第二十九話 環境
環境基本法。
公害に対処するための法律、公害対策基本法を発展、継承した環境分野の基本を示した法律。
日本において、今でこそ自然環境に配慮してごみを捨てるなどは当然のこととして扱われているが、数十年前は危険物質や毒物を垂れ流すということは平気で行われていた。
そのさらに数百年前では糞尿を道路にまき散らすことも珍しくなかったらしいが、ここラルサにおいては下水設備が比較的発達したことに加え、勇者が徹底的に衛生観念を指導したこともあり、西洋の中世なんかに比べるとかなりきれいな街並みを維持している。
しかし産業革命などを経ておらず、環境に致命的な負荷をかける物質を大量に生み出すことなどなかった。それゆえ環境基本法はまだ条文として明記されていなかった。
だが今、状況は変わった。
地球とはやや違うとはいえ、工業が発展し、液体触媒としてメチル水銀を利用し、使用済みの有機水銀を大量に排出する必要が出てきたため、環境基本法が必要とされる条件を満たしてしまった。
これでもはや勝ちはほぼ確定。なぜなら、公害を防ぎ、裁くために環境基本法は存在しているのだから。
彼らの隠蔽工作はすべて環境基本法が存在しないことを前提にして組み立てられていたはずだ。あとは一突きするだけで砂上の楼閣の如く崩れ落ちる。
……その一突きをしくじれば長期化してしまうリスクは考えないようにしよう。
「か、環境基本法? なんですかそれは?」
おそらく隠蔽工作のために必死に法律や規則を調べ上げたであろう森主任は目に見えない鈍器で顔を殴られたような表情になっていた。
「ざっくり説明すると……環境を保全し、公害、つまり自然や人民に対し悪影響を及ぼすことを禁止し、そのうえで社会を発展させることを目的とする法律です」
「そのような法律は存在しなかったはずです!」
「ですが六法にはそう書かれています。それがすべてです」
「待ってください! 確か新しく制定された法律で過去の犯罪を裁くことはできないはずですよね? ならばこの件と環境基本法は無関係です!」
森主任の言葉は正しい。いわゆる法の不遡及という原則である。一部の犯罪を除けばその原則は適用される。
しかし、厄介なことに今回は事情が違う。
「それは新たに法令が施行された場合です。精霊たちも言っていましたが、今回は日本国の法律を新たに書き記したのであって、今までも法律は施行されていたのです。わかりやすく言いましょう。我々の文明では読むことのできない文字で書かれていましたが、以前から環境基本法は既に存在していた。そのようになっています」
「む、無茶苦茶だ……」
茫然とする森主任に心の底から同意する。
とにもかくにも日本の法令を神のごとく信奉するラルサのお偉いさんにとって法令は時間を巻き戻してでも守らなければならないものらしい。
「ご理解いただいたようですので環境基本法について説明を続けましょう。この法律では国や地方公共団体のほか、事業者にも責務が課されます」
「なんの責務ですか」
「いろいろありますが今回の件に関わるのは煤煙、廃棄物、そして汚水の処理」
デモ隊、獅子ヶ浦工業の社員、すべてがざわめきに包まれる。
これの意図することは明白。万が一にも有機水銀を適切に処理せずに放出していた場合、この時点で法令違反になる。
重要なのはただ汚水を放出しただけで違反になること。
被害者も物損も必要ない。獅子ヶ浦工業が認めなかったとしても汚水処理の失敗を法令違反として裁くことができる。
「そして法の精霊ミステラ。現在獅子ヶ浦工業は環境基本法を十全に守っていると言えますか?」
ちなみに河川の有機水銀量などはすでにエドワード様を通して警察などに提出済み。おそらくそれらの数字を考慮されてミステラからの返答があるはず。
『ああ。そりゃ、もうダメだろ。正直、査察する権限はあるはずだぞ』
森主任の額からは炎天下の砂漠にいるように汗が流れだし、ひざは極寒の地で寝泊まりしているように震えている。
しかし私を睨む視線には闘志がまだ残っている。
彼からしてみると私は地獄の沼に引きずり込もうとする悪魔のようなものなのだろう。
が、私としても余裕はない。
(というか、初見の法令を見ながら法議論するとか新手の拷問ですか!?)
私はもちろん環境基本法というものを知っている。
しかしその法令を丸暗記しているわけはない。普段ならあらかじめ条文などを調べておいてから裁判などに臨むのだが今回はそれが通用しない。
とにかくすまし顔のままぺらぺら紙をめくりつつ、焦りを悟られないようにしゃべらないといけない。緊張や焦りは弱み。弱みを見せることは敗北につながる。
王手をかけた状況とはいえ、ここでつまずけば今までの苦労はすべて水の泡。
しかし予想外に、私とは別方向に視線を向けた森主任は初めて海を目にした子供のように顔を輝かせた。




