第三十三話 誹謗
「訴えたい人がいる、ですか。その方はどなたですか」
「わかんな……わかりません。どこにいるのかも、誰なのかも」
「……? つまり、赤の他人を訴えたいということですか?」
「うん、そうなり、ます」
無理に敬語を使わなくていいと勧めるべきかと思ったが、彼女は今必死で考えて相手に失礼がない言葉を選んでいる。その意思を尊重するべきだと判断した。
「では、なぜ訴えたいのですか?」
「これ、見てください」
初雪様が取り出したのは見慣れた携帯テレビ。いつも使っている文字や画像を通信できるツール。
それを見た瞬間私の脳裏に閃くものがあった。そしてそれを裏付けるように。
携帯テレビの立体映像にはこの世の悪性を煮詰めて固めたような罵詈雑言が浮かんでは消えていた。
「初雪様。あなたが訴えたいのは携帯テレビを通じてあなたを侮辱してくる相手ですね?」
初雪様は黙ってこくりと頷いた。その目じりには涙が溢れそうになっていた。
なんということはない。地球でも毎日のようにありふれている現象。
不特定多数による誹謗中傷。
おそらく、彼女はラルサにおけるその初めての被害者だった。
「侮辱の内容は、獅子ヶ浦の人々に謝れとか、被害者への賠償を支払えとか、そういう類ですか?」
「う……はい。あとは、こう、私やお母さんやお父さんがすごい悪人だって書かれてたりす……します。してもないことをしてたみたいにも言われてたりします」
わかりやすすぎるほど典型的な誹謗中傷。もちろん実際にはこの数百倍の悪意にさらされているのだろう。
「まず、最初にはっきりさせておきましょう。初雪様。あなたは私たちが憎いですか?」
花梨も、雫も、そしてもちろん初雪様も大きく目を見開いていた。
驚きのあまりか、まだ言葉が出てこない初雪様にゆっくりと語りかける。
「あなたが私を恨んでいたとしても、それが依頼を受けるか否かに影響を与えることはありません。公私混同は避けるべきですからね。ですが、依頼人と法律家の間には信頼関係が必要です」
「あなた、恨んでいる相手を信用しろって言うの?」
「はい。個人の感情と実力の評価は別にするべきです。相手が未熟でないのなら、私はそれを依頼人にも求めます」
冷静に聞けば、相手におべっかを使っているようにも聞こえるが、私は初雪様にはそれができると踏んでいた。
そうでなければここに来ないはずだ。
彼女の父親を失脚させた要因の一つは私なのだし、携帯テレビを開発したのは花梨だ。
ぎゅっと手を握り、震える唇から言葉が紡がれる。
「嫌いよ。憎いよ。お父さんは悪いことしてない。ううん、少なくとも私にはいいお父さんだった。病気になっちゃったひとは可哀そうだって思うもん。恨むのもわかるわ。でも……そんな、こんな言葉を私にまでぶつけてどうしろって言うのよ!」
震えは大きくなり、涙がこぼれようとするが、それを必死に押しとどめている。
「警察や他の法律家には相談しましたか?」
「したよ。でも……」
「おおよそ言われたことはわかります。別に直接面と向かって言われたわけじゃない。嫌なら携帯テレビを見なければいい。でしょう?」
それはインターネット黎明期、つまり地球においてネットから不特定多数の人々による誹謗中傷が始まったのとほぼ同時期、世間にはネットでの誹謗中傷が認知されていなかったとき、被害者がその道のプロに相談して言われた言葉だった。
現代人ならネットは身近というか必須のツールだが、まだネットというものが完全に社会に浸透していなかったがゆえに価値観の相違が生まれていた。
私は知識としてしか知らないが、この少女は身をもって知っている。
そして誰もが彼女を拒絶し、私くらいしか頼れそうなやつがいなかったのだろう。
「わかってないの。みんな。顔も知らない人から汚い言葉を投げつけられるのがどんなにつらいのか! 心と体がずたずたに切り裂かれるみたいよ! 挙句の果てには住所も顔も特定されて石まで投げつけられてるの! 家に押しかけて、誰かに暴力を振るわれるのを夢にまで見たもん! お母さんは、もうずっと寝込んでる! 私が、なにしたって言うのおおおおおお!」
一息に、絶叫する。
おそらくこの世界に彼女の心情を理解できる人はそう多くあるまい。
誹謗中傷というのは言葉の暴力だ。特にネットを介してのそれは技術の向上により新たに生まれてしまった犯罪だ。
世界の悪意は人の身には重すぎる。解脱した聖人でもない限り善人では受け止められはしない。
だからこそ私はそれを受け止めなければならない。
(だって私は悪人ですからね)
悪意でできた剣の山だって平気で寝転がってしまえるのだ。だからこそ。
今にも崩れ落ちてしまいそうないたいけな少女を口説き落とすことに痛痒を感じない。
何しろこれは二度目だ。
一度カルト宗教のトップとして活動していたころに、誹謗中傷の被害者の心のケアを行ったことがある。
彼女は何とか加害者のうち数人を突き止めることができたが、それでも心の疲弊は激しくよりどころを求めているのは明らかだった。
そういう人間というのは実になびきやすいのだ。
(もちろんきちんと救いますとも。利用しつつ、救う。同時に行うのが私のポリシーですから)




