第二十五話 逃走
雫はやや荒くなった息を整えた。それと同時に混乱した頭を整理する。
まず下手人たちは何者か。これは十中八九小百合の依頼人である石切貿易会社と敵対するグループだろう。それ以外に心当たりがない。おそらく人質にでもするつもりだったのだろう。
ただなぜ襲ってきたのかがわからない。小百合も密輸の方法についてはわからなかったはずなのだ。ならば放置しておくべきなのだ。なぜハチの巣をつつく真似をするのかわからない。
これだけの人数を費やしているのだからおそらく花梨にも魔の手は伸びているはずだ。もしかすると少女ともめていた男も仲間かもしれない。
そしてあの精霊はどうだろうか。多分何らかのトリックがあるはずだ。雫自身、以前立体テレビを使って精霊に見せかけたことがある。人払いのために精霊を偽装したのだろう。そうでなければ誘拐の真似事なんてしている余裕はない。
そこまで考えてこれからどうするべきか。
花梨を奪還するのは無理だ。敵の人数が多すぎるし、そもそもどこにいるかわからない。
では撃退するべきか。
手持ちの武器は念のために持ち歩いているワイヤーとゴーグルだけ。厳しすぎる。
隠れつつ、逃げる。それしかない。
避難所までは遠いが、鍵をかける暇すら惜しんで逃げ出した住民も少なくない。隠れ場所には事欠かない。事実、今雫はとある料理店に身を潜めていた。
だがそれは楽観だった。
複数人の足音が聞こえてくる。窓から外を覗くと先頭に犬の顔をした異種族がいた。
(コボルト。臭いで私を追ってきた?)
コボルトはとても嗅覚が優れていて狩猟の友として帯同することも多かったらしい。それでも何の痕跡も無しに追えるとは思えないのだが。ふと、右手の甲を見ると、一筋の傷から血が流れていた。ショーウィンドウを突き破ったときについてしまったのだろう。コボルトはそれを追ってきたに違いない。
だがそれは問題ではない。
(血……血……)
体が震える。息が荒くなる。歯がかみ合わない。
ダメなのだ。血を見るとどうしてもこうなる。冷静さを保てない。今まさに命の危機が迫っていても動けない。
しかし。
(しっかりしなさい竜胆雫!)
心の中でだけ、ほほをひっぱたく。なるべく血を見ないようにしながら素早くナプキンを掴んで右手に巻き付ける。
このままでは逃げ切ることさえ難しい。ならばまず敵をある程度削る。それから再び逃げ出す。
この状況を打開しなければ花梨が攫われたことさえ誰も気づけない。雫の一人きりの戦いが始まった。
ふんふんと鼻を鳴らし、追跡を続けるコボルトに対して薄い袋が投げつけられる。その中身がぶちまけられるとコボルトは針で突き刺されたようにのたうち回った。
その中身はスパイスの粉末だった。刺激物の塊であるそれらはコボルトの敏感な鼻の粘膜を崩壊させ地獄の苦しみを味わわせた。
しかしその代償として路地裏の向こうに雫の姿を見つけた襲撃者たちはいっせいに駆け出した。逃げる雫に対して圧倒的大多数である彼ないし彼女は……盛大にすっ転んだ。
路地裏に仕掛けられたワイヤーに気付かなかったのだ。
何が起こったのかわからぬ間に近づいた雫は麵棒を振りかぶり、襲撃者の足に叩きつけた。ただの調理器具と侮るなかれ。50㎝の長さと700gの重量をもった木製の棒だ。人の手足を容易くたたき折る凶器になりうる。
一人を行動不能にしたのちすぐに離脱しようとして、いやらしく笑う人間の男が目に入った。先ほど少女ともめていた男だった。やはりあれは芝居だったらしい。そしてその男の狙いを察知した雫は瞬時にゴーグルをつけた。
「器物損壊だ! 花と木の下位精霊アンミエ!」
濃緑色の花びらがひらひら舞う。これが彼の精霊なのだろう。
精霊が何かをするよりも先に反論する。
「この行動は正当防衛に該当します! そちらが襲撃しなければこちらは反撃しませんでした!」
「は?」
男はぽかんとしていた。まさか反論されるとは夢にも思っていなかったのだろう。
『契約者に対して該当する事項に対して説明を要求します』
精霊の問いかけは男に向けられていた。泡を食って弁明を始めた男を横目に再び逃走を開始した。
この反論には明確な穴がある。
それは雫が異種族であること。人権のない異種族では正当防衛は成立しない。だが雫はゴーグルで赤い目を隠し、ホムンクルスであることを隠した。目さえ見られなければホムンクルスであると見抜くのは難しい。
もっとも襲撃者たちは雫がホムンクルスであると知っているはずである。それを指摘しなかったのは単に男たちの知識不足だ。むろんそれを見越しての行動だったが。
雫は初めて法律を有効活用して自らの身を守ったのだ。
(少しだけ、お姉さまに近づけたみたいで嬉しいです)
思わず……笑みがこぼれてしまうほどに……喜んでいた。
だが雫の心の中の喜びを無視するかのように誰かが喚き散らす声が聞こえた。逃走劇はまだ始まったばかりだった。




