第五十三話 打倒
喉元と、胸元。
雫が万年筆を突き刺した場所がグロテスクに盛り上がり、傷がふさがった。
「ええと、もう一度言うよ? 僕は君が好き……」
言い終える前に横脇腹、脇の下、こめかみの三点を万年筆で雫が突き刺す。
しかしやはり勇者様は何事もなかったかのように再生する。
「君、どうなってるの? 僕のこと好きなんだよね?」
「はい。好きです。だからもっと傷つけさせてください」
「……」
たおやかな笑顔のまま、メンヘラ極まりないセリフをつぶやく雫には勇者様でさえドン引きしていた。
うん。
私も逃げたい。
「そこまでだ。ホムンクルスの雫」
そこで声をあげたのが今まで沈黙を保っていたエドワード様だった。
「君は今法令に違反している。私は看過するわけには……」
「ねえ」
エドワード様を遮って勇者様が今日もっとも冷ややかな声を浴びせる。
「君はしゃべらないでって言ったよね」
勇者様が右手を振るう。
エドワード様の右足は鮮血に染まり、地面に崩れ落ちた。
その衝撃でエドワード様の頭から何か球形のものが零れ落ちたが、それをはっきり確認する間もない。
「雫。君も、少し大人しくして?」
再び、右手を振るう。
雫が身をよじるが、意味はなかった。
ゲームのように派手な演出や効果音はない。ただただ、雫の肘から先の右腕が切り落とされ、ぽとりと地面に落ちた結果だけがあった。
あまりにも自然に行われた傷害行為はいっそ非現実的だった。
しかし。
勇者様は、あるいは私でさえも雫を甘く見ていたのかもしれない。
切り落とされた右腕を蹴り飛ばし、それが勇者様の顔面に向かう。いまだに生々しい血が勇者様の視界を奪う。再び万年筆がきらめく。
勇者様はおそらく今初めて大きく後退した。傲岸不遜だった勇者様の表情はわずかに恐怖に歪んでいるように見えた。
しかし、雫は片膝をついた。さすがに体力の限界が近いらしい。
それを見て安堵の表情を浮かべたが、今度は勇者様の頭に何かの液体がぶちまけられた。
「⁉ 何これ⁉」
「えーとねえ。それはあたしが開発した……なんて名前つけようかな。細胞自傷薬? かな」
「花梨⁉」
ひょっこり、私が入ってきた扉とは別の扉から現れた小さな体は花梨だった。
菜月様がどこかから入れないか試してみると言っていたが、多分出入口が小さすぎて花梨しか通れなかったのだろう。
「よくわからないけど。悪いことするね。かわいい子なんだから僕の邪魔しないでくれるかな?」
勇者様は花梨のことも洗脳するつもりだったのだろう。
だがそれはやはり逆効果だった。
「はい! あなたを解剖したいです!」
完全に脈絡のない猟奇的な発言に勇者様はまたしても困惑する。花梨にとって好意を抱く相手とは研究の対象であって、研究対象に安全を保障するものではない。
そんな花梨の態度に勇者様は苛立ちを隠せない。
「ねえ。君たち、いったい何なの?」
「何なのと言われても。ただのホムンクルスですよ」
「頭おかしいんじゃない?」
「いいえ。私はまともですよ」
「はい。私は普通です」
「はーい。あたしはどこにでもいるホムンクルスです!」
勇者様は絶句した。驚きのあまり茫然としてた。
(これこれ。こういう表情が見たかったんですよ)
ちなみに二人はどうしてそんなに驚いているんだろう、ときょとんとしている。お互い様だと思うのだが、誰しも鏡なしでは自分の顔を見ることはできない。
もはや会話すら面倒になったのか、勇者様は右手を振るう。
しかしその攻撃は私たちを切り裂くことなく、大きく逸れた。そして勇者様は体の調子を確かめるように自分の手を凝視していた。
それを見て雫は全力で突進する。
「雫おねえちゃん! これ!」
瓶を掲げて投げようとする。おそらくさっきの何とか薬だろう。それが勇者様に悪影響を与えたはず。さらに投薬すればより効果は増すはずだ。
しかしそれはさせぬとばかりに右手を振るい、鮮血が舞う。花梨は大きくのけぞり、雫に投げようとしていた瓶は明後日の方向に飛び、落下する直前雫が跳びついてキャッチした。
その時点で勇者様の意識は雫に向いた。
何度も右手を振るい、しかし雫は負傷していると思えぬ俊敏な動きで的を絞らせないが、近づくこともできない。
やがて疲労からか倒れこんだ衝撃で瓶を大きく跳ね飛ばす。
勝ち誇った笑みを浮かべる勇者様。
だがしかし、その瓶が跳んだ先には。
「どうしてそこに⁉」
「どうしても何も、普通に近づいただけですよ」
雫に意識が向いていた勇者様は私の接近に気づくのが遅れた。今まで圧倒的な力で敵を屠ってきた彼は警戒心というものが欠けていたのだろう。
瓶を掴んだ私は遠慮なくそれを勇者様の顔面に叩きつけた。




