第四十五話 侵入
「では、もしも旦那様が戻ってくれば合図を送ってください」
「はい。お気をつけて」
旦那様を見送ってから少し経った後、雫と打ち合わせをしてから重厚な扉の前に立つ。そこには他者を拒絶する気配があった。
ゆっくりと鍵穴に差し込む。
頭の中で泥をかき混ぜるようなイメージで錬金術を使う。私はあまり魔法が上手い方じゃないけれど、練習すれば誰でも使える程度の難易度だ。そうでなければ技術は普及しない。特別な誰かしか使えない技術など不要だ。
やや苦戦しながらも、カチリと開く音がした。
ゆっくりと扉を開き、地下の研究室へ足を踏み入れた。
生活感がない部屋だった。この国では部屋の家具や壁に模様などをつけるのが一般的だが、ここにはまるで飾りが存在しない。
人が暮らす空間ではなく、徹底して仕事のための部屋だった。ただし、きちんと整頓されており、乱雑さとは無縁だった。
「家探しする分には都合がいいですけどね」
私の目的はここで旦那様が何らかの犯罪を行っているという証拠を掴むこと。菜月様や坊ちゃまには適当な言い訳を吹き込んである。
証拠を掴んでからどうするかは……後で考えよう。
念のため手袋をはめてから棚の資料を漁る。難解な学術書が収められていた。全部読んでいれば日が暮れる。もっと、実験結果のようなものを示す資料。いや……発想を変えよう。
旦那様の目的、あるいは願望。つまり無機質なこの部屋の中で旦那様の感情が表れているものを探そう。旦那様の自室にそれがなかったらしい。ならばむしろこの部屋に宝のようにそれがしまわれている気がする。詐欺師としての経験と勘だ。
少し首を回すとこの部屋に似つかわしくないこの国の模様が描かれた箪笥が見つかった。
躊躇なくそれを開ける。
布に包まれた何かを見つけた。ゆっくりと布を外す。絵画、人物画だった。恐らく写真が普及する前に描かれたのだろう。私も見たことのある顔だ。目と髪の色は違ったが。
「やはりこれはそういうことなんでしょうね」
この絵を見ただけで旦那様の目的は確信できた。だが恐らくは致命的な誤りを犯している。その誤りを改善できない限り、決して地獄まで旦那様は止まらない。
さらに箪笥を漁ると分厚い本を見つけた。どうやら法律の書物で、普通の六法に比べると細かい法令が掲載されている。
パラパラとページをめくる。目当てのものは見つかった。
「あった。法律第百四十六号……ああ、これですね」
このページだけ紙がよれよれになるくらい読み込まれている。間違いない。そうなるとすでに私は旦那様の犯罪の証拠を所有している。後はどう突き付けるか。
棚の書物を元に戻していると、ふと背後から無機質な声が聞こえた。
『刑法第百三十条。住居侵入罪』
首を全速力で背後に向ける。そこにいたのはひらひら舞う蝶。しかし非現実的な輝きを放っている。つまり、この世の者ではない……精霊。
理性、躊躇、体面。それらすべてをかなぐり捨てて横に飛び、地面に突っ伏した。
蝶は私の横を通り過ぎていった。空中には塵となった私の服が細かく裁断されていた。
わずか一瞬の運動だったが、私の体には全力疾走に匹敵する負荷がかかっていた。だが息を整えるよりも先に全力で精霊から距離を取る。
(何で精霊がここにいるんですか⁉ 旦那様が呼んだ⁉ いや、あの人は絶対に私を殺せない! 例え失敗作でも一番成功に近いのは私のはずでしょう⁉)
そうなると警備員のようなものだろう。特定の条件が満たされると召喚される。そんな使い方ができるとは知らなかった。なるほど。これなら鍵の管理が杜撰でも問題ない。
だが。この状況は詰みだ。出入り口の前には精霊が陣取っている。一番弱い下位精霊でさえ私を瞬殺できる戦力がある。もう一度言おう。
どうにもならない。
正直に言うと。死んでも仕方がないとは思っている。私は前世でも好きに生きたし、その結果転生できたのならこの人生はおまけのようなものだ。分を弁えるなんて私には無理な相談だから失敗すれば相応の罰が下るのは納得できる。
だが。
「いくら何でもこの死に方はかっこ悪すぎますよね!」
精一杯強がりの笑みを作る。もちろんそれで精霊がひるんでくれるわけもないし、この状況を切り抜けるアイディアを突如閃くわけもない。
いつの間にか手に持っていた本を見る。六法全書だった。この世界の大原則。精霊は法律によって制御されている。それを信じるしかない。
全力でページをめくる。その間にも精霊は迫ってくる。目当ての法律は見つかった。前世でも、今世でも経験がないほどその文字を速読する。
風と知恵の精霊シュトートが鱗粉を剣のように纏って私の目と鼻の先に近づいていた。
「住居侵入罪は人を裁く罪であり、ホムンクルスを裁く罪ではない!」
ぴたり、と精霊、そして剣は止まっていた。
『住居侵入罪は異種族にも適用される法律です。よって刑の執行を停止する理由にはなりません』
(っ! これじゃなかった! でも、止まった!)
精霊は法律によって制御されている。
つまり。こっちが法律を持ち出せば簡単には攻撃されない。
今まで精霊を呼ばれれば殺されるしかないと思っていた。だからなるべくそうならないように立ち回っていた。
しかし人権がなくても、強力な精霊がなくとも、口が回れば対抗できる。
(やってやろうじゃないですか! 私の屁理屈と詭弁で、精霊を騙してみせましょう!)
翠の精霊に対してさっきよりも獰猛な笑顔を向ける。詐欺師は苦境においてこそ、笑顔を忘れてはならないのだ。




