第二十話 法令
私の不躾な視線をどう受け取ったのか、老紳士が私に尋ねてきた。
「どうした? 法律家のバッジが珍しいのか?」
私の視線に気づいた紳士はからかうような口調だった。法律家? ……弁護士じゃなくて?
「初めて目にするものだったもので。ご無礼をお許しください」
紳士は鷹揚に頷いただけだった。次に口を開いたのは案内人だ。
「こ、これはエドワード様。わたくしがなにか失礼を……?」
案内人は冷汗を止められず、今にも失神しそうな有様だ。エドワード様の立場はそれだけでわかる。恐らく先ほど言っていた同行者はこのエドワードなのだろう。
「法律家として看過できない発言だったものでな。まずダンジョンでのみ効力がある法律は概ね条例だ。もっとも異京の各区の条例はほぼ共通しているがな」
「!」
「ええと、条例……?」
しどろもどろになっている案内人、驚く私、困惑する坊ちゃま。まさしく三者三様の反応だった。
「坊や。条例は法律の内の一つだ。県や市、区などによって決められており、国会が立法した法律の下位に当たるという解釈もできるな。では質問だ。この国で最も上位にある法令とは?」
エドワード様は教師のような口調になっていた。あるいは、年下の面倒を見たがる年長者の性だろうか。
「え? 法律と法令って違うんですか?」
「違うとも。そこのホムンクルスはどう見る?」
「……法令は憲法や法律、命令を含めた全ての総称です。最上位に位置するのが憲法になります」
「そうだ。先ほどの政令や省令、告示などの命令は法律を守れるように国や地方自治体が発布するのだ。もっとも、法律の制定や改正などほとんどないし、政令もめったに国から出されないがな」
思わず口から手が飛び出しそうになるのをこらえるのに必死だった。
ラルサ王国は自国で憲法や法律を全く制定、改正していない。六法の虫食いや改変箇所はこの世界で改正されていたのではなく、下っ端役人のような奴の干渉だろうか。
ならば日本からの輸入品をそのまま使っている。普通法律はその時代に合わせて変えていくものだ。それが行われていない。法令というその国の根幹に関わるルールを。
デイリー六法だけじゃ情報は不十分だったけれど、改めてその道のプロから言われると異常事態だ。
(そんなもの、ラルサは日本の属国みたいなものじゃないですか。それにそもそも日本には異種族なんていない。そんな国でできた法律が異世界で通用するわけがないでしょう)
改めてこの国の歪みがあらわになった気がした。……内心穏やかでないのは私だけだったようだが。
ようやく落ち着き始めた私は、エドワード様が前方に視線を向けていることに気付いた。
「ほお。どうやら課外授業にはうってつけの相手が現れたな」
前方に黒い渦が空中に浮かび、中から這い出るように黒い影が現れる。二足歩行だが口には鋭い牙が並んでいる。狼男のようだった。
「ダンジョンには時折魔物や精霊が出現する……これがそうですか?」
「そうだ。ここは異界に繋がっていると考えられており、時折あちらの住人が出現する。厄介なことにそれらの出現率はダンジョンに滞在する時間が長いほど、ダンジョンにいる生き物の数が多いほど高くなる」
ふうん? まるで異物を排除する免疫細胞みたいだ。
「かつてはこれがダンジョン探索の最大の障害だったわけですか」
最強の護衛がいる今となってはただの雑魚に過ぎない。
「トリオメル! 行け!」
案内人が精霊に命令する。
トリオメルと呼ばれた精霊が地面を触手で歩くように魔物に向かっていく。魔物もまた精霊に突進する。クラゲのような精霊が魔物に触れた瞬間辺りの地面が一斉に魔物に殺到する。強力な磁石に吸いつけられたようだった。狼男は岩に囲まれて消えた。
一瞬で戦闘は終わった……と思いきや、黒い渦はさらに大きくなっている。
「これは珍しい。大型の魔物が出現するとは」
次に現れたのは二つの首を持った狼……のような黒い影だった。
「野良犬にしては大きすぎますね」
「オルトロスだ。一説によるとダンジョンに入り込んだ野良犬の末路とも言われているな」
クラゲの精霊はオルトロスに向かい、先ほどと同じ攻撃を繰り出すが、オルトロスの牙によって寸断された。




