第二十八話 改変
初期の水俣病関連裁判において難航したことの一つはどのような罪状で裁くか、ということである。
特に、現在のラルサでは。
例えば毒物を川に流し込めばどんな罪になるのか。おそらく、ラルサでは罪に問われない。毒物を流すだけで、誰の被害もなければそれは罪ではないし、仮に魚や虫が死んだとしても動物愛護法には違反しない。そのほかの保護法などに引っかかる可能性はあるが、大々的に裁かれることはないだろう。
しかしその川の水を人が飲んで何らかの病気になれば話は別だ。
例えば意図的に病気を他人にうつせば傷害罪になる可能性がある。それと同じように毒物の危険性を認識しながらそれを放置したり、意図的に放流すれば処罰の対象にはなるだろう。
しかしそれはきちんと危険性を認識していればの話だ。あくまでも獅子ヶ浦工業が危険を認めなければ地球のようにうやむやにされ続け、裁判が長期化してしまうリスクは非常に高い。
現在の、ラルサの法律では。
「あなた方が毒物、つまりメチル水銀を川に放出していたのであればそれは裁かれるべきです」
「そのようなことは行っておりません! 我々は常に清浄な水を放出し続けています!」
「ですが川の水からメチル水銀が異常な高濃度で検出されたのは確かなのです」
「我々の工場から排出されたものではありません! 我々の工場は絶対に安全です!」
堂々巡りだ。
このままでは永遠に議論は終わらない。
さて。
現代日本においても、不法投棄などが問題になることは多々あるが、それでも昔に比べれば圧倒的に少なくなっている。
それはなぜか。
「では……聞いてみましょうか」
「聞く? 誰に?」
森主任は声のトーンが変わった私に対して恐れるような視線を向けている。
「決まっているでしょう。勇者様より賜った、六法全書に」
たいてい持ち歩いているデイリー六法を取り出し、掌の上に乗せる。これは何の変哲もないデイリー六法に過ぎない。
そしてこれは持ち込まれた日本の法律によって成り立っている。
だが。
当然ながらまだ存在していないものに関する法律は記載されていない。例えば銃刀法違反などだ。
拳銃は存在しないのため、刃物、武器などを禁止する法律に変わっている。
しかしこの世界においても銃器類がいつか発明されないとは限らないし、事実テレビはそれに近しい商品が発明された。
法律とは本来時代に合わせて変化させるものだが、ラルサの民は日本国の法令を敬うあまり、ほとんど変化させようとはしない。
ならば拳銃が発明されたとしても銃刀法は採用されないのだろうか。
答えはノーだ。
私もエドワード様に教えられたことだが、この六法全書のみならず紙の大量生産は勇者の遺産によって行われているらしい。
そしてこの世界の六法が記された本には特殊な機能がある。
この世界に存在しなかった事例や発明品などが新たに生まれると、それに対応した日本の法律が精霊によって書き加えられることがある。
今回の事件はそれに該当する。
なぜなら、高度経済成長期に新たに生まれた概念、公害を裁くための法律を私は知っている。いや、日本人なら誰もが知っているのだから。
手のひらに乗せた六法全書がひとりでにパラパラとめくれ、建築基準法や学校教育法が記載されているあたりで制止する。
そしてその真上には普段以上にねじくれたミステラが宙を漂っている。
そしてミステラから、普段とは打って変わって機械的な音声が発せられた。
『現在適用されていない法令の該当事象を確認。六法全書に新たな条文を追加する。風と知恵の精霊シュトート。文字と紙の精霊エアハード召喚』
碧の蝶シュトート、まだらの蛇エアハードが宙を舞う。
小百合ですらあずかり知らぬことだが、この光景はラルサの至る所、六法に連なる書物があるすべての場所で目撃された。
『条文検索開始』
碧の蝶がことほぐ。
さわやかな風が吹き抜ける。
『検索終了』
碧の蝶の言葉が終わり、まだらの蛇がそそのかすように語り始める。
『条文追加条項確認。文字作成。勇者の遺産とのリンク開始』
まだらの蛇からひも状の何かがデイリー六法に向かい、はたを織るようにページが加えられていく。
誰もがそれを止められない。止められるはずがない。
精霊を止めるということは太陽を西から東にのぼらせるようなものだ。人間には抗えぬ摂理なのだ。
もっとも、精霊を止める力を持っていたとして、この神々しささえ感じさせる圧力を前に動ける人間などいないだろう。
『条文追加終了。法令名、すなわち』
「環境基本法。それがこの国に新たに追加された……いえ、以前から存在したことになっている法律ですよ」
エアハードから台詞をひったくる。
こういうことは自分で言わなければ、面白くないでしょう?




