第四十八話 感染
三度、スラムへと赴く。夜明け前の人通りの少ない時間を指定してきたのは相手だった。
同行者は坊ちゃまと雫の二人。会話の行方次第では相手が逆上しかねないので保険は必要だった。
二人とも緊張した……いや、雫はまた別の理由で気落ちしているようにも見えた。
すさんだ町を横切る。人がいない方が陰鬱な気配は少ないというのも一種の皮肉だろうか。
やがて数日前にも訪れた小屋の前まで来た。いかついドワーフの男が私たちを待ち構えていた。
「入れ」
小屋の中に入る。相変わらず帝国公用語をしゃべり、何かを書き記している音が聞こえていたが、その音の発生源とは別の部屋に通される。
そこにはやはり皇后であるテオドラがいた。
「法律家の小百合。バベルについてわかったことがあると聞きました。間違いないですね?」
期待半分、恐怖半分といった表情だった。
「はい。ですが残念ながらバベルの違法性を証明することはほぼ不可能です」
皇后様の周囲の異種族が剣呑な気配を放ちながら立ち上がる。しかしそれを制止したのはやはり皇后様だった。
「おやめなさい。ですがいきなりそう言われても納得できません。説明していただけますか? 私も不可能だと皇帝陛下に、マヌエル様に説明する義務があるのです」
「はい。まずこちらの地図をご覧ください。バベルが広まった国の日付を記入しています。さらに、最初にバベルが広まったラルサからどれくらいの日数がかかったのかも追記してあります」
「これは……帝国にバベルが広まったのは遅かったのですね」
「ええ。あくまでも資料で確認できる範囲ではそうなります。そして、この広まり方はあるものと近似値をとります」
もう一枚、先ほどの地図と同じもの。日付は違うが、広まった日数はかなり似通っていた。ただし帝国以外は。
「これは……一体……? 何が広まった日数なのですか?」
「感染症です。十数年前、帝国とラルサが戦端を開くきっかけになった感染症の広まり方とバベルの広まり方は酷似しています。つまりバベルの正体は感染する魔法です」
私の突き止めた真実は衝撃というよりは困惑を元帝国人たちにもたらした。
「感染する魔法? そんなものは聞いたことありません」
「私も同様です。しかしそう考えるほかないのです。まず一人一人に直接魔法をかけるような真似はできないのはわかりますね?」
「もちろん。そんなことをしていては時間がいくらあっても足りません」
「この世界を覆うような広範囲の魔法という線も薄い。それならラルサを中心にバベルが広まっているはずです。さらに毒物のようなものを介してバベルを発動させている可能性もありましたが、完全にバベルをいきわたらせるのは難しいでしょう」
「その点人から人へうつるなら半永久的に効果が持続し、あまねく人々にいきわたるわけですか」
「ええ。これなら帝国にバベルが広まったのが遅かった理由も説明がつきます」
「当時帝国とラルサの国交が断絶していたからですね?」
「その通りです。資料によると帝国崩壊直前に遠方に出かけていた人々が帝国に戻っています」
「祖国を守るために戻ってきた人々です。それがこんな結果になるとは思いもしませんでした」
テオドラはまさしく当事者だっただけに理解が早かった。そして、もう気づいているはずだ。最後の希望の灯を消してしまったのが自分たちであると。
「……実のところ疑問はありました。私たちがあの孤島を見つけた直後にバベルが広まったことに。あまりにもタイミングが合いすぎていました。私たちが孤島に住む帝国人を見つけてからバベルが広まったのではなく、私たちが孤島の帝国人を見つけてしまったからバベルがうつったのですか」
テオドラの言葉に元帝国人たちは今度こそ動揺を隠せなかった。
そんなはずはない、嘘をつくな、我々のせいではない。
現実逃避とも取れる言葉の数々を並べ立て、私を糾弾した。だが、やはりテオドラは冷静だった。
「お静かに。小百合の言い分は筋が通っています」
押し黙り、中には涙が混じっていそうな嗚咽すら聞こえていた。
「小百合。バベルがうつる条件はなんでしょうか?」
「わかりません。ただ近くにいるだけでうつるかもしれませんし、バベルの性質を鑑みると会話がトリガーになっている可能性もあります。確かなのは一滴でも漏れがあればそこからバベルは広まるということだけです」
「……帝国にはひび割れた宝石は石ころに劣るということわざがありました。私にはもうそれをどんなふうに発音するのか思い出せません。バベルは……ひびなのでしょうか」
「亀裂です。とても大きく、決して元には戻りません」
テオドラは深い、深いため息をついた。




