第五十四話 何処
瓶の中身の液体がぶちまけられると勇者様は硫酸を浴びせかけられたように溶け、やがて崩れ始めた。
……もっとも、これで終わりだと思うほど能天気ではない。多分これは分身か何かだ。勇者様にはそういう能力もあったはず。
だが一息入れる時間はありそうだった。
まず倒れた花梨に近づく。
「花梨。無事ですか?」
ぐったりとして仰向けに倒れていた花梨は私の呼びかけに答えてぱちりと目を開けた。
「あ。小百合お姉ちゃん。あれ? 痛くないね。確かあたし、攻撃されたと思うんだけど」
ぺたぺたと自分の顔を触る。しかしそれを止めた。
「花梨。あなたからは見えませんけれど、あなたの顔半分は……削がれています」
花梨の幼くも可愛らしい顔の半分は皮を剝がされたような傷跡がついていた。勇者様の能力が狂ったせいだろうか。本来なら死んでいたことを思えばこれでもまだましだ。
「ふうん。痛くないのって不思議だね」
「それよりあの薬は何ですか?」
「細胞自傷薬? 例のレギオンだっけ。解析してあれを倒せる薬を開発したんだ! 細胞を自滅させる効果があるんだよ!」
アポトーシスを誘導させる薬か何かだろうか。よくもまあ思いつく。確か勇者様には毒を分解する力があったはずだが……あくまでも本来は薬だから無力化できたのだろうか。
「勇者様に効いたのは運だったでしょうに」
「そうだねー。でも、やっぱり分身か何かだったのかなあ」
「でしょうね。本体の居場所か何か心当たりはありますか?」
「ないなあ。あたしは大丈夫だから雫おねえちゃんを見てあげて」
珍しく、真面目に人を思いやっている花梨だった。
勇者様の能力をじっくり一人で考えたいのだとは思いたくない。
花梨に続いて雫の容態を見ることにする。
動き回った疲労からか、壁にもたれかかって座り込んでいたが、呼吸などはしっかりして意識もあった。
「すみません雫。あなたを後回しにしてしまいました」
「構いません。花梨のほうが重傷でしょうから」
それは判断が難しい。
すぐに血が止まるとは言っても、右腕を失った雫も相当な深手だ。
「それと、あなたを勇者様のもとに送り込んだことを謝罪します。少なからずこうなることを予測していましたから」
「勇者様には相手を洗脳する能力みたいなものがあるのですよね?」
「ええ。正確には好意を抱いた相手も自分に好意を抱くようになる能力ですね」
「なるほど。あれが恋というものですか。意外とたいしたことはありませんでしたね」
これには少し驚いた。それはつまり洗脳に抗っていたということだ。
「雫。あなた、いつから洗脳されていましたか?」
「最初に勇者様がお姉さまたちを攻撃なさった後でしょうか。それからいろいろと欲求が湧いてきましたが、我慢していました。お姉さまならきっと来ると思っていましたから」
それはつまり数分間は勇者様を切り裂くのを我慢していたことになる。
「私との殺陣は演技ですか。しかし、なぜあなたに洗脳効果が薄かったのでしょうか?」
「私が普段から我慢しているからでしょうか」
にっこりとほほ笑みながらの言葉。
誰に。何を。
明らかに意図的に省いての言葉だった。
(よし! 聴かなかったことにしましょう!)
「それよりも、お姉さまもお怪我は大丈夫ですか? 左目が……」
「距離感が掴めませんが、そのうち慣れますよ」
「……お姉さま。少し動かないでください」
雫は髪を縛っている二つのリボンをほどき、暗器の万年筆とハンカチを利用して即席の眼帯を作った。
器用なものだ。
「似合っていますか?」
「ええ。とても」
「しかしあなたのハンカチとリボンをダメにしてしまいましたね。あとで買いに行きましょう」
「お姉さま。お忘れですか? そのリボンはお姉さまに見繕っていただいたものですよ」
そういえばそうだった。
雫が生まれた日、私はそれなりに悩んで雫をコーディネートしたのだった。
「あれから結構経ちましたね」
「はい」
「この事件が解決したら、どこかに遊びに行きましょうか」
「はい!」
元気な返事にこちらも嬉しくなる。
願わくば、遊びに訪れた場所にトラブルが待ち構えていないように。
「お姉さま。それと、勇者様について一つ気になったことがあります」
不意にピシッとした雫にこちらも身構える。
未来のことを楽しむのは今直面している問題を解決してからだ。
「勇者様は窓、特に空を気にしていたように見えます」
「外に何かあるのでしょうか?」
「わかりません。ですが勇者様の体がぶれた瞬間。あの時に分身と入れ替わったのでしょうが、あの時も窓から空を見ていました。そこに、何か勇者様を訴えるヒントがあるかもしれません」
雫も、花梨も限界まで頑張ってくれた。
後は、法律家の出番だ。




