第二十九話 空影
襲撃者はもちろん雫さえも神の見えざる手に掴まれたように身動き一つとれない。ただ小百合の声だけが室内に響く。
『さてでは電話の音声を証拠にしてよいかという点ですがこれはもちろん可能です』
「ま、待て待て待て! お前はこの場にいないだろうが! 実際に目で見たわけじゃないだろうが!」
『ですが聞きました。この耳で』
「勝手に人の話を盗み聞きしてるんじゃねえ!」
『残念ながら盗み聞きを罰する法律はありません。盗み聞きするために不法侵入などを行った場合罪になりますが』
「こ、こいつも不法侵入に……」
『雫の行為はこの場合緊急避難が成立し、無罪でしょうね』
再びしんと静まり返る。違法性が確定してしまえば精霊によって裁かれる。その恐ろしさを知っている彼らは喋れず、独演会は続く。
『では電話音声は証拠になるかどうかという点ですが、数年前に電話連絡による救助要請を無視した警官が懲戒処分になっています。よって証拠能力はあると判断されます』
宣告は下された。恐怖の極限に達した人間の男はパニックに陥っていた。
「お、お前ら! 早く俺を逃がせ!」
『逃げる暇などありませんよ。ミステラ。私は現在ホテル鳩ノ巣の地下室に避難していますが、大精霊はどれくらい離れている相手を裁けますか?』
『ああん? そりゃあ……』
ミステラが語る距離はすなわち処刑人の剣が届く距離だ。その距離によって彼らの運命は決まる。固唾をのんで聞き入った彼らの耳に届いた数字は。
『この世界ではだいたい四千七百五十垓キロメートルだ。ちなみに、垓って数字は一億の一億倍のさらに一万倍な』
なお、この場の誰も知らないが、この距離は地球人にとって観測可能な宇宙の半径よりも大きな数字である。つまり、この世界のどこにいても、それどころかこの世界の外側に逃げてさえも捕まるということ。
『わかりました。美馬土市条例第三十九号強制避難に関する条例違反者を対象に、大精霊を召喚しなさい』
美馬土市の条例である強制避難は避難していない住人を無理やり避難、あるいは処罰する法律。それゆえ、現在避難していなければ問答無用で裁判に引きずり込める。
『へいへいへーい。ほんじゃ、影と空の大精霊アメヌッコ。サービスとして犯罪者の目の前まで送ってやるよ。裁判の間だけな』
気のない言葉とは裏腹にこの世にあり得るはずのない異常が顕現した。
今までいたはずの屋敷はもうすでになく、広大無辺に広がる中空に誰もが投げ出されていた。横への視界は果てが見えない。だが上空にあったのは青空でも夜空でもない。
のっぺりとした黒い影が空に張り付き、うごめいている。その空は手が届くほど近くにあるようでもあり、同時に星よりも離れているようにも思えた。
下を見れば地面はなく、その代わりに青空が映し出されているが、なぜか歩くことも立つこともできる。
天地上下がまるで分らない。否。この空と影こそが大精霊の本体。空間の歪曲。それこそが影と空の精霊の能力。故に大きさや形を測ることに意味はない。
だからこそ小百合は遠く離れたこの場所に現れることができる。ゆっくりと視線を巡らせ、雫と目が合った。いや、目隠しをしているのでそんな気がしただけなのだが。それから雫の体の傷と、衣服の乱れを確認した。
突然現れた小百合に襲撃者たちは動揺を隠せず、ずんずんと近づいてくる小百合に後ずさるしかできなかった。
しかし襲撃者を完全に無視して跪き倒れている雫をぎゅっと抱きしめた。
「遅れてごめんなさい。でも電話してくれてありがとうございます。おまけに罪状まで整えてくれるとは。あなたも随分成長しましたね」
「お姉さまなら何とかしてくださると信じていました」
「それはうれしいですね。そんなに信じてくれているなんて」
固く抱擁を交わしながら誰にも聞こえないように耳打ちする。
(この空間は大精霊の力で生み出されています。召喚が終了するとあなたも私も元の場所に戻ります。何がありましたか?)
それに応えて雫も耳打ちを返す。
(私は今、ジャンス・アタナイという方のお屋敷にいます。この方々はお姉さまの仕事の敵対者かと思われます。人間のグループと異種族のグループに分かれているようです。花梨の行方がわかりません。おそらく塩と灰の精霊は何らかの詐術です)
事務的に、しかし端的に状況を説明しそれでお互いに了解した。時間は有限であり、ここで時を使いすぎることは名残惜しくとも許されない。
「ミステラ。雫はこの方々に襲われていたため避難を完了できませんでした。よって緊急避難が成立します。この空間から退出させてください」
『へいへい。面倒くせえなあ』
ぼやきながらも雫は青と黒の繭に包まれる。おそらくこれでここから出られるのだろう。
「お姉さま。また後で」
「ええ。すぐに会えますよ」
そうして雫はいなくなった。不気味な沈黙だけが残る。それを切り裂いたのはもちろん小百合だった。
「さて、と。最初に言っておきましょう」
襲撃者たちの反応は様々だった。
固まり、身動き一つとれないもの。祈りをささげるもの。命乞いの算段を始めるもの。冷静にこの先を見定めるもの。
だがそのすべては小百合を見ると吹き飛んだ。
息を吞むほどの美貌に氷のような笑みを浮かべ、青と黒の世界に仇なすような血のように赤い瞳がこちらをにらみつけていたからだ。
「遺言状の作成はおすみですか?」
彼らは自分の予想が甘すぎることをようやく実感し始めた。




