第三十八話 現象
精霊から放出された物体は物理法則を無視して放物線を描かずにばらまかれている。ありがたいことにあまり速くはなく、数こそ多いものの球体同士の間隔がかなり広いためよけることは難しくなかった。隣を逃げている異種族も同じ意見だったらしい。
「とにかく逃げろ! 焦らずに攻撃をよけながら走るんだ!」
そう叫びながら球体をかわそうとする。だが突如として球体は旋回し、それは彼の胸に直撃した。
「そ」
断末魔は言い終わることがなく、彼は灰色の粉となって消えた。
(当たったら確実に死にますね。お気の毒に。しかしこれで条件は満たしました)
内心とは違い、糾弾するような言葉を紡ぐ。
「ミステラ! 動物愛護法違反です! あの精霊を裁きなさい!」
知恵の輪をちぐはぐに組み合わせたような精霊が出現する。これで事態は解決する……はずだった。
『あー……そりゃ無理だな』
「理由は⁉」
『あの塩と灰の精霊ザグロトは呼ばれてねー。自然にここに来た奴だ』
「この世界に来た方法はどうあれ攻撃してきていることには違いないはずです!」
『いいやあ? あれはここにいるだけだ。ここにいるだけで世界の法則を歪めているだけだ。それを裁くなんておかしいだろ?』
「あの球体はただの自然現象みたいなものだと?」
『イエース』
思わず絶句する。例えば地震で命を落としたとしても、竜巻で家が吹き飛ばされたとしても、自然現象を裁けるはずがない。
問題なのは、その自然現象とやらの致死性が強すぎるということだ。そして同時にあれが誰かに呼ばれた精霊でないということだけは確かになった。いきなり攻撃したところをみるに、通常とは違うようだが。
もはや置物以下の物体Xとなったミステラを放置して頼りになる方の精霊に尋ねる。
「シュトート。あなたはあの精霊から坊ちゃまを守る義務がありますか?」
『はい。その身命を保全する義務があります。ただし、その所有品まではその限りではありません』
つまり自分の身は自分で守れ、ということ。とりあえず走る以外の方法が見当たらないのだが……いや、助け舟はあった。
「皆様! こちらに!」
トレッコから紹介されたケンタウロスが手を振って招いてくれる。こんな状況でも職務に忠実だったらしい。あれに乗った方が速いのは明らかだ。急いでケンタウロス車に向かう。
「お姉ちゃん! 後ろ! 来てる!」
花梨の声に従い、首をぐりんと回すと、球体の群れが私たちに迫っていた。咄嗟に花梨を抱えたまま肩から地面に倒れこむ。
私の10センチ上を球体が通過し、そのままケンタウロスに向かう。ケンタウロスは大柄で、私たちのように伏せて躱すことはできない。しかしケンタウロスはとっさに車から手を離すと四本の足を躍動させ、その場で跳躍した。
避けられる。そう確信した私たちをあざ笑うかのように球体は増殖し、どうあがいても避けられないほどの数となってケンタウロスをこの世から消失させた。
「あ、あれ? さっきまでいたケンタウロスさんは?」
彼は私以外の記憶から完全に抹消されたが、感傷に浸っている暇はない。
「おそらく精霊に攻撃されたのでしょう。それよりミステラ! 本当にあの精霊には攻撃の意図がないんですね⁉」
『ありませーん』
おどけた様子に本気で殺意を覚える。が、精霊に暴力をふるっても何の意味もないのは明らかだ。
「小百合お姉ちゃん。あの球体、来なくなったよ」
「え? あ、本当ですね」
立ち止まり、息を整える。
空を見上げると塩と灰の精霊ザグロトは静止していた。もう終わったのだろうか。
「あれ? あの精霊、震えてない?」
確かによく見るとぶるぶると小刻みに動いて……しかもそれがだんだん大きくなっている。猛烈に嫌な予感がする。
『ゴウ、ボアアアア!!!!』
ザグロトは突然叫ぶとその口らしきものから球体大量に吐き出した。数を数えるのもばからしく、運河のように地面を覆いつくしている。
「ふ、ふざけないでくれませんかあ⁉ 避けられるわけないでしょう⁉」
もう離れるのは間に合わないが、回避できるわけもない。どこかでやり過ごさないといけない。
問題なのはあれが建物にこもったくらいで防げるものなのかどうか。地下に潜らなくても大丈夫なのか。いや、どうもあの球体が地面に当たると発光したり、ぐにゃぐにゃになったりしているのでせめて分厚い壁が欲しい。だがこの辺りに頑丈な建物はない。あるのはレンガや木材を組み合わせて作られた粗末な平屋くらいだ。
(何か、何か……避難できる場所がないなら、避難できる場所を作れたら……)
いや、私は法律家だ。法律家の本分は法の庇護下にあるものを守ること。この状況で使える法律はなんだ?
建物。精霊……いや、これは無意味。さっき起こったことは……火災。これだ!
「ミステラ! 建築基準法第二十二条区域!この辺りは防火区域に指定されていますね⁉」
建築基準法の一つに特定の地域の建物は防火基準を満たさなければならないというものがある。
『そうだな』
急いで目の前の建物を指さす。
「この建物は防火基準を満たしていません! しかしながら塩と灰の精霊という自然現象によって破損する危険性があります! よって証拠保全の義務があります!」
塩と灰の精霊を裁く法律は存在しない。しかしそれが起こす現象からモノや人を守る法律ならある。
ちなみに証拠保全は本来面倒な手続きが必要なのだが、精霊はその辺を数秒でやってくれる……はず!
『へいへい。了解。鋼と大地のせいれ……』
言い終わる前に二人を平屋に押し込み、扉と窓を閉める。外ではクラゲのような精霊が平屋に触れているのが見えた。
「二人とも! 集まって!」
二人の肩を抱き、小さな円陣を圧縮するように固まる。私は衝撃に備えるように呼吸を止めていた。ひときわ大きく、塩と灰の精霊ザグロトが吠えた気がした。
そして視界は真っ白になった。




