第三十一話 暗雲
真っ白に燃え尽きて天井を見続ける菜月様。その菜月様と私を交互に見続けおろおろするしかできない雫と坊ちゃま。
とどめをさしたのは私とはいえこの惨状は眼を覆いたくなる。しかしいつまでもこのままではいけない。
「菜月様。まだあなたが婚約者だったと証明する手段はありますよ」
そう言うとピクリと生気を吹き返した。婚約者である、とは言っていないがそれでも希望は灯るらしい。
「ほ、ん、とう、に?」
「ええ。もちろん。お聞きになりますか?」
「聞くわ!」
藁にも縋るような、しかし鬼気迫る様子だ。
「簡単ですよ。菜月様は黄ノ介様に公衆の面前で婚約破棄されました。それを逆説的に考えてください」
「もしかして、婚約破棄されたことが婚約していた証拠になるってこと?」
「ええその通りです坊ちゃま」
なんとも呆れと同情の入り混じった視線だった。
「じゃあ私は婚約者だったのね⁉」
「はい。そうでなければ婚約破棄などされるはずはありません。お喜びください。菜月様。あなたは確かに婚約者でした」
「やったあ! ……って喜べるわけないでしょ!」
ナイスノリツッコミ。この方お嬢様より芸人の方が向いているんじゃないですかね。
実際問題として勝機は目の前で婚約破棄されたことしかない。ただ、私の思い浮かべる勝機と菜月様にとっての勝利には大きな溝があるはずだ。
「でも、これで私が婚約者であることは間違いないのよね!」
「元、ですが」
「ああもう! あんたはどうしていちいち揚げ足を取るの⁉」
「事実を指摘しているだけです。そして菜月様。あなたの目的は何ですか?」
「は? 何をいまさら……」
「お答えください」
淡々と、逃さないように圧力をかける。顔を赤くしてようやく答えた。
「もしも、もしもよ。黄ノ介様が婚約破棄を撤回したいって言うのなら、それに応えてあげなくもないわ」
こんなところまでツンデレか。正直、現実にツンデレがいてもうっとうしさしか感じない。
「はっきり言いますが黄ノ介様はあなたに何の魅力も感じていないのではありませんか?」
あまりにも直截な言葉に雫と坊ちゃまは驚き、不安そうに私と菜月様を見つめている。が、その懸念に反して菜月様は冷静だった。
「そう、かもしれないわ」
なんとなくわかってきた。菜月様が暴走するのは黄ノ介様に対してだけ。自分自身やそれ以外の他人に対しては極めて冷静な判断をしている。恋は盲目ですね。
「でも、それでも……私は婚約者なのよ」
……さて。どう説得したものか。
「ではひとまず菜月様の願望は黄ノ介様と復縁することだという方向で話を進めます。まず、裁判所には婚約を破棄、および復縁させる権限は一切ありません」
「「「え⁉」」」
この辺は裁判や法律が力を及ぼす範囲の話だ。素人ではなんとなくしか知らないだろう。
「裁判所が犯罪行為を行った相手にできるのは刑罰。不法行為を行った加害者に対しては賠償金などを請求できますが、それ以外はほとんどできません」
たまにお金はいいから相手に謝って欲しい、などという被害者がいるらしいが、裁判所に相手を謝らせる権限はない。名誉棄損などは例外だったはずだけど、民事では苦痛や損害をお金に換算しなければならないのだ。
「ですのでできるのは交渉です。例えばこれだけの慰謝料を払わなければならないから、それが嫌なら婚約破棄を撤回しろ、という具合ならできるかもしれません。数百万円の慰謝料を請求できるとして黄ノ介様はそれを払えませんか?」
「……黄ノ介様のアテシン家は名家よ。払えない金額じゃないわ」
詰みだ。この時点で復縁の道はほぼない。
「菜月様のご両親は——」
「お父様はもう興味がないみたい」
人形のような顔。母について言及がないことを問い詰めはしない。
「私どもには足りないものがあります。お分かりですか?」
「……知識?」
「いいえ。お金です」
この世の真理を叩きつけるとやはり困惑しているようだった。ついでに雫も坊ちゃまも、『え、それ言っちゃう?』という表情で私を見ている。
「ちょ、ちょっと待って。今法律の話をしているのよね?」
「ええ。残念ですが裁判にはお金が必要です。例えば法律家を雇うだけで裁判はかなり楽になるでしょう。残酷ですがお金を持っている方が圧倒的に有利なのです」
実際に金銭的な事情で裁判を諦める人は多いらしい。
「私の……個人的に使えるお金は多くないわ」
「なら目的を絞るべきですね。こちらのたった一つの有利は公衆の面前で婚約破棄を叩きつけられた。この一点のみです」
実のところこれさえなければ全て黄ノ介様の理想通りに進んでいただろう。
こっそり婚約破棄を申し渡せば、菜月様の父上の事後の態度を考えれば承諾しただろう。改めて木村珊瑚なるエルフに婚約を申し込めばいいだけだ。
恐らくこの件は完全に黄ノ介様の独断専行。黄ノ介様のお父君に一言相談しただけでこんな事態にはならなかったに違いない。
軍記物語で喩えれば、貴族の子息が勲功をたてるために親衛隊だけを率いて突出しているようなもの。読者が次のページには死体か捕虜になっていると信じて疑わないだろう。残念なことにそこまで舐められても私たちの勝ち目は薄いのだが。
「私がお薦めする方策は、この件を名誉棄損、および婚約破棄は不当であると訴え、相手に慰謝料を請求します。金額はともかく、相手が不当であったという証明になります」
「それって……」
「お姉さま……」
二つの瞳が私を見つめる。菜月様は下を向いたまま尋ねてくる。
「黄ノ介様との婚約を諦めろってこと?」
「はい」
また痛々しい沈黙が支配する。それを破ったのは坊ちゃまだった。
「で、でも小百合! 菜月さんは珊瑚さんっていうエルフをいじめてないんだよ!」
「その根拠は何でしょうか?」
「小学校で珊瑚さんをいじめている首謀者を知っている人がいるから調べてほしいって頼まれたんだ」
それならいじめの首謀者は別人なのだろう。小学生にそれを頼むのもどうかと思うが。
「ですがそれとこれは別の問題です。仮にいじめの首謀者ではなかったとして黄ノ介様が婚約者であり続けたいと思うでしょうか」
「それは……」
こうなってしまえばもう関係の修復は困難だ。なら、別の道を探すべきなのだ。
「ねえあんた。あんたなら、珊瑚をいじめていた真犯人を探すことができる?」
「……確約はできませんが、尽力はします」
「そう。少し考えさせて……」
ゆっくりと菜月様は立ち上がった。今にも消えそうな陽炎のように。ふらふらと邸宅の一室へ消えていった。




