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第三十八話 決別

 私は責任を取らなければならない。

 弟や母のように、もう何も失わないために婚約者を愛そうと決めた。どんな人でなしでも、どんな悪人でも愛すると決めた。

 でも、あの人を……黄ノ介様を見た瞬間にそんな打算は吹き飛んだ。ああいうのを一目ぼれだというのだろう。天使よりも尊く、美しい人だと心の底から想い、愛おしかった。どんな言葉でもこの感動を表せない。それでもなんとか言葉を紡ごうとして、気付いた。

 私は誰かを褒めたことがない。気遣ったことがない。父は私に、マフタ家の令嬢として、そういう教育を施していた。言葉がでず、混乱の極致に達した私は何を言ったのか、よく覚えていない。

 ただ、ひどいことを言ったのだということは彼の顔を見ればわかった。その後も顔を合わせるたびに頭が真っ白になり、まともに会話にならなかった。私の友達に何度か練習に付き合ってもらってもうまくいかなかった。

 手紙を送ろうとしたこともあったが、男性から先に手紙を送るのが礼儀だと聞き、躊躇っていた。

 そして……こうなった。こんな暴言女嫌われて当然だろう。こんな無礼な輩は憎まれて仕方がない。いや、もっと大事なことがあった。あのホムンクルスに言われてようやく気付いた。

 私は黄ノ介様のことを何も知らない。どんなものが好きで、どんなことが楽しいのか。一度も気にかけたことがない。その段階まで進めなかったとも言えるけれど。でも、知ろうとするべきだったのだ。

 そして婚約者であることに甘えて、きっといつかはわかってくれるはずなどと思わず、もっと自分を知ってもらう努力をするべきだったのだ。

 なんて馬鹿な私。

 父からは再び失望された。もしも私が上手く振舞えれば母や弟とまた暮らせたかもしれないのに。

 あの子みたいに……珊瑚みたいに綺麗なら、上手く笑えれば、たおやかに喋れればこんなことにはならなかったのだろうか。あるいはあのホムンクルスのように美人で利発なら……いや、もう無意味だ。

 私は何も掴むことができない。きっと誰からも好かれない。

 でも。それでも。

 どうか私のちっぽけな意地だけは貫かせてください。

「黄ノ介様。あなたの言い分は了解いたしました」

 菜月様の言葉に黄ノ介様もオーマー様もとても驚いていた。言葉の内容よりも喋ったことそのものに驚いているようだった。

「私はもうこれ以上何も言いません。ただし、持参金だけは返還していただけませんか? お父様が私の為に頂いたお金は、きちんと返したいのです」

「……私は別に構わないよ」

「父上がそうおっしゃるのならば」

 唐突な提案を出した菜月様に少々面食らっているようだったが、もともと自分たちの金ではない持参金を返すだけでこの騒動が終わるなら構わない。そう思っているようだった。

「菜月様。こちらを」

 あらかじめ用意した書類を差し出す。そして菜月様は自らの精霊を呼び出し、書類を見せているようだった。

「オーマー様。確認をお願い致します」

「わかった」

 オーマー様も精霊を呼び出す。精霊には契約、誓約書などの機能も含まれているらしい。紛失することもなければ改竄もできない、最高の証拠品だ。

「持参金を返還すれば訴訟を行わず、婚約破棄も受け入れる。これでいいかい?」

「はい」

 オーマー様から再び誓約書を菜月様が受け取る。これですべては終わった。そんな弛緩した空気がアテシン家には漂っていた。

 しかし、菜月様はその隙をつくように、ずんずんと窓に向かって歩き出した。

 誰もが菜月様に注目し、だが呆然と見送る。ただ私だけは唇を吊り上げていた。

 窓を勢いよく開け放つ。室内に春の爽やかな空気が流れ込む。新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ菜月様は大声で叫んだ。

「告白したいことがあります!」

 菜月様の声が屋敷中に、そして屋敷の前の通行人に届き、晴れやかな空に消えていく。

「私、菜月・マフタは黄ノ介・アテシン様から婚約破棄を申し渡されました! ですが!」

 一度息継ぎの為に間を取る。

「持参金をすべて返還していただきました! これはつまり、()()()()()()()()()()ことを意味します!」

 呆気にとられていた黄ノ介様が息を呑む気配がする。

「もう一度言います! 私は! 悪くない!」

 最後のセリフは少しだけ声が震えていた。それに気付いた人はどれだけいるだろうか。

 菜月様の息遣いさえうるさく感じられるほど静寂に満ちた室内。しかし、怒り、困惑、諦観。様々な負の感情が満ちるこの室内で私だけは高揚していた。


(イイ! じゃないですかあ! ええ! ええ! 最初は私がやるつもりでしたが、本当に自分でやるなんて! 菜月様! 見直しましたよ!)

 例えどれだけの慰謝料をもらっても人の心は未練や後悔を残す。だから、きっぱり区切りをつけるには、相手にも、自分にも、傷が残るくらいに拒絶の意思を示す必要があった。もう二度と元に戻らないと、はっきりと示す必要があった。

 だがそれは悪だ。誰かに傷をつけるのは悪だ。だからこそ菜月様は素晴らしい。

 善人があえて悪行をなす。その覚悟を見せてもらった。菜月様は見ていて愉しい。

 なので、打算的な利益のためにも、私の個人的な心情のためにも、全力で弁護しよう。

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迷宮攻略企業シュメール 次回作です。時間があれば読んでみてください。中東のメソポタミアと呼ばれている地域で生まれた神話をモチーフにしています。
― 新着の感想 ―
[一言] なるほど、面倒臭い証拠集めをしてクソ面倒な婚約者を説得するより婚約者パパに「非はなかった」と言わせる方が簡単か、特に今回は婚約者パパまともそうだし婚約破棄については負い目があるしゴリ押しでい…
[一言] 逆説は初見殺しの様なものだと勝手に考えています 賠償金を払う→払った相手に罪は無い 尚、「→」は「=」にならないこともある
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