第五十一話 本物
金庫から出てきたのは何かの液体に漬けられた……人間の左耳だった。
(ああ、そういうことですか)
心の中では得心しつつ、口からは全く異なる言葉を話す。
「その耳は誰の……いえ、なぜ耳を保存しているのですか?」
「これは勇者の遺産、その一つです」
「ゆ、勇者の遺産? 体の一部が?」
(やっぱりですかー)
「ええ。ご存じないでしょうが勇者の遺産の一部は勇者の遺体から作られているそうです」
「そ、そんな。勇者の遺産が勇者様の遺体だったなんて……」
(よーくご存じですが。一体あの男は何度私の前に立ちふさがれば気が済むんですかね)
「私たちがこれを手に入れたのは偶然です。これには暗闇でもものの位置や道筋を把握する力があります」
「それを利用してダンジョンの抜け穴を見つけたのですね」
「ええ。ですがもはやこれは必要ありません。あなたの方が有効活用できるはずです」
「私ごときに何ができるかはわかりませんが……力を尽くさせていただきます」
はっきり言って厄介ごとを押し付けられたも同然だが、私としてもこんな危険物を放置するわけにはいかない。
「しかし、勇者の遺産の一部と言いましたが、他にもこのようなものがあるのですか?」
「私たちにもわかりません。もし所在を把握しているとすれば新星教かエルフたちでしょう」
「新星教は勇者様を支持する団体ですし、エルフは確か勇者様と懇意になされていたのでしたか」
「ええ。あの恥知らずで臆病な耳長どもはあっさり勇者になびき、今の地位を手に入れました。あなたも気を付けた方がいいでしょう。異種族の法律家を奴らが快く思っているとは思えません」
エルフ。人権を確保した異種族。少し警戒しておくべきかもしれない。
「ありがとうございます。それと、もう一つあなただけには私のアイディアをお伝えしておきましょう」
「アイディア? なんの?」
「異種族が守られるための方法ですよ」
「……飼育の間違いでは?」
「どちらも同じことです。飼育には家畜を守る義務も含まれますから」
「……どんなアイディアですか?」
「保険です。異種族を飼育する場合保険に入らなければならない義務を設けます」
「意味があるのですか?」
「ありますよ。例えば今私が人間に襲われたとしましょう。反撃はできません。私たちはものとして扱われているので未遂罪が成立しづらいのです」
「例えば異種族を庇護する保険があれば法的に庇護を受けられるということですか?」
「保険法には詳しくありませんがおそらく可能です」
「それは……あまりにもみじめではありませんか? 飼育され、守られ……人間がいなければ生きていけない。我々は本当に、この世界に生きる生き物なのですか?」
「そうは思いませんね。守られているのではなく、守らせていると思えばよいのです。無駄なプライドを抱えていても生きづらいだけですよ。皇帝陛下にもそうお伝えください」
一礼したのち、部屋を出た。
テオドラと呼ばれている女性は誰もいない部屋でじっと佇んでいた。ホムンクルスの最後の言葉。あれはどういう意味なのか。
おそらくわかっていたのだろう。彼女の帝室に伝わる紅い髪と同じ、赤い瞳には隠し事など有用しなかった。
興奮に沸き立つ部屋を横切り、もう文字を書き、言葉を話さなくても自由が手に入るとわかったかつての部下たちは泥のように眠りこけていた。
多分、限界だったのだ。誰もがこんな無意味なことはやめたがっていた。
だが、『彼』がいないことに気付いて別の部屋に向かった。
ぽつりと、砂漠のただなかに放り投げられた犬のようにうずくまっていた。『自分』に気付いた彼はぽつぽつと話し始めた。
誰と? もちろん、『自分』と。
「僕たちは自由になれるのか?」
「ええ」
それが嘘であることはわかっている。それでも彼を安心させるためにはそう言うしかない。
「そうか……なら、今まで僕がしてきたことは何だったんだ?」
「あなたは国のために頑張ってきたじゃない。きっと祖先たちも許してくれるわ」
「違う!」
あまりの剣幕に体が震える。
「違うんだ……僕は国のためじゃない……僕は、君のために、君の国を少しでも残したくて……そのために……それがかえって君を苦しめていることを知りながら……それでもやめられなくて……許してくれ……許してくれ……」
許しを請う、彼を、マヌエル……いや、テオドラを抱きしめた。
「いいの。もういいの。あなたは本当に私に尽くしてくれた」
すべてが終わったあの日。帝国崩壊の日。
父が逃げ、囮としての意味しかない空の玉座についた『マヌエル』を逃がすため、『テオドラ』はこう囁いた。
『私がマヌエルになります。あなたはその間にお逃げください』
無謀にも勇者に挑み、しかし傷一つすらつけられず、再会したのは二人とも牢獄の中だった。
すべてを悟った彼は勇者の僕として、傀儡の皇帝としてふるまってきた。いっそのこと死んでしまった方が楽だっただろう。しかし勇者の所業を聞けば遺されたマヌエルがどうなるのか容易に想像できたのだ。
それはもう、思い出すのも難しいほどの昔の話。
「もういいの。あなたはもう、テオドラに戻っていいの」
彼はようやく皇帝マヌエルではなく、その部下のテオドラとして涙を流した。
そして彼女もまた彼を抱きしめ、頬に涙がつたっていた。




