第三十話 破棄
先ほどとは別の意味合いで興奮した菜月様をなだめて数分。ようやくまともな話し合いができる状態に落ち着いた。
「いい! 私は! ツンデレなんかじゃない! はい復唱!」
「「「菜月さま(さん)はツンデレではありません」」」
……落ち着いた、でいいんですよね?
「さて、話を戻しますが、菜月様は少しばかり乱暴な言葉遣いをしてしまったのは事実なんですね?」
「……そうね」
不承不承頷く。顔にでかでかと不満の二文字が書かれている。
「でも婚約破棄だなんておかしいじゃない。それに、エルフと婚約なんてもっとありえないわ!」
「異種族ですからね。人権がありません」
「あ、それは違うよ小百合。エルフは異種族だけど人権はあるよ」
そういえば全部の異種族に人権がないわけじゃないんでしたね。
「なら、特に問題ありませんね」
「おお、あり、よ! 異種族だから子供だってできないのよ⁉」
へえ。ハーフエルフみたいなものはいないんですね。
「子供ができなければ結婚してはいけないんですか?」
「……ごめんなさい。そんなことはないわ。子供ができなくても一緒に暮らすことはできるもの」
素朴な疑問には意外にも真摯な返答がきた。根は善人なのだろか。
「でも! 私は許嫁よ! 私の方が先に婚約したのよ!」
「ですが婚約破棄されたのでは?」
「認めてない! 認めてないなら無効よ!」
「いえ、もうすでに婚約破棄は成立していますよ。別に何か手続きが必要なわけじゃありませんから」
「「「え」」」
菜月様だけでなく雫と坊ちゃまも驚いた様子だった。菜月様は私の顔をじろじろと胡乱なものを見る目つきで眺めている。
「ねえ。あんたそういうの詳しいの? その、法律とか」
「旦那様がお創りになったホムンクルスですので」
すまし顔でそう述べると妙に納得していた。
「そうね。おじさまのホムンクルスなら……」
適当な言い訳だったが、案外説得力があったらしい。実際に私は詐欺師だったので、多少の法知識はある。
「じゃあ説明しなさいよ。結婚と婚約は具体的にどう違うの!」
良い流れだ。上手く優秀さを証明できれば味方になってくれるかもしれない。
「承りました。まず、結婚はかなり法で厳密に定められています」
夫婦間のトラブルは一般人が最も関わる可能性が高く、それだけに結婚、離婚、慰謝料、財産分与、不貞行為など、様々な法律が整備されている。
「一方で婚約は法律の条文に一切出てきません」
「ちょっと待ちなさいよ! それじゃあ婚約破棄しても何も罰則がないわけ⁉」
「慌てないでください。直接定義されていないからといって何の法的拘束力もないわけではありません。婚約とは一種の契約です」
「それじゃあ婚約破棄は契約を破ったってことになるのよね!」
「はい。契約違反した方に責任があります」
「やったあ!」
頬を紅潮させ、全身で喜びを表す菜月様。もちろん、ぬか喜びに過ぎないのだが。
「ですが婚約は契約の一種ですからね。その契約が有効かどうかは議論の余地があります」
菜月様は表情と姿勢が固まったまま口だけを動かす。
「……もしも有効じゃなかったら?」
にっこり笑顔で黙る。それで伝わったらしく顔色が青くなった。アジサイみたいに愉快な表情をする人だ。
「さてではどこから婚約が有効かを説明しましょう。さっきも言いましたが婚約は単なる契約の一つにすぎません。極論すれば五歳の子供が、『大きくなったら結婚してあげる』というのも婚約です」
同様に婚約破棄も破棄すると言ってしまえばその時点で破棄は成立する。相手が納得するかどうかは菜月様を見ていればわかるだろうが。
「ねえ小百合。それは本当に法律的に……えっと有効なの?」
「裁判所が認めるかどうかと言われれば認めないでしょう。所詮子供のたわごとですから。有効性を高めるためには単なる口約束ではなく、物理的な証明、例えば文書などが必要です」
文書という言葉に身を固くする菜月様。やはりそうでしょうね。
「菜月様。婚約に関する書類などはありますか? 記憶の範囲で構いません」
「……ないわ。私は知らない」
しん、と静まり返る。つまり婚約の有効性は証明できない。
「で、でも菜月さんが知らないところに書類があるかも……」
やっぱり、坊ちゃまも根本的に勘違いしている。そもそもこの婚約は無効、いや、違法なのだ。
「無意味ですよ。菜月様が知らない時点で婚約は成立してはいけません。念のためにお聞きしますが、あなたは黄ノ介様の許嫁、つまり親同士が決めた婚約者で間違いありませんね?」
「そうよ」
書斎から持ち出したデイリー六法を取り出し、広げる。
「憲法第二十四条。婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する。民法七百四十二条。当事者間に婚姻する意思がない時その婚姻を無効にする。お互いに同意のない結婚は違法どころか違憲です。婚約はお互いに結婚するために努力する、という契約である以上許嫁は絶対に法的に認められません」
例えどこかに婚約証明書があったとしても、それを菜月様が知らない時点でそれは無効だ。
地球のライトノベルなんかで悪役令嬢転生というジャンルがあるのは知っている。だが何故それが現在の日本で行われないのか。答えはこれ。許嫁というものがそもそも違法だから。
多分、昔のこの国、ラルサ共和国では許嫁はよくあったのだろう。だが、日本の法律はそれを認めない。恐らく菜月様と黄ノ介様の両親はこのことを知っている。だから文書としては残していない。何故ならそれは犯罪の証拠になるのだから。
テスト中の教室よりもよっぽど耳が痛い沈黙が降りる。
ただし。これまでは法律の条文を説明しただけだ。自分にとって都合のいい解釈をしてこそ詐欺師の真骨頂。
「ですが菜月様と黄ノ介様との婚約が成立していると解釈することは可能です」
「ほ、本当に⁉」
死者が棺から蘇ったようにがばっと起き上がる。奇跡を目の当たりにしたような表情をしていた。
「ええ。要するに黄ノ介様が婚約を認めていればよいのです。今まで一度でも黄ノ介様が婚約している、あるいは菜月様が婚約者であると認めていれば婚約は成立していることになります」
「お、お姉さま? それは屁理屈と呼ばれるものでは?」
「ええその通りです。法律とは屁理屈です。あなたは今まさに法学の扉の前に立ちました」
何しろ法学の蔑称……おっと失礼。法学の別称は解釈学。法は所詮文章の集合体。解釈次第で様々に色を変える。似たようなことを前世の知り合いの司法書士が言っていた。
しかし自信満々に菜月様を見ると、笑顔のまま硬直していた。
「ないわ」
「……はい?」
「あの人が、私を婚約者って言ってくれたこと、一度もない。学校にいるときは影から見守っていたけど、一度もない」
ちょっと待って。今さらっとストーカーしてたって言いませんでしたか? いや、それは捨て置こう。
「ねえあんた。婚約者って一度も認めてない人はどうなるの?」
私に対する問いかけだが、私に焦点を合わせず壁の一点を見つめている。それでも表情は笑顔のままだからすごく怖い。怖いが、答えないわけにもいかない。
「誠に申し上げにくいのですが……菜月様は婚約してもいない相手から婚約破棄をされたということになります」
もしも意思の力によって生命が保たれているならば菜月様はきっと今頃息が止まっていただろう。そう信じられるほど打ちのめされていた。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
ここからの投稿は火曜、木曜、土曜の18時に行う予定です。




