第二十七話 笑顔
「くそ! どいつもこいつも!」
愚痴を呟きながら男は屋敷を闊歩していた。
しかしだからといって彼が何かをしているわけでもない。ただ不甲斐ない異種族たちをなじっているだけだ。
そもそも彼はただの役員であり、何か特別な技能があるわけでもなく、ただ単に上司の命令でこの場に来ただけだった。
こんな修羅場になるとは想像すらしていなかったのだ。だがこの状況でさえまだ彼は楽観していた。少なくとも自分だけは絶対に安心だと誤解していた。なぜなら彼は人間だから。異種族は絶対に彼に手を出せないはずだから。
そんな常識が常に彼の頭の中にあった。
「こんにちは」
背後からのんきな挨拶が聞こえて彼は飛び上がった。叫ぶよりも先にそののど元に台所で調達した果物ナイフが突きつけられ、口を封じられた。
もちろん声の主は雫だった。もしも精霊を召喚しようとすれば言葉より早く凶刃がきらめくだろう。
「あなた方はいったい何者ですか?」
「お前、誰に向かって口を」
ナイフに力を入れるとそれだけで男は黙った。
「質問しているのは私です。やはり密輸の件ですか?」
そう聞くと男は露骨に体を震わせた。
「ち、違う」
その言葉を信じる相手がどれだけいるだろうか。
「あなたの態度を見ているとどうも異種族の方々とあなたは別のグループであるようにお見受けします。ならばそちらの集団についてだけ教えていただけませんか?」
雫は小百合が交渉する姿を想像しながらその真似をする。効果はあったらしく固唾をのんでいた。
「私も人間に仕えています。人間を敬愛する気持ちはあります。どうか、話していただけませんか?」
ぴくぴくと肩を震わせた男は……こっそりと手近な置物を掴んで雫に殴りかかった。その動きは見切っていたらしく雫はあっさりと躱した。
すると勢い余った男は置物の角にこめかみをぶつけ、運が悪かったのかしとどに血が零れ落ちた。
血を見てびくりと体を震わせる。恐れを悟られないように、平静に努める。
だが男は意外な言葉を投げかけてきた。
「何がおかしい」
「おかしいことなどありませんよ」
男の八つ当たりのような言葉だと、本気でそう信じていた。
「嘘をつくな。目隠しで顔を覆っていてもわかるぞ。お前。口元が笑っているだろうが!」
男が嘘をついている。
そう思った。
そう思った。
そう思った。
でも、念のために唇を触る。
それは。
三日月のように吊り上がっていた。
「え……? え? え? 私、どうして、笑って……え?」
自分が自分で信じられない。
血を見るといつも体が震えていた。怯えていた。怖かった。
本当に?
ならどうして笑っているの?
本当は。
血を見て喜んでいたんじゃないか?
「ち、違います。私、私は、そんなんじゃない。ちがう、違う……」
異常に狼狽する雫に男は困惑と恐怖が入り混じり、言ってはいけないセリフを言ってしまった。
「お前、頭おかしいんじゃないのか?」
その言葉を聞いた瞬間に男の頭を殴り飛ばしていた。
あたりの様子を全く気にせず、雫の混乱は激しさを増すばかりだった。
「違います。違います。違います。違います」
壊れたゼンマイ仕掛けのように同じ言葉を繰り返す。
「絶対に違います。私は、そんなに頭のおかしい奴じゃ……血を見て悦ぶような奴じゃ……」
よせばいいのに視線を横に向ける。煌びやかな鏡台があった。そこにはもちろん。
悪魔のような笑みを浮かべる自分の姿があった。
いいや。こんなものが自分であるはずがない。でも自分の顔をした誰かが雫の声でこんなことを言った気がした。
『じゃあなんで血を見て笑ってんのよ。この異常者』
間髪入れず鏡を素手で叩き割る。ガラスの破片が飛び散り、小さな赤い傷を作る。それを見てまた笑顔になる自分に愕然とする。
今まで血を怖いと思っていた。
でも本当は。
血を見て悦んでいる自分を隠すために、周囲と自分さえも欺くためにそんなふりをしていたのだとしたら?
花梨が言っていた。
私たちは自身の願いによって力を得たのではないかと。
なら。私の体が強く作られたのは……私の願いは血を見て悦ぶことだった? そのための力が備わっていた?
だとしたら。
私は、とんでもない狂人だ。




