわ。これでよかったのね?」

「はい。感謝を。あなたのおかげで光明が差しました。ではしばしのお別れです」

「そうね。うまくいくことを祈ってるわ」

 私は冬の家をゆっくりと出る。さて、後は台本通りに動いてくれるかどうか。

 少しでも道を誤れば旦那様もろとも地獄行きだ。まずは雫がちゃんと役を演じてくれるかどうか。不安はあった。


 雫は息を乱しながら郊外の森へと走っていた。それは昨日小百合から彼女に下された指示に従ったためだ。

『逃げましょう』

『逃げる……どこにでしょうか?』

『マフタ家です。菜月様の父君に話は通りました。私たちに温情をかけてくださるそうです』

『私たちはマフタ家の侍従になるのですか?』

『一時的に、ですよ。旦那様にそういう手段に訴えることができると示しましょう。そうすればきちんと話を聞いていただけますよ』

 正直に言えば、怖い。

 あの時、ケレム様と二人でいた夜を思い出すと体が震える。もしも逆らえばまた、いや、あれよりもひどいことをされるかもしれないと思うと目の前が暗くなる。

 でも。

『大丈夫ですよ。雫。私を信じてください』

 あの人の笑顔を見ていると勇気が湧いてくる。だから、動きを止めない。

 人気のない森にたどり着いた。もうすぐマフタ家の使いがやってくるはずだ。そこから別の街へ行くらしい。息を整えながら辺りを探る。そして、足音のした方へ振り向いた。

 ほっとした表情は一瞬で固まった。そこに見慣れた大柄な男性がいたからだ。

「ケレム……様……」

 かたかたと手が震え始めた。その間にケレム様はずんずんと近づいてくる。

「菜月から電話があって来てみれば……まさか本当に逃げ出すつもりだったとはな」

 どういう手違いかわからない。しかし全ての目論見が露見したということだけはわかった。

「どこだ!」

 ケレムは憤怒にかたどられた表情で地面を踏み鳴らし、詰め寄ってくる。口からはひゅうひゅうと空気が漏れるような音が聞こえる。

 後ずさるが、当然逃げられない。雫にはケレムが悪魔のようにしか見えなかった。

 震える腕を強引に掴まれ、雫の恐怖は限界に達し——なかった。

 かろうじて正気を保っていたのは、昨日の言葉。

『もしも、万が一旦那様に見つかった場合、絶対に何もしてはいけません。何もせず、黙っていてください。そうすれば私が必ず助けます』

 目を閉じ、体をこわばらせる。その態度にいら立ったのか、ケレムは雫を無理矢理引っ張り地面に叩きつけた。どこかからカシャリという音が聞こえた。

「もう一度聞くぞ! どこだ!」

 ごわついた手が目前に迫る。そこで。


「雫。反撃していいですよ」


 聞き慣れた、優しい声。その言葉を聞いた瞬間に体のこわばりは解けた。骨は鋼のように硬く、筋肉は獣のように躍動し、血は体内を駆け巡る。

 立ち上がりながら同時にケレムの足を蹴る。その勢いを利用してより速く立ち上がる。

 瞬時に戦闘態勢を整えた雫に対してケレムは再びつかみかかるが、先ほどとはまるで別人のような動きを見せた雫はケレムの腕をひねり、あっさりと投げ飛ばした。ケレムは呆然と空を見上げている。

 そのケレムからさっと離れた雫は声の方向へ、小百合の胸へと飛び込んだ。

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迷宮攻略企業シュメール 次回作です。時間があれば読んでみてください。中東のメソポタミアと呼ばれている地域で生まれた神話をモチーフにしています。
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